2013年2月8日金曜日

人生と出逢い 第7回「セメント屋・先ずダム屋から」 <後篇>


堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

(4).彦根・多賀工場時代

1彦根・多賀転勤の経緯

私が浜松工場に着任したのは昭和二十九年でしたが、それから多忙な勤務の日々とは云え十二年も経つと『そろそろ何処か他所の工場に転勤し気分を変えて見るのも好いな!』など贅沢な思いがふと胸をよぎる昭和四十一年、新浜松工場長が赴任してきました。私が磐城セメント入社時、栃木工場で生産課直属の上司課長であった方です。着任するとすぐ呼ばれての冒頭の言葉は『私がここに来たのは君を二年以内に転勤させるためでもある」と笑うのです。そして即刻翌日からの新業務方針に就き打ち合わせが始まったのです。そのせっかちな調子は十四年前の工場課長時代と全く変わり無く、つい苦笑してしまったものでした。

19544月 浜松工場・建設部の仲間と共に。左端が堤氏

意図するところは工場設備・操業方式の徹底した改良計画と併せて、毎週土曜日午後の月間・週間業務の連絡会、社員・現業員の教育スケジュール計画です。そしてやがてその後一・二年後の結果は、工場内結束の緊密化・意欲の盛り上がりは見事なもので、事務・技術・現業者による諸業務・工場設備の改造提案も次々に実現されると言った具合でした。生産業務に於いても、特殊セメント部門では福井県九頭竜川水系真名川ダム向け品質・生産も共に順調に進み、社員教育も驚くほどの成果を挙げ、お陰で神経を消耗する建設省技官の検査立ち会いも、この段階で検査及び製造主任に安心して任せるようになっていました。公害問題に就いても同様で工場改善・地元対策も順調に推移していたのです。

昭和四十二年秋には野沢社彦根・多賀工場の合併引継ぎ立合いと言うことで、社内技術スタッフ数名の中の一員として現地一週間の出張。旧野沢社引継ぎ従業員に対しては住友社工場管理要項に基づく社員教育を実施し、終了慰労会の席では谷津工場長(本社専務)から冗談みたいですが単刀直入に『君この工場に来るかね?』と斬り込まれ、承けては、私も当時規模・省エネ性能とも日本一と称されるこのドイツ製及びデンマーク製最新鋭工場での仕事には可成り魅力を感じていたので、即座に『是非!』と返辞してしまったのですが、何と翌昭和四十三年三月、浜松工場吉田工場長の手を経て本社からの彦根多賀工場転勤並びに昇格辞令が渡されました。『彦根多賀工場製造管理課長を命ず』と。尚、インフラの面では当地滋賀県は近江商人、就中例の西部系堤一族出身地(私も同姓の堤ですが家系は久留米で無関係)であり、当地域主要インフラではホテル・鉄道・バス始め観光関係は大旨西部系の地盤という訳で、着任早々彦根多賀工場長の谷津專務(住友商事出身)からは『君も堤姓だが地域対応には充分注意して貰いたい』と、早速にも柔和な顔立ちの下からきらきらと光る眼でご忠告を戴いた訳です。

19547月・浜松工場テニス部の仲間と共に。右から5番目が堤氏。

2.乾式フンボルト方式SPキルンと湿式スミス超ロングキルンの操業

a.野沢社からの継承

彦根・多賀セメント工場は、野沢石綿スレート社がセメント業界進出を狙い、社運を賭けて欧州メーカーより導入したもので、設備としては当時日本でも最新鋭の工場でした。野沢社としても乾坤一擲の事業であったのでしょうが、操業成績が悪く正常軌道に乗る前に不良品の山を続出し、加うるに不況下金融引き締めの煽りをも食らって倒産縮小、住友社に経営引き継ぎを依頼してきたものです。ところで彦根工場設備ですが、操業に充分な技術力を以て正常稼働さえすれば、当時世界的にも最も経済性が高いと言われる最新鋭のドイツフンボルト式サスペンジョンプレヒーター付きキルン(HSP)であり、生産性・省エネ両面に亘り住友社レポール方式をも遙かに凌ぐものでした。また多賀工場は品質管理機能抜群で、特殊セメント製造用としても優れた性能を発揮するデンマークF・Lスミス社湿式超ロングキルン(SWL)でチェイン式プレヒータを装備していましたが、野沢社の技術力ではそれら高度な操業技術要求に対応して、充分な機能発揮が出来なかったのでしょう。昭和四十一年、住友社で買収開始し、四十二年より引継・工場整備・従業員教育を徹底、昭和四十三年四月より工場試運転を兼ね従業員の指導をしながらの本格操業再開となった訳です。

 70年代の彦根駅。当時、住友セメント彦根多賀工場に向かう貨物車が並んだ。

b.彦根多賀工場操業安定化の全社的意義
~住友全工場NSP化と特殊品開発の基礎確立~

さて、昭和四十三年四月いよいよ操業開始したものの、我々にとっても両工場はともに未経験の新規設備であり、先ず工場全般に亘る設備能力・耐性のバランス改善、主設備の操業安定化改造と可成り手間取りながらも、やがて一年間が過ぎる頃より彦根工場でもSPキルン操業の安定化(これはやがて住友独自NSP設備技術の確立と後日の全工場レポールからNSP化改造への飛躍に繋がった)、また多賀工場では特殊品開発の多様な展開(耐放射線始め広範なインフラ問題にも対応可能とする当社独自の特殊セメント開発展開と住友技術に対する社会的信頼確立)など、以後永い将来に亘っての当社体質改善展開(近年世界的なグローバル化そしてインフラ変動への柔軟な対応力)を支え補償するものとなった。あの浜松工場操業当初『光は浜松から!』と、当時他社追随を全く許さぬレポール製造方式の高性能・高経済性を見事に実証して見せた浜松工場に対する全社的賞揚の烽火が、今また同様に『光は彦根多賀から!』と、彦根多賀での最新技術達成に対しても再び実現されようとしている訳です。

