2012年1月19日木曜日

人生と出逢い 第6回「大学学部~応用化学科へ進学」<後編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

大島紀行記―三原山大爆発―

応用化学科の山下博万君、瀬川幸雄君、中山不羈君、そして亡くなった二村隆夫君、私の五名の写真班主体で昭和二十五年七月に伊豆大島旅行をしました。確か瀬川君の日本橋の家をはじめ各君の家を回っては夏休み前麻雀の勉強会をしながら決まったように記憶します。旅行の顛末は、私の兄が当時東京都大島支部転勤で元町官舎に居り、此処を拠点として五泊六日の計画でした。伊東港発で大島元町港の沖合に近づくほどに三原山十年ぶりの噴火開始を望見したわけです。遙か大島の三原山と覚しき辺りに煙立ち込め、やがては青一色広がる大空に、もくもくと噴煙が流れゆく眺望は自然の神秘を見ているようでありました。

噴煙を上げる伊豆大島・三原山

元町港埠頭先にある牛乳風呂に皆飛び込み、フルちんのまま風呂小屋の屋根に上ると感動の余り『おうおう!』と叫んだ者もいました。山は噴火の影響か曇りから雨が続き中々登れないし危険と云うことで通行禁止になってしまったのです。やがて明日は登れるぞと情報が入り、火を吹く三原山に登りました。途中閉鎖中の気象観測所(野生の山羊が十数匹暢気そうに小屋替わりに住み込み)を経て、一刻も早くこの大自然の鼓動『火山の大爆発、いや運が良ければ真っ赤な大溶岩流』を見なければと、椿に覆われた狭い山道をあがること二時間、遂に頂上の外輪山避難小屋(洞窟)まで辿り着いたのでした。しかし肝心の火口に近づくのが大変で、火山は間歇的に爆発を繰り替えし、その度に火山弾塊が火口遙か上に吹き上がり、火口壁付近に盛んに降るので危険この上ありません。然し爆発のタイミングを看ながら一気に外輪山から火口壁まで駆け上がると、そこは鼻を突く硫黄臭に覆われ、タオルで顔半分を押さえ乍ら暫し火口内溶岩流を覗き込むこと暫し、赤黒くときに火花を散らし『ぶっすんぶっすん』と音立てて煮えくり返る様はまるで地獄の様相と相見えた感でした。そして時を移さず、一気にまた外輪山まで逃げ帰るのです。脱兎の如く後ろを振り向かずにまっしぐら!

昭和61年の大噴火。昭和25年の大爆発同様の凄まじさ。

日を替えて翌日、火口から岡田港に向かって流れ始めた大溶岩流を見に行きました。やがて海に落ち込み水蒸気爆発を起こしている幅二、三十米真っ赤な溶岩流を、そのすぐ横で、表面は黒くても未だ熱々の溶岩台地の上に立ち乍ら、眺める景観とスリルは素晴らしい思い出です。さて地獄のような火の山を降りると、そこはもう平和一杯の農漁村、土産物店と居酒屋が港の波止場近く迄迫り、我々の日課は、打ち連れて毎夕刻からの伊豆七島名産鮮魚料理と、各島それぞれに自慢の焼酎無料試飲を楽しみ、締め括りは港を囲む松林中、海風も爽やかに四阿での麻雀に興ずる毎日でした。

大島・岡田港

五十年後の壮挙―三原山再探訪記―

以後の大島
我々が大島旅行をした後の事ですが、昭和四十年、元町の港近く寿司屋からの出火が原因で全焼に近い大火、昭和四十九年小規模噴火、昭和六十一年の全島規模の大噴火、そして平成二年小規模噴火を境として以後三原山は沈静化しているが、旅行以後五十年の歳月を経ては元町始め全島の変貌は如何様かと思ったりしていた訳です。

五十年後の壮挙
そして応化同窓会の席上で山下博万君と酒杯を交わしているときだが、突然大島再度探訪の話を彼が提唱して来たのです。前回同行のメンバーでと言うので、早速二村君、瀬川君共に賛成してくれ実施と決定。中山不羈君とはアメリカ出向一来連絡がとれないまま、山下君、瀬川君、二村君そして私の四名で再探訪と決まった訳です。往きは熱海港発となり、埠頭近所極ウマの鉄火丼をビールで乾杯しながらのスタート、そして出港。昔の思い出をなぞらう懐かしい旅の始まりでした。

