2011年5月21日土曜日

人生と出逢い 第3 回「海軍時代」<後編>

堤 健二(昭和19年 日本中学校卒)

佐世保航空隊通信部勤務

佐世保航空隊通信部勤務だというのですが、偵察にとって通信技術習熟は重要な課程なのは当然解っていることですが、私自身已に一分間五〇字以上打電、八十字は受電できて一人前と思うのに、何故佐世保通信部なのか解らぬままに基地入りしたのです。或いはその儘次は南方前線基地かも?など憶測しながら着任した訳ですが、なんとそこが日本で最高の三本通信塔を設置する、当時最大の国際通信基地であり、専ら外電の受発信と電文解読が主なる任務だったのです。例のハワイ出撃【新高山登れ】の暗号電文を参謀本部指示で作成、東京の海軍軍令部・呉総司令部山本長官経由発信したのもこの基地でした。ここでの私の仕事はドイツ語の電文解読が主要任務で、言うて見れば縦横数字の組み合わせから解読書に従いパズルを解くようにスペル化すれば良い訳です。この当時世界における暗号作成読み取りなど情報処理状況は前述した通りです。

海軍軍令部・呉総司令部・山本五十六長官

佐世保に在勤中のこの三ヶ月の当初は初めての任務なので緊張しましたが、結局慣れてみると、最も退屈な時期でもありました。但し暗号処理は後日鹿島空に戻っての偵察任務上でも勿論、生涯重要な技術として後日の為にも大変有用な経験をしたと思はれます。

昭和18年10月佐世保から空路霞ヶ浦空経由で鹿島航空隊に戻ってきました。半年ぶりの帰隊でした。階級は一等飛行兵曹になっていました。懐かしい思いも束の間、配属は偵察隊写真班ということで松林中の洒落た平屋建て洋式の兵舎に落ち着くと、直ぐ若い当番兵に案内され場内を一巡しました。この辺りは練習生時代に毎夕兵学校出の偵察士官付きの当番下士として毎夕よく通い知ったところです(お陰で当時訓練後罰直は殆ど知らず終いでした)。写真現像室・計測器類がびっしり装備された電送室・資料室・会議室・道場を廻り、外に出て射撃場の前から班居住デッキに入ると相棒の上等飛行兵曹が待っていて紹介されました。以後一年半任務を共にする、云うてみれば生死を共にする人です。

日本軍のボルネオ上陸作戦

案内される道々、当番兵からあらましの戦歴等は聞かされていましたが、陸軍のボルネオ上陸作戦支援で暁のラボウル発進、ボルネオ上空偵察行中に、対空射撃を受け火傷を帯びながらも奇跡的に母艦に帰還をしたという戦歴の持ち主です。顔半分が火傷で赤らみ引攣った跡を幾らか残し、幾分斜視気味に覗き込む面立ちは厳しいものですが、紹介されて挨拶するうちには、コーヒーを煎れながら、なんとも物静かな優しささえ感じる話し方をする方なのです。これからの相棒としていっぺんで好意をもちました。

夕食後同室コンパ等では時には案外よく話すこともありましたが総じて無口なので、凡そは一人で本を読んだり軽い何かの歌を小さく口詠んでいるといったタイプで、ですから飛行同乗の時以外はこちらも遠慮してあまり立ち入った深話しはしたこともありませんでした。山梨出身の乙種飛行練習生で私より少なくとも七年以上早い入隊だと思います。さすが鍛えられた身のこなしで同乗飛行中は人が変わった様にてきぱきと厳しく、ですがお陰で私自身は却って気楽に自分の任務に集中でき、全く無駄な事故一つ無く以後の約一年半に亘る任務を遂行出来たわけです。

偵察というと通信・計測・射撃・爆撃・写真・観測等多岐に亘りますが、先ず写真です。写真機はドイツのカールツァイス社製またはこれを改造した小西六社製で小型化とレンズ解像度アップが当時メーカーに課せられた最大の開発課題でしたが、操作する私達は如何に目標を的確に捉えて撮影できるか、また帰隊すれば直ちに撮影した航空・電探写真の現像・拡大焼き付けを済まして、電送部に渡さねばならないわけです。当時日本海軍の電探機(レーダ)は全く技術遅れの実験段階の代物で、アンテナの方向合わせや、感度の不安定な受信機で微弱な反射波を増幅把握するのに散々苦労し解析どころではありませんでした。開発遅れについては応化同窓生で浜松ホトニクス副社長の故鈴木佐喜雄君によれば、日本は増幅能力が低いマグネトロン応用開発で散々後れをとった挙句、態勢を改め、NHKの高柳健次郎博士がテレビー技術応用で参加したのがやっと昭和19年で、終戦まで結局間に合わなかったというのです。一方アメリカでは英国の方式を受け継ぐと共に増幅能力の強力なクライストロン方式でブラウン管画像化に直接取り組んだのが成功し、昭和18年度当初には既にブラウン管上で測距・方向探知・その映像化の点で充分実用段階に達していたようです。
国産マグネトロンを使用した二号二型電探機(レーダー)