前述した様に彦根に於けるSPキルン改造と安定化そして独自NSPキルン開発成功、それは当社全工場を高効率NSP化と言う目覚ましい展開へと繋げ、また多賀特殊品開発技術成果は、共に以後突き進む世界経済・技術のグロウバル化、即ちインフラ・省エネ・リサイクル要求実現に向かっての確かな推力となったのです。それは単に生産・技術面のみではなく、社員総力の結集をも基盤とする総合経営の一歩となったのです。それから四十年間、彼の壊滅的な敗戦よりの復興のみならず、幾度となく襲って来た世界的規模の不況にも耐え、そして今日、東日本大震災・津波・放射能災害に直面するや、その復興協力という試練にも良く耐え抜く力を発揮しているのです。

c.社員教育には一苦労

さて、企業買収に伴う被合併従業員との対応など勿論私には経験のない訳ですが、谷津専務、並びに浜松時代からの先輩である本社技術部長小川氏の助言なども充分腹に据え、以後彦根多賀の五年間は『未来に向かって強い自信と幸福感を以て切磋琢磨に励む』との信条で通しましたが、特に意を用いたことは、彼等の被合併社員としての不安を極力理解しながら早期解消に務め、将来共に社を支え得る同志として一日も早い成長を遂げるよう務めたことでした。共に学び議論し、将来管理者として高度の能力・資格取得の達成を支援し、更には当社関西最先端工場である点より、渋谷工場長提案のもとNEC(住友グループ主要十六社よりなる一水会メンバー社)開発部と連繋して、電算機応用セメント工場完全自動化システム確立に取組んだ訳です。結果としてはこの成果が評価され、翌年には本社機構下に『新設赤穂第二工場自動管理システム開発部』設立が早期実現の運びとなり、これのチーム員としても彦根多賀要員中からも有能な技術者数名の参画に成功した訳です。

d.通勤は自家用車で

私が彦根に転勤した当時では旧野沢の従業員殆どの者は、彦根市内或いは多賀に住居を構えていて、地元市営の定期バス便または自家用車通勤でしたが、住友転勤職員は、工場長以下全員が彦根市郊外に新設された一寸洒落た社宅に居住し、工場とも離れていますので、社宅工場間にはマイクロバス定期便が送り迎えをしてくれましたが、私は家内が運転してくれる自家用車通勤で通した訳です。と言うことは当初工場を操業して解ったことですが、設備レイアウトの物流バランスが可成りずさんで悪く、あだかも新設工場並に故障が頻発し可成り改造を加えた訳ですが、生産課長即ち工場責任者である私としては、昼夜の別無く夜中・早朝もお構い無しのお呼出しが掛かれば、重大事故現場に即駆け付けねばならず、結果は徹夜もしょっちゅうで、家内にも迷惑を掛けない訳には行かなかったからです。当時は家内に大変な世話を掛けたと心中詫び乍らも感謝していた次第です。

3.湿式超ロングキルンで特殊品の生産

a.青蓮寺ダム用セメント製造~着任早々の仕事~

着任早々先ず休止工場を普通品生産で試運転開始です。湿式原料の調整と粉砕から始まり、超ロングキルン並びに工場総体の操業と品質安定化、定期検討会を昼夜分かたず実施し、どうにか三ヶ月後の七月に迫っていた水資源公団による青蓮寺ダム納入セメント製造立会に漕ぎつける事が出来ました。青蓮寺ダムは三重県名張の木津川水系青蓮寺湖堰堤用ダムで、発電を始め農業・給水その他多目的で、ダム本体は設計上も極度に厳しい超薄型アーチダムですから、納入中庸熱セメントの品質均一化と管理には大変な気の使いようでした。その後、昭和45年に完成した時点で湛水立会見学会に招待されましたが、公団現地所長・職員の方とは感動の握手を交わし乍らも、一方では当時フランス・イタリヤで連続して発生したダム倒壊事故の惨状を思い遣れば『まさか万一にもこのダムでは・・・・?』といったことを考えさせられ、背中が多少涼しくなる思いもしたことは否定しません。

