2011年4月25日月曜日

人生と出会い 第3 回 海軍時代<前編>


堤  健 二(昭和19年 日本中学校卒)

予科練()三重航空隊

列車が東京を発車すると、そっと辺りを見渡した。列車の中には確かに私と似たよう面構えの者が何人か目についた。そして『私と似た道に入り込み、これから自分と行を共にする事になる者もこの中には居るのだろう。彼等がどんな覚悟で志願して来たのかは知らないが』と。だから今は人のことは大して気にすることではないと思いを切り替えた。兎に角、今日から私は一個の軍人であり死と向き合い、生き抜き戦い抜く一歩を踏み出したのだ!そして確かなことは『自分から志願して来たのだから私の意志は自由であるが、国に仕える身は飛行兵として最も過酷な最前線での戦闘場面でも、戦って勝って生き抜く覚悟で修練を積むことが必要なのだ』と思いを確かめる。列車は進み親兄弟・友達・娑婆は遠くのいて行った。「今は無心!そして不退転の心境で集中するのだ!」と。
次第に眠くなり列車のゴトンゴトンという振動音も遠のいていった。待ち受けるのは全く未知の世界!

一月四日:第一〇期甲種飛行予科練習生として三重海軍練習航空隊入隊(註1)。翌日月曜日より早速入隊後身体検査・体育査定があり、午後から英・数・国各学科試験(中3前期程度で可成り高レベル)が行われ。分隊デッキ(居住区:五〇名)・一〇名単位班の振分けあり。しかしまだ娑婆っ気いっぱい。騒いで叱られる


現在も残る三重海軍練習航空隊正門

(註1)
:この年初めて三重海軍練習航空隊は開隊され我々が初入隊となった。
:第一、二種軍装(冬・夏)も七ツ釦短ジャケット(濃紺・白)に改正。
  襟章の羽根が気に入った。

入隊直後学科試験―海軍は試験好き!

午後入隊後学科試験中の事だ、第一時限は英作文・翻訳試験である。指導生と分隊士が練習生の間を見廻っていたが、やがて指導生が私の横にやって来ると、後ずうっと私の答案用紙を覗き込んでいて動かない、そのうちに予備学生上がりの分隊士までがやってきて覗き込み、これまた動かないので答案が書き辛くて困ったのを今でも覚えています。以後先任班長、分隊長にまで何か見られているようでしたが、多分英作文と数学が多少人より出来方が違ったからかな?と思ったりしたのですがやがて忘れてしまいました。

実は海軍の職務は航空・整備はじめ艦船・通信・計測・兵器等々多岐に分科されていますが、孰れの設備・用具・用法を取ってみても最高先端技術の塊と言っても言い過ぎでは無く、総て技術内容の徹底した理解こそが戦力に大きく影響することになる訳です。ですから各科員がどれだけ充分に自分の技術を理解しているかを、試験で徹底的に確認しながら各科技術研修を進める事が絶対必要要件となり、当然の帰結として各科員の進級・選科にも大きく拘わり重要視される訳です。

後に昭和一八年後期、佐世保通信隊勤務中に聞かされたことですが、海軍では当時遅れ馳せながら、対米通信諜報・暗号解読人員の増強に本格的に取り組んでいて、海軍生徒のみならず広く大学教授、学生を含めたスタッフ養成に取り組んでいたとのこと。私も恐らくその要員リストの一員だったようです。さて話は戻しますが、その後分隊長(海軍大尉)・分隊士(海軍少尉・準尉)・班長(上等~一等兵曹)・乙練三年目の指導生(兵長)の紹介があり、分隊長からは海軍生徒心得の基本と激励の辞があり、続いて班長・指導生から当面の日課・起居動作、注意事項、デッキ周辺設備の説明を受け頭に入れ、翌日からいよいよ練習生課程開始となった。翌朝。隊内連絡は凡て艦内に準じブザーに始まり五分前精神で『ブー 総員起こし五分前!』から一日は開始されます。朝先ず一番の緊張の瞬間です。

早朝、昭憲皇太后ご詠歌『朝霧に・・・・・』と全員詠唱の朝礼に始まり、夜、温習終了時の海軍生徒五省(註2)で締め括られる訓練と躾は日々その厳しさを増していくばかり、そうしたうちにも課外時間を見ては松風爽やかに吹き渡る香良洲(からす)(はま)に出れば、太平洋に向かい天地一体となって広がる松原と、透き通るような環境の中で鍛えられ学ぶ喜びは、普段の煩わしい人間関係・反省制裁の苦痛など吹き飛ばしてくれるものでした。だが一方恐ろしいのは矢張り波高い香良洲浜でのカッター競漕訓練でした。一〇名班員全員が、班長の掛け声「櫂立てえ!」「櫂備え(降ろせ)!」「前へ!」そこで号笛一下、注意深く力を合わせ、手のまめを潰しながら、長さ4㍍太さ腕っ節ぐらいの櫂を満身の力で漕ぎ出さない事には、進むどころか忽ち転覆の修羅場です。こうして一日一日と鍛えられ、やがてはこの太平洋の高波こそ我が求める試練と吹っ切れて、逞しく日々を迎えられる様になる訳です。