現在の伊豆大島・元町港

外輪山から火口壁のあたり、更には元町の面影どこもかしこも全く様相が変わってしまって。まあ考えてみれば当然のことで、あの後の継続する噴火・海まで流れる溶岩流・元町を全焼した大火・旧火口どころか島全体に及ぶ第二次大噴火の試練を経た今日ですから。失われるものあれば新たな発見あり、でも学生時代昔の伊豆七島焼酎の居酒屋がまた再開して大繁盛していたり、行き届いた観光ルートも加えて、夫はそれなりに昔と懐かしく対比しながらの三日間の旅は無事終わったのです。ゆっくりと歳を数え乍らの旅でした。

伊豆七島・島焼酎

「人生時に遊び乍ら友を識る」。共に旅行をして初めて気が付く事ですが、五十年間を経ては、友人達の老いての大成、健康では山下君の糖尿病の進行とか二村君の少々元気すぎる体力ぶりなど気使うこと等々です。そしてこれは後々の旅行の楽しさと共に思い掛けない別れをも示駿するものでした。数々の旅行死別等々。

新たな旅行への出発
さて、この日を基点として新たな何回かの旅が私達四名の前に始まった訳です。軽井沢・草津紀行、塩原、箱根、富士五湖周遊等々と愉快な素晴らしい数年間を過ごすことが出来ました。二村君が健康のためと軽井沢別荘で毎週土曜日課としていた二㎞強泳中に突如亡くなるまで。ですから今は中断していますが、やがて再び二村君がよみの国から帰ってきて『よう!一寸用事があってね。また何処か旅行に行こう!今度は何処にする?』と声を掛けてくるのを待っている気分です。

スキー旅行

スキーについての少し古い話をしますと、冬季オリンピック第一回開催は大正十三年(1924年)フランスシャモニー・モンブランでしたが、日本は大正十二年関東大震災(1923)直後で不参加。しかし日本のスキー熱は昭和初め頃から可成り盛りあがり、私が始めたのも昭和八年(1933年)六才のこと。小学生仲間では未だ珍しいスポーツでしたが、ねだって伊勢丹で買って貰い、新品のスキーを穿いては、当時雪のよく降る東京の坂道で盛んに滑って遊んだものです。

堤氏が山スキーで腕を磨いた雪の霧ヶ峰ゲレンデ頂上。八ヶ岳と富士を望む。

本格的に滑り始めたのは岡谷からで、塩尻峠・霧ヶ峰高原周辺で地元山岳部員に混じっての軍用幅広の山スキーでした。昭和二十四年早大学部にはいってからは、交通公社のスキークラブに入会し、同級の白木君も会員になり一緒に石打ヒュッテを皮切りにツアーに参加し赤倉丸池等々検定を受けては三級まで進みながら卒業まで続けました。応化同級の角田君・佐藤君等も参加したことがあり懐かしい想い出の一コマです。磐城セメントに勤務してからは、本社が栃木県葛生で長野信越国境に近く、冬金曜日の夕刻から土日の二泊三日で何度か石打に早大出身の川端氏とスキーに出かけたものでした。

友人達に思うこと

応化のクラス会は卒業以来何と毎年欠かさず催行され、毎回殆どの友人が集まるという本人達ですら愕く記録を更新してきました。敗戦後という苦労の年月に共に学び、荒廃した社会に出ては、誇り高く世のため己のため戦い抜いてきた、言わば戦友の様なものだからでしょう。皆賢くも解っているのです「楽を求めず、困難を怖れず敢えて力一杯挑戦すればこそ、次の更に充実した人生が開けるのだ」と。ですから彼等と共に居るとき、苦労話など絶えて聞いたこともありません。敢えて皆苦労に挑戦して生きてきた同志であり、いつも実に楽しく生き甲斐を共有できる仲間なのですから。そして皆愕くほど元気なのです。その仲間も今や八十路を少々越す年代ともなれば、近頃はぽつぽつ欠ける者も出てきて少々寂しさを感じている昨今です。ですからこの頃の同窓会では、皆元気であってくれと専ら健康法のPRに極力努めているわけです。長生きのため腰痛など起こさぬようにと。