青蓮寺ダム(三重県・名張市)

b.松川ダム用セメント製造

松川ダムは長野県飯田市下流洪水防止と農業・上水道用多目的重力ダムです。略々青蓮寺ダムと同時期に同様スペックで製造供給出来たので比較的楽でした。青蓮寺ダムに比べればセメント量は約六分の一、湛水量も約四分の一で小型です。それでも納入時の製造・試験立会・現地試験片作成等は青蓮寺ダムと変わらず厳しく一人前なのです。河川敷き全体の岩盤が脆弱だったのです。

c.高瀬川水域ロックフィルダム擁壁岩盤補強用超微粉セメントの開発・試験

長野県黒部下流域高瀬川の多目的用として三ヵ所のダムが建設されました。大町ダム,七倉ダム、高瀬ダムです。これは巨大なロックフィルダムですからセメント仕様としては通常の中庸熱セメントでよいのですが、高瀬川流域の基礎岩盤表層は強固な花崗岩質ではありますが破砕帯・断層が入り組み、補強グラウト(補強剤注入工法)用として大量の超微粉セメント(コロイドセメント)を供給し、且つ現地注入時は約一週間に亘る立会試験が行われました。超微粉セメントは細川鉄工所製の超微粉サイクロン設備で開発・製造され通常のセメントに比し微粉表面積が約倍(ブレーン5,000㎠/g)のグラウト(加圧注入)専用の特殊セメントです。現地での試験注入工事は一単位毎で幅五〇米、長さ約百米に及ぶ岩盤グラウトと試験片採取・立会という大規模なもので、現地職員と一緒に流域を上がり下がりフォロウして歩くという大変な作業でした。低部注入地点より三〇メートルも上手岩盤亀裂層で突然グラウト剤が吹き出すなどざらでした。

ロックフィルダムとして日本一の堤高を誇る高瀬ダム。

d.早強セメント・特殊セメント開発競争

関西は小野田・日本セメント社はじめ大手各社が鬩ぎ合い、特に営業屋にとっては激戦区です。特殊品需要と云いますと、早強セメント・超高強度パイル用セメント・原子力発電所躯体用セメント・放射線防御壁用セメント・本四架橋はじめ大型コンクリート橋梁用セメント・廃棄物処分場用対薬品・耐重金属類用セメント等々ユーザーニーズも広範で仕様も厳しく、然もこれに充分対応できないばかりに従来どれだけ大量の付帯工事用普通セメントの商機を逸してきたか計り知れません。ですから当社として今関西に近いこの彦根・多賀地区で湿式ロングキルンを稼働し、適宜ニーズに対応した特殊セメントの供給体制を採ることは緊急の必需事でした。さて着任すると早速ですが、社内営業担当者・ユーザー・工事屋・二次製品メーカー等々押し掛けての打ち合わせラッシュ、続いて仕様検討、社内開発・試作試験・京都大学始め専門研究機関性能保証書取得・社内生産打合せ・社内テスト・製造・現地ユーザー立会試験・特許申請と工場・大學・工事現地・本社研究所を駆け回るうちに彦根多賀勤務五年の日々があっという間に過ぎた思いでした。

e.高強度パイル用セメントの開発に成功

特に関西では超高強度オートクレーブ加工パイルメーカーが密集し激烈な開発競争を展開していて、これに応え得る専用セメントの供給は営業戦略上必須の状況にあったのですが、このニーズに適確に対応しうる専用セメントは各社共まだ手付かずでした。高速遠心力成型加工そして高温超高圧オートクレーブ処理後の高温水中養生を経て、一週間で1,000㎏/㎠余と言う高圧縮強度を実現し得るセメント硬化メカニズムが解明されておらず、 パイルメーカーはやむを得ず早強セメントを代用していたのですが、仕上がりパイル品質が低く安定せず苦労していました。

そこで当社では高強度パイルの特殊養生法(遠心成型及びオートクレーブ養生技術)に着目しこれに適応する二段反応性セメントの開発に乗り出し、試行錯誤六ヶ月苦労の末見事成功し、オートクレーブ養生後圧縮強度1,200(参考:通常建築物では300、土木構造体では400、ダム用高強度でも600)㎏/平方センチという驚異的結果を得たときは、工場開発チーム全員の喜びは勿論ですが、本社開発部・研究所・大阪支店等々の要請で社内説明と講習会を実施しましたが、系列大手パイルメーカーからの技術顧問要請については有難くお断りした次第です。京都大学建築学科教授六車研究室に特殊パイル強度試験証明書発行の依頼でパイルメーカーと同行した折も、大学側からの共同研究申し込みについては、ノウハウ問題があり本社研究所意向に従って辞退させて貰った訳です。孰れにせよ当時関西パイルメーカー各社間での評判は大変なもので、本専用セメント需要注文が当社に殺到し、大阪本店始め関西各営業所・販売店をも驚かせたものでした。

f.原子力発電所用セメント・コンクリートの開発
~原子炉その他躯体及び放射線防御壁用~

この項目については後述本社新設のリサイクルセンター事業中―原子力関連の項―で東海村原研・大飯・美浜原発用『放射能防禦用特殊セメント・コンクリート』の項で纏めて記述します。

4.住友グループ事業に参画~住友一水会~

住友グループ内主要各社横の連繋としては、セメント・銀行・商事・金属・化学始め主要二十社から構成される経営者・社長会として『住友白水会』があり、その下部機関の技術推進グループとしては、十六社技術系部・課長以上幹事で構成される「一水会」があります。会は大阪淀屋橋住友本部を中心に毎月定例幹事会が開かれ各社より当番が決められ、持ち回りで技術推進の分担作業を消化します。下部機関としては毎月定例的には各分科会(例えば環境・計測・分析・建設等々の技術分類)単位のもの、不定期には各社小グループ単位のプロジェクト業務研究・推進などです。また技術研修と懇親を兼ねては年数回のグループ内各社工場・研究所など見学会、年一回ですが三日間の広域見学会など五〇名から百余名の大人数のものまで、いずれも技術面の連携結束を高めるのに大きな役割を果たすものです。