かくて「連合艦隊司令長官山本五十六の死―偵察の任務」について昭和18年4月山本五十六長官がソロモン島上空で戦死したのもレーダー探知能力差により起きたことは有名です。そうした情報は少なくも海軍内では可成り迅速に、然も正確に情報伝達されていた訳です。それだけに偵察隊仲間内では大変残念がったものでした。但し、私には少々異論もありまして、本来偵察が操縦と同乗する場合は、操縦に運命を託した関係にあるのは事実です、ですが実務上から云えば操縦員に対し計器・観測・通信・補助銃撃・爆撃と多岐に亘って実務上も戦闘場面でも寧ろ主体的に援護しているのは実は偵察員と言うべきだと思うのです。ですから偵察員が予知と臨戦両面に優れた機能を発揮すれば、機体は安全に墜落することなく相手をかわして叩き、常勝の戦果を挙げれる筈です。

山本長官が同乗していた[一式陸攻]は大型でパイプ型の陸上攻撃機で、速度も確かに遅くて急な旋回・降下など到底無理な代物ですし、装甲もひ弱で戦争後期では、装甲・機能共に遙かに改良された米国機の攻撃を受けては簡単に火を噴いて墜落する状況が頻発しています。要は時代遅れの代物であった訳です。燃えてすぐ墜落するので[ライター]等と海軍内でも呼ばれていた代物です。でも緒戦ではマレー沖海戦で英艦プリンス・オブ・ウェールス、レパルスを轟沈し南方作戦でも長距離爆撃機として当初は随分活躍したのです。英・米・蘭・奥各国爆撃機をクラスト爆弾で緒戦に殆ど壊滅させたのもこの爆撃機でした。

富士上空を飛ぶ大型陸上攻撃機「一式陸攻」

私が言いたいのは[一型陸攻]の搭乗者定数は七名ですから、長官、操縦員を除いても偵察員の三~四名は少なくとも同乗していた筈ですし、夫々の偵察員が充分な機能を発揮しておれば撃墜されるはずは無かったと思うのです。長官をどうして安全に送還出来なかったのかと、私はその点不思議で仕方がないのです。その上、昭和一七年六月のミッドゥウェー沖海戦に続く一年間は、既に米空軍の圧倒的物量と高機能化による制空権下での厳しい戦いに追い込まれており、もしやその責任をとられての自殺行為?などとは考えたくもありません。矢張り近代戦についての知識も経験も不充分な幕僚達の存在の方こそ問題視してしまいます。

そもそも、昭和一七年六月五日~七日のミッドウエー沖海戦で何故圧倒的な優勢にあった第一航空艦隊が壊滅したか?実はそれがなんと重型巡洋艦「筑摩」から飛び立った水上偵察機索敵隊の索敵ミス、即ち索敵で飛び立ちながら雲の下を飛ばずに、雲の上を飛び、米国機動部隊を見落とし、これが逆に米国艦隊による奇襲先制勝利、即ち日本の主力艦空母・熟練した航空兵員の全滅に近い喪失と、以後敗戦への端緒に繋がったからなのです。

巡洋艦「筑摩」

確かに当時日本の暗号電文はアメリカ側に解読され作戦は筒抜けになっていたにしても、茫洋とした海上での闘いです、当時日本海軍の圧倒的な戦力では如何様に戦おうとも勝利のチャンスは充分あったのです。偵察での索敵技術・機器、幕僚達の航空戦略の不知、攻撃目標を米航空機動部隊かミッドウエー島軍事施設かの絞込の不徹底等々悪条件が余りにも重なりすぎたことが主たる敗因であったわけです。敢えて言えば山本長官の膝元にいま一人航空参謀の優秀な部下がいて、南方現地戦線における大胆且つ子細に亘る指揮をして居れば様相は全く一変していたとの思いです。以下鹿島空での忘れ難い出来事を記します。