関西・九州工場見学旅行    

卒業の前年昭和二十六年夏、大坪先生引率で私を含め希望参加者七名、大阪を皮切りに中国地方から九州八幡製鉄に至る工場見学旅行に出発した。行く先々の会社事業所で、先輩方の精一杯暖かい歓迎会・懇談会など気遣いが感じられる等世間を学んだ旅でした。研究者で格好よい先輩もいれば、地味な現場業務の作業服で対応される方と様々ですが、それぞれ環境は異なれども、結局ご自身というものを『如何に精一杯磨き、如何に実力を発揮させて居るか』ということをその姿、話に学びました。

新日本製鐡・八幡製鐡所・東田第一高炉

全般的に見学企業は、概ね敗戦からの復興に丁度起ちあがり、開発の機運に燃え立ちつつあったのですが業態も様々で、私たちへの対応も、大宴会で歓迎してくれる企業もあれば、寮の狭小な小部屋に宿泊させ、従業員食堂で質素な食事で対応する企業等々様々でしたが、それなりに勉強になった訳です。因みに参加者は古平君、二村君、山下君、打矢君、歌門君、白木君、そして私、ところで失敗談をひとつ・・・


 
宇部興産割烹旅館での酩酊・失敗

この一夜は、大坪先生の級友で且つ会社役員の先輩肝煎りでの大宴会となり、不覚にもつい飲み過ぎた私はトイレに立った迄は憶えているのですが、倒れて便器一式破壊という大珍事を惹き起こしながら、眠り込んでは知らぬ間に介抱されると言う体たらく、旅館中にも有名になるやら、同行の皆さんに迷惑を掛けるやらで、今迄実に六十年間、否、一生忘れられない日となり、恥ずかし乍ら酒を飲む時の戒めとしています。葉隠でも「酒と言う物は仕上がり綺麗にすべし」とあり仕上がり綺麗と凛とした武士らしく飲めとの誡めです旅行後故里へ。

旅行は八幡製鉄見学で終わり、皆さんは思い思いに連れ立って長崎・雲仙・熊本・阿蘇と観光旅行を続けられたようですが、私は別行動で福岡瀬高に向かい、自らも親戚中からも『女傑』と認められた叔母を訪ね、大牟田から佐賀一帯の親戚(父は久留米大善寺村、母は柳川橘、叔母、従兄弟は瀬高、佐賀等筑後川域)を紹介されながら挨拶廻りをして来たわけです。

筑後川

工場見学と言えば社会勉強もありますが当然来年の就職の参考も兼ねてということでもありますが、当時私の就職先については、既に種々コネを介して磐城セメント・三井電化・宇部興産・富士ゼオン・八幡製鉄などの話しが候補に挙がって居り、そろそろ具体的に決めて対応せねばならぬ処に来ては居たのですが、一方胸の内では寧ろ東京周辺の製薬会社とか病院勤務のイメージの方が自分には相応しい様な気もして居た訳です。家の事情、老弱男女人の引っ掛かりもありましたから。

宇部興産珍事の後日譚

この旅行の後日譚となりますが、例の私が飲み過ぎ失敗をした宇部興産の専務さんから、突然九月下旬に、明日大坪研究室を訪問されるという電話連絡があり、用件は私の宇部興産入社の件で、姪子さん同行で大坪研究室に乗り込んでくるとのこと。先生は「どうするかね?あの専務の姪子さんじゃあんまりなぁ!・・・」と微妙な表情で私を見詰められる(美人ではなさそうと云うことか?)私も首を傾げるしかない訳です。そこで先生は決然と「いやならいっそ会わない方が良いかも互い!本人不在と言っておくからね」と仰有って呉れたのです。そしていよいよ当日、ドア越しにそっと姪御さんは如何?と私も気に掛かるし男ですから覗いてみたのです。可成りすらっとした美人でした。残念!