私も彦根・多賀勤務を機会に早速グループの役員推薦をうけ、以後本社プロジェクト勤務後も含め数年間一水会代表幹事を勤めることになり、技術面のみならず人間関係に於いても各社主要技術者とも多数貴重な知己を得る機会を持つことが出来ました。特に後、日本社で新プロジェクト事業を展開した際にはどれだけ有益な機会となったか知れません。参考までに申しますと住友本部・主要各社ビルは大阪淀屋橋周辺に集中し、当社の大阪ビルも此処に居を同じくし、住友村といった様相でした。ですから大阪で淀屋橋界隈は彦根在勤中随分通いましたし、今でも毎年行われる住友クラブでのOB会案内を戴いては出席しています。 

「住友一水会」197210月・九州地区プラント見学の懇親会

5.彦根は城でもつ
~名物は近江牛・江州米・日本海鮮魚~

彦根は徳川井伊家三十五万石の城下町ですから、井伊直弼始め井伊家殿様ゆかりの名所が数多くあり、それ等が彦根に住む人々との間には様々の形で深く関わり合っています。私達も浜松工場在勤時代から親しんだ浜松井伊谷という井伊家二十四代直政誕生の地から遙々この彦根の地に転勤して来て、そこで井伊谷の名跡で且つ井伊家の菩提寺でもある竜潭寺・井伊谷宮と全く同じものが井伊直政の子直勝(彦根初代城主)によりこの彦根に建造され現在に至るも尚重要文化財として保存されているのを見ては、浜松育ちの家内などは私以上に縁の深さを感じていたものと思います。

娘達も小・中学・高校とその地で朝夕お城を見ながら多くの友と若き青春の刻を過ごしたのですから、懐かしさは一入ではないかと思います。春、彦根城大手門入り口に向かっての桜並木、早春の観梅会、直弼縁の八景亭、湖東三山の紅葉・琵琶湖周囲を取り巻く渡岸寺を始め古代からの数々の社寺仏像群の素晴らしさと思い出は尽きぬものでした。こうした田舎ですから、家内の運転してくれる車は大変役立ってくれたわけです。また会社関係で大切な来客があると、かっては井伊の殿さま別宅であった八景亭に案内し、中国式池水を巡りながら歓談、池水に張り出す別邸では大名料理を食し、お泊まり頂いたものでした。

春爛漫の彦根城

<彦根特産品三つを紹介します>
  近江牛のステーキ
近畿圏の仔牛の原産地は彦根の裏、奈良県伊賀上野です。これを三重松阪に持込んでビールを飲ませマッサージして育てたのが所謂松阪牛ですき焼き用霜降りとなり、滋賀県近江に持ち込み豊かな牧草と穀類で育てたのが近江牛のステーキ肉となります。彦根で最も美味しいステーキのグリルは彦根銀座通りにある《フレーバー》です、来客接待・家族団欒とよく利用しました。サンドウィッチも絶品で、事務所パーティー等の際工場長指図で注文しては、職員皆で歓談賞味しビールで乾杯したものでした。
  江州米近江中心に作られる米を江州ごうしゅうまいと言い、新潟、灘特産の銘酒専用米として東近江地区農家が主として受注生産しているものです。総て醸造元予約立ち会い植え付け刈り入れ出荷されてしまいますので、美味しい貴重な米だと噂は聞くばかりで、実は我々彦根在住一般家庭の食卓で賞味したことは一度も無く、いわば幻の米と言うことでした処で先日、退職三十年振りでしたが、懐かしくも住友彦根OB会に出席数十名の方々と歓談の一刻を過ごすことが出来ましたが後日久し振りにいし歓談した写真共々ビール券をりしたところ、何とお礼として米農家の方に豪州米一升を寄贈戴き早速賞味させて戴いた次第です光り輝くその味は餅米の様で貴重なものでした。
  鮒寿司
食通は美味しいと珍重しますが、私には到底その臭気と外見に堪えられず手が出ません。琵琶湖で漁れた鮒を米糀で半年以上漬け込んだものです。彦根在住中に大阪出張時の定宿に手土産で持参したこともありましたが、残念ながら冷蔵庫からゴミ処分場に直接廃棄処分されたとかです。鮮魚では敦賀からの小売人が直接彦根の街角・社宅に車でもたらす小鯛の寿司はじめ北陸産の魚が大変美味です。京都市場経由の店頭物は古くて旨くありません。

軍隊で鍛えられた堤氏も太刀打ちできなかった鮒鮨。

6.自家用車は彦根の必需品

転勤して忽ち困ったのが足便です。社宅から工場までの定期便或いは管理職員専用車の送迎はあるのですが、問題は工場の緊急事故・打合せなど朝・夕・晩、場合によると夜中・明け方と不定期突発の急用が出た場合はもう定期便等と云って居られない訳で、そこで結局少なくとも管理職・現場業務を与る身には自家用車が必需品となるのです。所で私はと言うと『仕事が多忙なのと飲酒交遊の機会も多い関係で、免許をとる訳にはいかない』と理由づけし、詰まり家内が自動車学校に通い免許を取って貰った訳です。結局不定期の送り迎えは面目ないが全部彼女におんぶと言うことになったのです。