① 特攻を見送る
昭和19年末のその日、航空隊内は、表面上は平生と何ら変わりない様相を保っていたが、将兵の胸はいよいよ今日という刻が来た!という武者震いに近い感情の高まりに包まれていました。私にとっても練習生当時の指導官であった三名の下士教員と予備学生分隊士(早大・明大・立大?)三名のいよいよ特攻進攻を見送るわけです。その分隊士の方々とは、私共が昨年飛行練習生でいた頃、普通科講義を受けたり、体育の時間に盛んに闘球の試合をした仲だったのです。

闘球は海軍独特の球技ですが、まあラグビーそっくりと考えて下さい。練習生は予科練時代から散々やっていますからパス・タックル・キック・スクラム孰れも技では予備学生の比ではありません。その上ゴーヘッド精神の塊です。歳も若いし鍛え方もですが、大事なのはコミュニケーションです。双方一〇名ずつで試合を繰りひろげ、最後にはみな芝生のグラウンドに大の字になってぶっ倒れ、寝そべって大空を見ながら語り合った仲でした。故郷のこと、家族のこと、音楽や文学のこと、涙が止まりません。彼等はやがて九州基地で結集編成後フイリッピン沖か沖縄へ出撃されたのでしょう。

特攻隊の出撃を見送る

爽やかな朝早くで、司令以下士官・下士官隊員が緊張した面持ちで整列して見送り、皆々明日はやがて自分のことだといった緊張感と、そして暖かく帽を千切れるほど振って見送ったのです。敬礼して出て行く彼等の表情はあくまで静かに見えました。(前夜、出撃前の指導班長・分隊士の訪問をうけ、我々練習生時代の同期八名も涙が止まらぬまゝ別れを交わしました。)

②艦載戦闘機グラマンの来襲をうけ先任下士と三重・土浦以来の戦友を亡くす。
鹿島空では昭和20年3月に第一回目のグラマン戦闘機三機編隊からなる襲撃をうけ、丁度飛行中の先任飛行下士(飛行時間四〇〇〇時間というベテランであるが穏和な兵曹長)が反撃応戦しましたが、偵察機では性能及ぶべくもなく目前で炎上撃墜され、その際飛行司令棟も爆破されました。これを皮切りに以後数回に亘ってP51ムスタング・グラマンF6Fヘルキャット戦闘機の機銃掃射と爆撃を受け、四月来襲時は丁度私も偵察発進直前にあったのですが、退避指令に従い飛行デッキより格納庫の陰に移動した直後ですが、私と共に待避していた戦友一名が、グラマンの掃射を浴び私の隣にいながら亡くなるというハプニングに出会いました。『バチバチ』という格納庫の壁を銃弾が突き抜ける音がして、私の横を曳光弾が機銃弾と共に数発飛び抜けた瞬時の出来事でした。彼は「あっあっ、痛っ」と叫んだのが最後でした。

P51ムスタング・グラマンF6Fヘルキャット戦闘機

③ 偵察任務の終了 
その頃ともなると鹿島灘沖合いには頻々と米潜水艦が出没し、何時米機動部隊と接触するかもしれないなど哨戒時の緊張は頂点に達していました。昭和20年3月初めよりは土浦・鹿島地区に対する艦載機による空襲は頻繁となり、五月初めには鹿島航空隊支隊である北浦航空隊が米艦上急降下爆撃機ダグラス・P51戦闘機・グラマン戦闘機の数次に亘る攻撃を受け壊滅しました。北浦空には私の飛練時代同期戦友が多数任務に就いていた筈なのですが彼等の消息については知る事が出来ませんでした。全滅か?ですが私達も丁度当時偵察飛行に飛び立ち機上より基地に送信、霞ヶ浦の仮格納庫に緊急待避して難を逃れたわけです。また夜間偵察飛行中の三月一〇日未明、東京下町空襲被爆、日立市・水戸市の被爆を観測し打電報告しました。下界が焼けると天上も焼け爛れるといった地獄のように見えました。当時父母達は工場疎開で、既に岡谷に移転していましたのでその方の心配よりは、寧ろ十数年も長く住んだ東京全体の焼失していく様が、銀座が、電車が、人々が目の奥に蘇り、どう仕様もなく悲しいものでした。