大坪研究室(大坪先生と加藤忠蔵先生)

江戸っ子金座の出の大坪先生

先生は江戸時代から代々日本橋金座(銀座)小判作りの家出身で、いわば父子相伝の錬金術師と云うことです。早大出の教授中では最先任でもありますが、独自研究論文の無機反応講義最中でも、熱が入ると本格的なべらんめえ調がでて先生も思わずにやりとしたものです。
 
     応用化学科・大坪研究室(右から2番目が堤氏・4番目が大坪先生)


卒論は大坪研に決定

昭和二十六年が明けて早々、打矢君と一緒に本郷の先生宅に呼ばれ、大坪研での卒論研究員を打診された後、夕食会では、気麗しい奥様や色白の双子のお嬢さん方まで紹介され、今思い出しても『ちょっと怖いが実は気さくな江戸っ子』という感じでした。そして本郷のお宅を辞去した帰り道、打矢君は既に観念していて「大坪先生じゃ仕方ないかな!」と呟き、私もその時を境に当面「有機合成化学研究」への思いはすっぱりと消し去り、無機化学工学の世界へと全力取り組むことにしたのです。勿論永い一生のこと何時有機の世界に取り組む機会も来ないじゃありませんが。

そして学部四年生になり大坪研での卒論取り組みが始まるや、覚悟はしてましたが、先生の卒論指導の厳しさは、成る程錬金術師代々の出自だけあって『ケミスト』の貫禄充分と納得しました。早稲田応化の創始者小林研究室の跡を引き継いだ大坪研究室は応用化学科本館入り口直ぐの一号研究室大坪無機研と、燃料研究所の加藤研の双方を指導していましたが、結局卒論では大坪研の方は私と荻原君、加藤研の方は打矢・佐野の両君と分かれて別個に指導を受け、殆ど交流は無かった訳ですし、大坪先生とは子弟関係の加藤忠蔵先生も、主として燃料研究所に居られなかなかお目に掛かる機会はありませんでした。

三月初旬に学生全員の卒論発表会が行われ、教授陣による質問・論評そして合否判定を以て全学習完了となり全員無事卒業となったわけです。大坪研・加藤研では卒業後は結局無機屋の荻原君は特許屋に、燃料研の佐野君は日本石油社へ、打矢君は硝子専門屋で小西六写真社に、私はセメント専門屋としての生涯への第一歩を皆それぞれに踏み出したのです。

先生方論文発表前の論争に学ぶ

そんな卒論期間中のことですが、ある土曜日の午後、私の卒論テーマは“ピンクセリサイトの成分特定と応用”というまあ化粧品開発に近い様なものでしたが、卒論の纏め方で大坪先生の指示を仰ごうと先生の室に入ろうとしたときですが、ドアの向こうから突然、激しく議論を闘わす声が聞こえてきます。それは大変激しいもので、まるで口論中今にも掴み掛からんばかりの調子なのです。

早稲田大学・旧図書館(設計:日本学園OB今井兼次博士)

私はビックリしてそっとドアの端から部屋の中を窺ったのですが、なんと大坪先生と加藤先生が研究結果について激論を闘わせているところだったのです。学者・研究者とは同室の子弟の間でもかくも激しく、容赦なく理論闘争を展開することが必要なのか?と普段は温厚な恩師達にかく思いも寄らない一面もあるのだと改めて学ぶ思いでした。多分学会で加藤先生が重要な研究発表をされる予行練習だったのではないかと後で思ったわけです。これは私にとっても後に何回かセメント協会での研究論文発表に際し、他社主任研究員、場合によると研究所長などとの激しいやりとりの場合にも大変役に立ちました。我が研究は発表する以上はそれなりの準備をし、一歩たりとも譲ることは許されないのですから。さて話を加藤先生に戻します。

磐城セメント見学

加藤先生のお供をして、卒業前の夏休み(昭和二十六年八月)に磐城セメント本社・栃木工場の見学に出張しました。当時大坪教授が技術顧問をしておられる関係で、早大出身技術社員採用を考慮してか?磐城社技師長(東北大)、本社総務部長(早大)、栃木工場次長(早大)の段取りで計画されたもの。当時磐城社の本社・研究所並びに栃木工場は栃木県葛生町というとんでもない山奥で石灰の町に所在し、他に六工場が全国的にフル稼働していました。

東武・佐野線・葛生駅(葛生町は合併して現在は佐野市)

大変な黒字経営で、そして三菱または住友財閥系列参入と資金調達を前提とする羽鶴ドロマイト工場建設(新日鉄高炉稼働対応)、電発ダム建設対応では浜松・岐阜更には福島と最新鋭大型工場(ドイツ・レポール社開発)建設計画が、当時既に一部着工と図面引きの段階に入っており、優秀な技術、事務社員の大量採用計画も進めていた訳です。さて案内も懇切丁寧な見学終了後、会社直営割烹旅館で同社の早大先輩方との懇談会が催され、席上諸々の話の末に偶々株の話になりますと、なんと加藤先生が株価を殆ど覚えておられ、次々と言い当ててゆく記憶力には私よりも先輩方の方が感嘆してしまう一幕もあり、未だ世知辛い世でした。

猿井先生は呉系楚人『秦氏』子孫か?