1)大晦日免許が取れて早速京都初詣だ!
十二月末、家内念願の自動車免許も一回滑っただけで合格し、それにあわせてトヨタのカローラもすでに駐車場入りで出発を待っていたわけです。そこで仕事の方はと言うと、本来三ヶ月余の長期運転を建前とするセメント工場も、新年を迎えては定期休転整備入りと言うことで、年末から正月三ヶ日は全面休転で仕事も休み。そこで元旦に続き二日目は京都のお寺に初詣と家族全員で出発と張り切ったわけです。正月早朝の名神高速は未だ閑散として車も快適に飛ばし、いよいよ京都南インターを降りて京都五条を目指して進む程に、なんと前後左右からどんどんと情け容赦なく突っ込んでくる凄い渋滞にいつの間にか捲き込まれ、つい一昨日免許が降りたばかりの偉大なドライバー氏は、四列行進のろのろ運転・両サイドに気を配り、前後はぶつからないようにサイドギヤとアクセルの連続、緊張に目を吊り上げっぱなしの運行となったわけです。さて
どうにか五条の駐車場に強引に車を突っ込み、八坂の塔から神社の辺りとお参りが出来て、家族一同無事帰着の結果はほっとするやら自動車の旅大成功で大喜びだったのですが、よくもまあ傷一つ負わず人も車も無事帰ってきたものと後々思い出しては冷汗ものです。

堤家に納車されたと同型と思われる昭和43年式・トヨタカローラ。

2梅・桜の早春賦、でも自家用車の大敵は雪!
彦根の早春は、また浮かれた訪問客がどっと押し掛け、対応に忙しい地元民と共にお城の周辺は見物客のラッシュです。お城の観梅に始まり桜に埋まる大手門前の並木、井伊家別荘の楽々・玄宮園(今は市民、観光客に宿泊開放)と総て桜に埋め尽くされます。それに比べて厳しいのは冬です。日本海の寒気が北陸から雪と共に流れ込み、伊吹山にぶつかって琵琶湖東岸から彦根多賀そして鈴鹿に脱ける雪道はただ事でない積雪、一晩で一、二メートルの積雪などざらです。

さて、突然の積雪であれ勤め人である以上、定時出勤は守らねばならず、家内はぐっと緊張して、ラッセルの効いた道中のスリップには全神経を集中して車を飛ばすわけです。そしてやっと工場入口に到着するといよいよ難関の登りスロープ百メータが待ち構えてます。前夜からのトラック出入りで、降りしきる雪も下から溶けては凍て付きつるつるになっており、上には昨夜からの雪が乗っていて見えません。家内がさっとアクセルを踏み込んで坂のコンクリート勾配路を一気に駆け上がろうとします。そして驚くことに車は横にスリップ、前に進むどころか対向車線に向かって一目散、もたもたしていると前から迫る大型ダンプの餌食です。家内が慌ててブレーキを踏むと、途端に車はくるりと一八〇度回転してまた横滑りです。今度は停まりません!家内はもう真つ青で今後雪降りはご免だというのです。

以後大雪の朝は会社手配の臨時便か客用便の出迎えを必ず待つことになった訳ですが、それにしても当時構内情報伝達は素早く、事務課長が事件直後飛んで来て『以後管理職員は必ず送迎用の便を出すので利用されよ』との工場長伝達を、私が事務所椅子に座る間も無く、早々と伝えられてきたわけです。

3)春・秋の伊吹山は見事なお花畑

室町時代から伊吹山は薬草の宝庫です。信長が薬草もですがその他に、世界中から草花をも取り寄せ栽培、お花畑として開放、庶民政策の一つとして健康管理の基本に力を注ぎました。ですから彦根伊吹山周辺の住民はよく伊吹山にハイキングとかドライブに行き花・薬草をそっと持ち帰ります、公には禁じられていますから。ところで私達夫婦も休みにドライブしがてら出掛けましたが、麓の草原は背丈倍もある高い茅に覆われ、横道の通行者・車などの見通しがまったく利かないのです。そして帰り道で一〇メートルほど離れた横道から突然斜めに突っ込んできた対向車にぶっつけられたのです。こちらは一旦停車して待ったのに、相手は横合いから突っ込んできたのですから責任の所在は明白ですが、結局家内のよく知っている保険屋が直ぐ駆けつけて納得の示談で済ませました。先方は薬草を可成り摘んでいたようです。山麓一帯広がる草原は背高を倍超す茅で見通しこそ悪いのですが、広々として気持ちよくこちらも油断があったのだと反省した次第です。滋賀県に来て浅井・信長始め戦国武将の事績が多いのには驚きです。

現在では整備が進んでいる伊吹山のドライブウェイ。

()娘達のピアノレッスンは京都で

さて近畿圏文化の中心は矢張り隣の京都です。当時毎週土曜日午後は家内と娘達京都通いが週末日課になっていました。と言うことは、浜松から転勤した当座、娘達のピアノレッスンは発表会の都合で、暫くその儘浜松の先生通いで続けると云うことになり、毎週土曜午後娘達は新幹線で浜松に通わせたのですが、一年が過ぎ発表会が終了したのを機会に京都の先生を紹介して戴き、家内は車を運転して毎週土曜午後は京都通いという事になった訳です。そして二年後、上の娘が県立高校に進学したのを機会に大学受験が重点となり、下の娘も高校受験に集中すると言うことで結局レッスンは休止としました。然し娘達にとっての京都通いは、この間に古都名所各地を巡ったりとよい想い出になったと思います。多彩な名所旧跡の京都も更に名園・美術館と飽きさせません。