3・10東京大空襲を受けた焼け野原の帝都

④土浦航空隊がB29・三〇機の爆撃により壊滅
前述したように、当時私達は霞ヶ浦航空隊での飛行学生に対する艦上機初期訓練飛行同乗の任務に従って、度々霞ヶ浦航空隊との間を湖岸沿いに往復していましたが、その途次偶然ですが対岸にある土浦空が米軍機B29により絨毯爆撃され、壊滅状態になるのに遭遇しました。時に昭和20年6月10日早朝のことでした。土浦・北浦地区の被爆が壊滅的であったのは甲種・乙種飛行練習生・海兵出の飛行学生・予備学生飛行科など練習生が多数集中する地点なるが故に主要攻撃目標とされたと思われます。それにしてもどうして日曜日を選んで襲撃日としたのかその疑問は未だ以て解けません。日曜日の航空隊は半舷上陸で、従って隊員は半空き家ですから。


終戦

私は終戦を結局霞ヶ浦航空隊で迎えることになってしまいました。『終戦の日』その朝、任務予定に従い霞ヶ浦航空隊勤務に就くべく、鹿島空の居住デッキを出ようとして相棒の兵曹に合図しますと、彼が「おい!昨夜何か解らんが、『天皇陛下』の玉音放送がある言うて連絡があったぞ、なんだか変だなあ」と緊張気味でしきりに考えている様子に、私も『もしやとピンッ!』ときたものがありました。私は前日も霞ヶ浦空からの帰隊が遅くなりその情報は全く知らされていませんでしたが、広島・長崎に特殊爆弾投下(原子爆弾という強力な爆弾の噂)で大規模壊滅のことは霞空でも知らされていて、多分全土壊滅はもう時間の問題という密かな話は聴いてましたから。

宮城前で玉音放送を聞く市民

前にも申しましたが水中特攻については土浦時代の昭和十七年五月始め段階で既に同期の志願者五名が私の分隊からも発進しておりましたし、然もその時既に珊瑚海・ミッドウェー沖海戦(※1)が壊滅的敗戦【後日確認:戦術の誤算により主力空母四(赤城・加賀・蒼龍・飛龍),重巡一、飛行機三百数十機、搭乗員三百余名の当時海軍選りすぐりの将兵人命の損失という壊滅的打撃】だとの情報も密かに流れていて、戦局の見通しも容易なものではないと凡そ察しは着いていました。以後戦局は益々悪くなってゆき、海戦毎の敗北と玉砕の続くなか、昭和二十年に入っての頻繁な米機B29・P51グラマンの来襲を見てはいよいよ覚悟の時が近づいていると肌身でもはっきり感じていたのです。

※1ミッドウェー沖海戦の構想は山本五十六連合艦隊司令長官が開戦当初に予定した作戦で、開戦当初先ずハワイ沖海戦で米太平洋艦隊を壊滅させ、次にミッドウェー沖で米国残留艦隊の殲滅を図り、続いてミッドウェイ・ハワイそして米国西海岸への接近攻撃という電撃作戦の中で、昭和17年末迄には戦争終結の講和に持ち込む、というこれこそ当時の日本軍戦力と国際的立場を考慮した唯一生き残りうる道であったと云われています。昭和17年5月当時、自己申告に際し私は水中特攻参加には×と申請しましたのは『“矢張り戦うなら当初希望どおり機上で!』と自身で決めていたことですから。それが生死とどう繋がるかは別問題だったのです。

元々海軍を志願したのも飛行兵として自分を鍛え、負けを知らず生死も超越した『不退転』の人間として、己を磨き戦い抜く事が第一義だったからです。また飛行任務に就いてからも、分隊長からの発進訓辞に当っては『身体は替え難いものである必ず偵察任務を遂行したら帰ってくるように』とその都度言われ続けてきました。又実際にも海軍は開戦時においてすらも兵力が陸軍の半分だったのです。ですから昨年(昭和19年)暮れに当隊第一回特攻を見送ったときも、心中何としてでも万策を尽くして帰ってくれと祈ったわけです。私自身も孰れはとの覚悟は決めていても、矢張りどんなことがあれ生帰はすると決心していました。