世知辛いと言えば大坪研分析室で今一人忘れられない先生はというと、分析試薬使用に対し細かく厳しく、然し散々実験の度に世話になった猿井先生です!一寸ニヒルな容貌で、でも実はとても暖かい方だったと思います“分析のために生まれてきた人”といった印象でしたが。大坪研で卒論が終わる最後までそうでした。

実は私は姓名と職業の関係には多少興味を持っておりまして、姓名学的には猿姓は秦氏【渡来人で呉系楚人:秦王の命令で「上海」近辺の呉より孔子の故郷、山東半島「楚」に移動した民族ですが、秦始皇帝の国家統一(BC206年)の際、『万里の長城』建設の為に遼東半島に移民させられ、建設終了直後の毒殺難を避けて高麗国へ、その後新羅を経て日本に渡来】の出として紀元前より倭の産業・技術発展の主流を成したといわれ、例えば持統女帝の支持勢力として秦氏は伊賀・甲賀(後の忍者)・浜松地域で養蚕・織紡を始め各地で薬種・薬品・染色・窯業・兵術・忍術を、飛騨地方では木工・土工、京の瓦・焼き物工などなど倭国の殆どの技術職に従事し強大な集団勢力を誇っていたと伝えられます。

万里の長城

流れとして現在でも各種技術者・特に化学系・メッキなどの技術者に多く見出されます。猿井先生も若しかすれば秦氏の子孫で、伊賀忍者の故郷伊賀上野辺りの出身ではと、以前から一度確かめておくべきだと思いつつ今日に及んでしまいました。

亡くなられた友人達のこと

鈴木佐喜雄君とは私が住友の浜松工場に勤務している頃(昭和三十五年頃)、浜松ホトニクス勤務なので一度会いたいと連絡を戴いたのですが、私の方が忙しさにかまけて、その内には彦根転勤などで遇わず仕舞いでしたが、本社リサイクルセンタ新業務に着任後はシェアーが全国的な展開となり、電子系新素材活用の件で本社研究所の者と同行し、会合の機会を持ちました。以後数回訪問・懇談することがありましたが、当時彼は技術系常務で会社発足当初からのトップ、光倍増管の開発に関して、例のテレビ開発で有名な高柳博士の指導をうけていた関係で、戦時中の海軍飛行機搭載レーダ性能の悪さとか、終戦直前の高柳博士の開発取組の経過実態などよく知っていて話してくれました。

高柳健次郎。大正15年、電子式テレビで
世界で初めて「イ」の字を映しだすことに成功。

高柳博士は浜松ホト創設当初からの顧問で光電技術開発に関与された訳です。鈴木氏の専門は光電増幅管技術で、例のノーベル賞受賞者小柴さんの宇宙線粒子に関する実験設備の総ては、彼が開発から一切を担当した画期的な仕事であり、若くして残念ながら前立腺ガンで亡くなりましたが、生きて居れば彼もその受賞の栄誉には当然預かった筈でした。彼は温厚篤実な人柄で、私が千代田社技術顧問時代に、新日鉄MRI開発担当者と同行した際にもホトニクス社長、副社長を紹介され懇切な対応を戴きました。

田中守君とは分析実験で同じテーブル。彼は分析が素早くさっと終えて後、手帳に書き込んだ外国フォークとか民謡を口遊さんでいて、横にいる私にも何曲か教えて呉れたものです。「これこれ!」と例の手帳を見せ、なんと英語の歌がびっしりと書いてありどうだと言うのです。その時彼から習った歌は“You are My Sunshine”とかJingle Bell”に始まり十曲余り、今でも忘れません。その後も一人の時、或いはコンパで飲んだ時にはよく口遊びしたものです。気さくで明るい友で、何故か早世されたのが何とも惜しまれます。