1971年春・彦根城にて。得意のカメラで奥様・お嬢様を撮影。

5)早大打矢君夫妻が彦根に来訪

そんな頃突然ですが打矢君から「琵琶湖一週に出掛けたいので車を貸して欲しい」との連絡があったわけです。西部系地元ホテルからの電話で唐突でしたから一寸驚いたのですが、実は打矢君は早大応化の大坪研究室の同期であり、共に窯業関係研究に進みどちらかというと出遭い交流する機会も多かった仲ですが、それにしても、この彦根くんだりの片田舎に迄わざわざ出向いて来て、しかも私のことを忘れずに唐突ながら「車を借してくれ」と声を掛けてくれたことが、可笑しくもまた何よりも嬉しく、兎に角使って戴いたわけです。趣味であれ或いは理由がどうあれ同君ご夫妻のため、「少しでも何かお役に立つことが出来たのかな」とか、「それにしても我が家で車を持っていることをよくご存知だったなあ」とか、後で家内共々で話し合ったことでした。後々同窓会の席上、打矢氏からの打ち明け話では『当時丁度仕事を変えるかどうするかと云う将に重要な転機にあり、琵琶湖周辺の十六面観音を始め古佛像群と向きあう中で、お陰で意を決することが出来た』との話であった訳です。打矢氏は後に保谷硝子のIT部門を率いて副社長となり、本拠をアメリカ各地またヨーロッパではロンドンに本部を置きながら、全海外部門を統括する責任者の職にあたったと聞く。

6)彦根の豊かな立地

さて兎に角彦根は住友の本拠大阪・関西に最隣接の工場立地であり、住友本社とか、グループ各社との種々交流が盛んという点では、私にとって生産・開発等当面の仕事のみならず、住友技術グループ一水会幹事としても将来に亘って大変意義深く、新事業展開等にも何かと有用なところでした。一方歴史的にも琵琶湖周辺は有史以前より大陸渡来部族の勢力下にあり、古代より豊かな文化財力に支えられて先端文化が開花したところで、驚くほど多くの優れた神社・仏閣・仏像群・文化遺跡に恵まれ、景観、観光と豊かな心の故郷でもあります。

7)大阪万博会場入口から工場へUターン

懐かしいEXPO70です。彦根からは名神高速を通って車で一時間、吹田市千里丘陵で三月十四日から九月十三日まで六ヶ月開催と云うことですが結局家族一緒で夏休みに出掛けたわけです。早朝に彦根をでて家族四名で会場へ。然し会場は人気のパビリオンは長蛇の列で、うまくいっても見物できるのは二ヶ所止まり、結局アメリカ館と日本館一つがやっとかなという混雑です。まずは自動車疲れを癒して一休みと言うことで、お茶を飲み始めて間もなく、耳をすました上の娘が「お父さん拡声器がうちの名を呼んでいる様よ!」と来たのです。またかと会社に電話すると現場から大故障の緊急連絡とのこと。製造課主任よりの報告では、事故はキルン関係で停まって暫く動かないというのです。結局家族はそのまま会場に残し、私一人会社に戻って夜半まで指揮処置に当たった訳です。折角会場まで行って何も見ず仕舞いの体たらくに、EXPO70のテーマ『人類の進歩と調和』は「我が社では何時実現されるのやら」と工場に舞い戻りながら呟いたものです。サラリーマンとは何時の時代になっても、そう簡単に優雅に暮らせるようにはならないものですね!でもだからこそ『何時か必ず!』と目標実現に向けての反骨も湧いてくるのでしょう。

大阪万博

7.浜松・彦根・多賀工場長の想い出
~会社勤めで良い上司との出遭いこそ一生の宝となります~

①.浜松時代の工場長など

ⅰ.初代天野晋工場長
私が昭和二七年磐城社(住友社前身)に入社した当初所属の本社建設本部長であり、浜松工場竣工稼働後工場長となり、実は私達夫婦の仲人役もして戴くなど大変お世話になった方です。早大機械工学部出身でしたが、当時御子息も同機械工学部在学中とのことで宜敷と紹介された。浜松工場着任六年後の昭和三十五年には岐阜工場新設稼働に伴い岐阜工場長として転出された。

ⅱ.小川正主任
父君が台湾総督府官員であった関係で、台北一中卒後東大応用化学出身。豪快な実力派であり入社は私より六年先輩にあたる。当初入社は栃木本社技術管理部であったが、昭和二五年、重要な進駐軍向け(朝鮮動乱戦線向け)セメント品質管理に関する技術会議の席上、社長・眞田技師長を前にして敢えて米軍納入品質検査法ミスを指摘し、社長並びに技師長を困らせたといった剛直さと言うか馬鹿正直というか、歴史的エピソードの持ち主で評判であった。お陰で本人は以後三年間結局、会社としては傍系の下田アルギン酸工場勤務に飛ばされ、工場設備改善研究の名目で化学工学を主体とする工場近代化設計等散々辛酸を嘗めた後、漸くにして新鋭浜松工場製造主任として復帰着任された訳です。