霞ヶ浦航空隊にて飛行学生との初級同乗飛行任務

ところで昭和二十年三月頃ともなると、偵察進発の方は、日本近海への米機動部隊接近による米国艦載戦闘機襲撃も頻繁となり、海上に散らばる監視艇隊からの連絡も途絶えがちで、おまけに搭載レーダーも機能不足のため偵察発進は殆ど不可能の状態で、一日二回程度の最低巡回すら満足に果たせなくなっていました。そうした折、霞空での練習員搭乗飛行の同乗任務となった訳です。相棒は海兵出の飛行学生・予備学生飛行練習員との発着訓練ですが、彼等は三ヶ月の練習機課程を終えると、続けて一応戦闘機・艦攻機・艦爆機・水上機要員に分かれて各地実戦航空隊基地で三乃至六ヶ月の実用機課程を経、いよいよ九州地区特攻基地からの発進待ちとなるわけです。練習員総勢は約五〇〇名、一〇〇名宛一次、二次と順次訓練を受けるべく待機し、ですから私も彼等の第三次飛行練習終了の八月に偶々終戦の日を霞ケ浦航空隊で迎えることになってしまったわけです。

今も現存する海軍霞ケ浦航空隊の格納庫

霞ヶ浦航空隊にて終戦を迎える

その日、忘れもしません霞空に到着すると、司令本部の前も搭乗員控え室も“がらーん”として誰もいないのです。そして整備員が「命令で皆々居住甲板に待機してます」と言うので私も控え室に待機したのですが、それにしても隊内の静けさは異常で気持ちが悪いほどでした。空は青一色に拡がり、じりじりと日焼けする滑走路を眺めているなか、やがて拡声器から玉音放送が流れそして終わったのです。本当に終わったんだなあ!と皆々力が抜けてしまったようで、それでも未だ何か期待したいような顔でひそひそと話し合うぐらいしか出来ませんでした。これからどうなるんだろう?とそれは日本国中が同様だったと思います。

でも航空隊内の翌日からは少し様子が違って来て、ガンルーム(Gun Room)の若手士官達の一団は抜刀して昼夜航空隊内各施設・兵舎を巡回し「我々はこれからが本当の戦なのだ、降伏はしない」と叫び、つい『終戦』とか『敗北』とかの不注意な発言をした兵員が「態度が悪い、不忠者!!」と殺害されたり手傷を負わされる事態が一週間ぐらい続きましたが、憲兵隊・甲板士官の鎮圧と巡察でやがて平穏に戻りました。米軍本隊の本航空隊進駐の噂など流れるなか、毎日書類の焼却が続き、やがて兵員の帰隊整理・隊内設備・備品処理など終戦処理作業が次々と何の混乱もなく静かに進められ、何かボーと八月が過ぎる間には殆どの士官・兵員は思い思いに引き払ってしまい、がらんとした霞ヶ浦航空隊で、実は私は少々貧乏籤を引かされたわけです。鹿島空以来の知己の間柄であった整備分隊士(当時准士官、後に警察予備隊から自衛隊教官)に、米軍引渡しまでの機体解体と機器整理の手伝いを依頼されたのです。彼は私が少しは英語が解ることも期待したからです。

上空から見た海軍霞ケ浦航空隊

そうこうするうち九月初旬には早くも米第八軍先遣隊が進駐してきて、非軍事化指令による武装解除作業が進められ、その年の十二月初め米軍接収隊本隊が到着し、やっと引渡が完了した訳です。その後私物引き取りで鹿島空にも一度戻ったのですが、霞空より更に閑散とした無人に近く、伸び放題の草木に覆われたその佇まいには、本当の敗戦の姿を見たような気がしました。十二月五日霞ヶ浦航空隊を後にして帰郷することになり、その時点で、特に軍人であった者が今後どういう扱いを受けるのか、いずれは敗者であれば何らかの裁きがあるのでは、と思いましたが見当も付きませんでした。

霞ヶ浦航空隊で整備科分隊士と別れるときに、彼は「何らかの形で日本陸海軍の将兵は温存される」と言う情報を入手していて、声を掛けてくれたのですが、私は元々軍人になる気はないので断りました。接収進駐の米軍将兵数人が妙に親切で馴れ馴れしく、笑みさえ浮かべながら紳士的に手を振って送ってくれるのが寧ろ腹立たしく、負けた悔しさが胸にじわっと突き上げてくるのを感じました。日本本土は至る処焦土、国を守ろうと純粋に闘った戦友は皆戦死。そして生き残った私は命懸けで何をするのだ?これから一体どう復興し評価され、賞さるべきと処罰さるべきとを誰がどう判じるのか?兎に角私は今、体力、気力、判断力は充分あるがどう生きるべきか?

第4回「復員・・・岡谷-それは交響詩の故郷」へ続く