本田尚士君のこと

高等学院に入った頃、父は東京発動機社の方針でオートバイ販売部門を独立関東発動機の社長になり、日本オートレース協会の会長をもしていました。その当時の副会長が本田宗一郎氏であり、会議などの帰りには接待用に経営する料理屋で一緒に会食するのが常でした。私も父に云われて三回ほど同席させて貰いましたが、当時は浜松の町工場社長然といった大変磊落で、好く飲みよく遊ぶと言った人柄で、しかし夜中どんなに遅くなっても、さっとオートバイを跳ばして、当時未だ真っ暗な東海道を箱根声で必ず浜松に帰るような人でした。

スーパーカブに乗る本田宗一郎氏

その本田社長が『自分の親戚で本田という者が早稲田高等学院にいるはずだが』と父に云ったというので、偶々その頃私は本田君と学院の校庭で出遭ったので『やあ!』と私が声を掛け、本田君も笑って『やあ!』と返事したので解っているのだと独り思い込んでいた訳です。確かめもしないまま本田尚士君が宗一郎氏の縁戚者本人だとばかり思い込んで何十年もいた訳です。ですから本田君が優秀なのは当然としていた訳です。本田君は陸軍幼年学校生え抜きの武人と言ったところですが、早くから化学工学関係技術士の資格を取得し、本田創造工学研究所を設立し、技術士育成と国内外のコンサルタント業務に生涯専心務めた鹿児島出身の人でした。従ってまた卒業以来殆ど本拠は東京に置いていた関係で、彼の事務所は同窓生達にとっては連絡事務所の感すらあり、上京の折には多くの者が気楽に立ち寄り、また応化同窓会は彼の努力により卒業以来欠かさず毎年実施されてこられた訳です。今は彼が鹿児島に引っ込んだ後を受け継いで、結局私が同窓会を段取りさせられていると云うことです。

早大を巣立ちいよいよ社会へ

敗戦から復興へ―己を振り返る―

明治生れで三井に育った父から、幼いなりに人権と科学重視の生き方を教わりつつ、やがて父に薦められて入学した日本中学では日本主義と、郷土佐賀の「葉陰武士道」を骨格とする日本人としての倫理観を自覚した。そして時勢が国運を賭しての対米戦争へと逼迫すると、私は海軍航空兵として戦士の路を選んだ。然しそれは智力・心身共に不撓の軍人としての鍛錬を共にした戦友教官等数え切れない方々の戦死と、国土の壊滅を目前としつつも、一握りの生存者中の一人として敗戦を迎える結末であった。次いで岡谷での再起、それは晴耕雨読の日々、自然と一体となった本来の己に立ち還る再生であり、ニーチェら諸哲学・倫理観は再生への不動の魂を育ててくれた。国の再建への自覚はやがて早大での先端技術者を目指す勉学の日々となった。早大は佐賀鍋島出身の大隈候が『葉陰』の倫理観を基礎に創学された学府とも云えよう。その精神「学の独立、学の活用、模範国民の造就」を以て、今、国の敗戦からの再建そして世界一流を目指す飛翔点に私も立ったのです。

愈々社会へ

敗戦から起ちあがり、今一度世界一流を目指さねばならない国の第二ラウンド、思えばそれはあの終戦の翌日から既に始まっていたのです。大戦で亡くなった三百万とも言われる犠牲者の無念にも応えるべく、今生き残った者がナンとしても成し遂げねばならぬ日本人全てを捲き込んでの大事業なのです。私にとっての基本路線は飽く迄「徹底した人権と科学重視社会の実現」ですが。

そして今私も第一歩を社会へ向かって踏み出そうとしています。会社選択の詳細経緯は次項で述べるとして、孰れにせよセメント会社磐城社の入社が決まった以上、これを起点として力一杯国の再建を担ってのスタートと自覚すべきことです。未だ全くと言って好い未知のセメント・コンクリート業界ですが、己という人格とそこに培われた独自の技術力を、精一杯創造に生かす人生でありたいと誓っての出発でした。強大なダム建設をイメージしつつ、やがてそこから芽生える筈の先端産業と科学国家再建への情熱に燃えた出発でした。


201112月初旬・錦秋の母校にて。

7回・前編「セメント屋―先ずダム屋から―」へ続く