然し私にとっては幸運にも、事務所で机を並べる貴重な機会を得たことになり、結果として技術面は勿論心情面でも直接の指導をうけ、以後私の浜松時代に始まり、生涯折々に亘る広範な化学工学応用技術習得、熱管理士資格取得、東京・大阪のセメント協会技術大会での晴れやかな技術論文発表、更に彦根・多賀生産課長時代では第一種公害防止管理者資格取得(合格率五十人に一人という難関)、電算機による赤穂工場無人化システム確立、住友グループ一水会代表幹事を担当し住友要人との交友、本社に資源リサイクル・センターを設立し先任技師長就任、国の中央・地方官庁並びに多くの業界要人との交友、住友新子会社設立しての社長就任、退職後の新日鉄技術顧問役への就任等々、その都度生涯の先輩として指導・相談を仰いで来たが、一線から退いた今尚何かと交遊は続いている。通常サラリーマン生活とは平板で退屈なものとして一般的には認識され勝ちであるが、退職後で私と小川氏とが交遊・懐古を重ねる仲では、それは画期的な得難い事績であり、四十年経った今尚その数々の感動の想いは目の当たりにある如く感懐に包み込んでくれるのである。『我々最後にやったあのリサイクルセンター事業は、誰にも真似できぬ、官界業界をすら感動させた一大事業であった。よくぞやってのけたものだ!』と語る時の小川先輩の目には、今尚光り潤むものが見られるのです。

ⅲ.二代目河野靖工場長・杉浦益彦氏との出遭い
河野靖氏は本社常務・総務部長であったが、天野工場長の岐阜新工場転出の後を承け転入して来られた。一高・東大出の俊才。杉浦重剛先生のお孫さんの杉浦益彦総務課長の上司であった関係で、校祖・杉浦重剛先生並びに日本中学の事績、卒業生等の人誌にも詳しく、浜松着任間もない昼食会の席上、懇談中私が日本中学卒であると聞くと、以後何かに付け関心を持たれ、後日、杉浦益彦氏が工場視察に来場の際も、わざわざ工場長室に呼ばれ紹介して戴いた。中々のスポーツマンでゴルフなどもハンディ片手、昼食後とか課外時間にはテニスの試合で私も好くペアを組み、また手合わせさせて戴いた。昭和三十八年十月いよいよ当社が住友グループに参入し、住友セメントとして新規出発したが、当時斉藤社長の次期後任社長と嘱望され乍ら後日病に早世された事は呉々も残念なことであった。

日本学園校祖・杉浦重剛先生。

ⅳ.三代目吉田専助工場長
私が磐城社に入社当初、未だセメントのセの字も解らぬ時から栃木工場生産課長として、セメント生産の基礎から現場全般に亘り直接の指導を戴いた最も印象深い方である。当時はご本人も現場主義一本槍でどちらかというと課員達総じてから煙たがられると言った処もあったが、会津武士の一徹気質に富み、懇親会では酒を飲むと、好く白虎隊の詩を吟じ乍ら剣舞を披露され、一方私に対しては次の転勤地浜松工場要員を意識してか、入社三ヶ月で既にして五十里ダム用中庸熱セメント品質管理を担当させ、生産管理面では工業技術院主宰での『米国に於ける最新品質管理法講習会』に、またリサイクル関係では静岡巴製紙社のパルプ廃液活用調査に出張等々勉強させて戴いた。その後栃木工場より転勤し、当時新日鉄向けドロマイト生産の為新設された羽鶴工場長、新設岐阜工場次長を経て昭和四十一年浜松工場長に着任された。十四年ぶりの再会であったが、当時管理係長としての私が、生産関係全般の責任者であった関係で、来浜早々に工場長室に呼ばれ『やあ、久し振りだな!』と前置きしておいて、早速今後の工場管理方針に就き指示に預かった訳である。

曰く『今後の方針だが二項目ある、一つは工場近代化の改造計画で、今一つは従業員技術研修の推進と言うことで早速着手したい』と、また『そこで明日から全部署検討に入るので、参考として叩き台になる具体案と会議推進日程表を早急に提出して貰いたい』とのこと。付け加えて曰く『君を浜松から早く追い出すのも私の目標だがね』と来てニヤリと笑われた訳。かくて工場改善と従業員技術研修はスタートし、工場長以下総従業員結束しての燃えるような意気込みの下、驚くべき効率で推進され、生産・品質・場内外環境問題等も含め総合的な素晴らしい成果をもたらし、老朽設備近代化改造、操業方法改善、品質向上と成果は見違えるようであった。それは私にとっても入社以来最も刮目すべき技術・教育成果と共に人間関係習得など充実の二年間となった訳であり、続いては彦根多賀工場課長就任で転勤即ち管理者への重要なワンステップにもなったのです。吉田工場長着任から僅か二年でした。

②彦根多賀時代の工場長など

ⅰ.初代谷津專務の風貌
私が彦根多賀着任早々の工場長は谷津專務であった。前年野沢からの引継業務で私が彦根に立会出張の折、転任を打診戴いた方である。住友商事出身の重篤温厚な英国紳士然としたなかに、関西人の洒脱さをも忘れない方であった。私の着任早々の事だが、專務に同行を命じられて彦根から多賀にまわる専用車中で早速だが『君の課長としてのリーダシップと言うか覚悟はどうなんだね?』と斬り込んでこられたが、私は即座に『ギブ・アンド・テークです』と答え、『何ッ?』と專務は一瞬きつい表情で一考したものの、ゆっくり頷くと『成る程!』と。あとは何も云われない儘、やがて『新しい社宅を視て行こう!』と彦根郊外に殆ど完成間近な真新しい社宅を案内して戴いた。『君、佳いだろう!』と満足そうであった。社長を口説き社内は勿論関西のグループ各社中でも最も立派な建物にしたそうなのだ。私が入社当初栃木時代の老工務係長が彦根に転勤していて工務課長で居ったが、私への懐かしさもあってか「自分が設計した」と親しく図面など引っ張り出して教えて呉れた代物だ。專務には約一年間と短期間であったが、主として財閥社の管理者としての心構えを指導戴いた。住友主要十六社から構成される技術系管理者の協議機関『一水会』のセメント代表幹事に推薦戴いたのも谷津專務の計らいによるものであった。

ⅱ.二代目渋谷常務のこと

.英独露仏技術文献の活用
谷津專務の後任には渋谷常務が着任された。渋谷常務こそ私が新入社員として栃木本社建設部に勤務時の工務課長であり、当時から既に社内でも指折りの凄まじい勉強家として聞こえ、独学で既に英仏独露四ヶ国語の技術文献翻訳をものにし、新技術の紹介にも熱心で評判であったし、会話も英露二カ国語は可成りなものと云々された。我が磐城社入社当時だが浜松工場新設にあたり独レポール式キルン導入に就き、その優れた性能と技術内容を積極的に紹介する役割を果たしたのも渋谷課長の功大なりと聞こえていた。

私が栃木入社当時のレポール関連技術試験実施に当たっても、必要なドイツ語文献を適宜コピーしては廻して戴くなど大変お世話になったことも忘れられない。そしていよいよ彦根多賀工場長として就任して来られるや、毎朝定例の業務連絡会などはさっさと済ますと『昨日調べて見たんだが化学のことは正確には判らんので見直しておいて欲しい』と、次々にどさっ!と翻訳文献書類の束が私の机上に置かれるのです。栃木時代は専ら英独文献でしたが今目の前の資料主力は露仏文献であり、さて之を披見玩味すればする程、なんと従来の英独文献とは一味も二味も異なった識見に基づく貴重なものなのです。今まで露仏文献など、全くと言っても好い位眼にする機会も無いし価値も解っていなかった訳で新鮮な驚きでした。

露文献では大掛りで膨大な現場資料・実証実験に基づき、また仏文献では斬新的な数学応用に徹し、従来の工学手法見直しをすら提案しており、それ等斬新着想は直ちに私達セメント工場現業でも技術改善に繋がる貴重なものであり、その提案した活用効果は本社会議でも度々注目される処でした。参考になった露文献では省エネ工学・セメント新製品開発部門での膨大なデータ、仏文献では粉砕・高温焼結など生産技術の面で数学的解析法で特に有効であった。

b.工場無人化システム提案
今一つ、渋谷工場長が在任中なればこそやり遂げられた事業があります。他社に先行され社内でもとかく懸案事項になっていたことですが、それは超大型コンピュータ活用によるセメント工場ワンマンコントロールシステム(以後無人化方式と称する)の実現です。当時国内では未だ大型電算機処理速度遅く、これの補足として部分機能処理ではアナログ処理方式(ソニー・富士通方式)を大分遺しながらも、一応秩父・日本セメント社が既に試運転・改良段階にあり、当社内でも早期取組の緊要が叫ばれていましたが、方式(部分アナログか全面ディジタル処理か)採用問題で具体化に遅れを執って居たわけです。

そこで当時、当社技術職役員として最先任でもあった渋谷常務の本社役員会への提案決議により、先ず第一段階として『品質管理は複雑だが生産ラインはシンプル』な多賀工場を対象に、住友グループ日電(後のNEC)社開発グループの協力のもと住友開発チームを多賀工場でスタートし、当時未だ処理速度が遅いが故に敬遠されていた電算機フル活用による全ディジタル方式制禦システムを他社に先駆け確立。第二段階として最新鋭赤穂第二工場新増設計画と並行して、本社編成の開発チームによる電算機制禦システム化完成を目指すことになったわけです。

幸い私は多賀着任(二年前)当時よりテレビー・通信教育で、技術言語フォートラン応用による制御方式(ディジタル技術制御方式)は既に習得していた関係で、常務提案には早速賛成し順風満帆で多賀開発チームリーダーの役を承けた訳です。ほぼ一年で基礎案完成に持ち込み、本社役員会報告・査定を経て人事面も含め赤穂チーム編成参考資料を提示、此処に赤穂開発チームの本格的スタートに漕ぎ着けた訳です。後の赤穂チームリーダーに就いては、私は適任者を推薦するに留まり敢えて参加は遠慮させて貰いました。多賀では新規ダム用を始めパイル用・PS橋梁用など特殊品開発、彦根NSP予熱機改造安定化、更に重要な一水会幹事会業務など優先すべきと思われる業務が多々残っていたからです。

これら多賀に於ける私の種々開発業務は、やがて二年後ですが社長提案に始まった本社での新リサイクル事業化の業務実現にと繋がっていったのです。之はEU(欧州連合)に遅れること四年ですが、我が国でも漸くにしてリサイクル法制定の嚆矢の役を果たすもので、通産省連繋での官民事業推進となり、経済的にも画期的な省エネ事業展開になったのです。やがて軌道に乗れば当時全国的な経済不況のさなか、セメント業界も経営上容易ならぬ時態に苦しんでいた故に、本事業の成功により忽ち当社としては数億の黒字転換、更には国家的にも画期的省エネ効果を見ては、やがて社長室に呼ばれ『この新事業成功こそは我が社期待の救い神である!しっかり頼む!』との励まし言葉を承けながら、当時社長に求められた握手の温もりと感動は未だ以て忘れられないものです。


8回・「本社リサイクルセンター開設」へ続く