堤青年が心身を鍛えた香良洲浜海岸

今一つ苦労したのは海軍用語を覚えることでした。総てが英語が基本なのです。本来日本海軍は英国式を規範としましたが、航空関係は更に徹底しています。艦船での設備・用具・用法・指揮・戦闘など内務動作の全てが、陸上、航空での平常生活総ての場に適用されます。用語もデッキくらいは理解できますがマッチ、ソーフ、オシタップ、バス、チョーク等々、号令もレッコー、ゴーへー、スローストップと来ればまごまごして、でもその内、日を経るほどにいつの間にか覚え慣れてしまう訳です。

最高に楽しかったのは日曜日夕五時からの軍歌演習です。太平洋に臨み、松原に囲まれた広場の中、隊員全体が軍楽隊を中心に二重三重の隊列の輪を組み、演奏に合わせて高らかに斉唱行進すれば、また明日に向かって海軍軍人たる誇りと気力に満たされるのです。軍艦マーチに始まり一〇~二〇曲を斉唱し最後はまた軍艦マーチに終わるわけです。

(註2)海軍生徒五省
一つ  至誠に悖るなかりしか
Hast thou not gone against sincerity? 
二つ 言行に恥ずるなかりしか
Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds?
三つ 気力に欠くるなかりしか
Hast thou not lacked vigor?
四つ 努力に憾なかりしか
Hast thou exerted all possible efforts?
五つ 無精に亘るなかりしか
Hast thou not become slothful?

教科は普通学では三角・計測・電気・航空・整備・艦船運用・航海など一般学、実務では体育・闘球(ラグビー)・カッター訓練・地上操縦適正試験、偵察関係では通信・信号・計器など実に多岐に亘っての課業・実務が寸刻の無駄なく日夜遅くまで叩き込まれてゆき、しかも、海軍というのは実にテスト好きで、例えば手旗信号・モールス受発信等々実務のテスト・採点・クラス分けなどは週刻みに繰り返され、遅れる者は休憩時間・食事時間・消灯后就寝時間を削っても追いつかねばならないわけで、一般学も当然又然りです。子供の時から「一夜漬け試験勉強はやらない主義」で課業中に理解し自分のものにしてしまう習慣就けをしていた筈の私ですが、流石に遅れを取り戻そうと血相を変えて、消灯后教員室前の豆球の下で屡々『【軍極秘】教本』を広げる始末でした。

モールス信号を学ぶ海軍生徒

かくて三ヶ月の基礎教育訓練を終ると、一応外見は立派な海軍軍人として伊勢神宮・三重結城神社に参拝した後、いよいよ第二の任地土浦海軍航空隊に転属することとなります。時に昭和一七年三月末のことです。

予科練()―土浦航空隊

昭和一七年四月着任。土浦航空隊での訓練は更に専門化し、カッター漕航による体力鍛錬・地上練習機による飛行適正試験・グライダー飛行実務が数回繰り返され、更にラグビーもどきの闘球競技・相撲競技と体育(鉄棒大車輪・高位平行棒・回転車輪走行・マット空中転回)などの運動機能錬磨、技術実務では機体・発動機整備実務・試運転・射撃訓練・通信力強化・練習機同乗飛行・一部の偵察希望者には写真・測距儀操法指導など六ヶ月はあっと言う間に過ぎ去ってしまうわけです。土浦時代で忘れられないことは

①水中特攻を見送る
土浦に四月着任して未だ一ケ月余にしかならない五月二日、突然分隊総員集合の命令が掛かかった。全員待機するなか分隊士共々、にこやかだが緊張で紅潮した顔で現れた分隊長から、突然「特殊潜行艇乗員希望者自己申告」の話が下されたのです。この潜行艇は、航空機動部隊による空からの真珠湾攻撃の際、参加した特殊潜行艇「甲標的」と称する二人乗り脱出装置付きのもので、当時真珠湾攻撃にあたって結局五隻十名の搭乗員は一名の捕虜(意識不明のうちに米軍に捉えられた)を除き全員戦死未帰還となり、報道陣には「特攻隊」扱いで報道されたが、実は生死進退に関しては出撃者の自由意志に任されていて、当時最大限の帰還の努力をした彼等だが、ジャイロコンパスの故障その他適正処置が果たせず未帰還となったものである。事実は魚雷発射後僅か二名の乗員で秘密裡に湾内より潜航脱出操作は至難の業だったのです。以来帰還を重視して乗員も最大五名までの増員とし、設備も大型化して四段階の改良が進められていたそうです。

土浦海軍航空隊士官宿舎

今回応募に関する分隊長の説明でも、自己申告は飽くまで自由意志を尊重し、応募に際しての意志決定基準は、(イ)一刻も早期に戦場に臨み戦いたいものは(◎)、(ロ)飛行機、潜行艇何れの選択でも好い者は(○)、(ハ)飽くまで飛行機で戦いたい者は(×)で申告せよと言うことで、結局十名余の者が◎及び○で申告しその内より五名が選出された訳でした。翌五月三日に発表、午後隊員全員で涙の内に肩をたたき合い別れを惜しむなか瀬戸内基地へと彼等五名は出発していった。士官と組んでの彼等の第一回出撃は五月三十日シドニー港に三隻、マダカスカル島北端軍事基地ディエゴスワレス港に二隻が進攻し全員戦死であった、以後マーシャル群島メジェロ、西カロリン諸島ウルシはじめ各地に出撃し、戦果はそれぞれ挙げつつも恐らく同様全員戦死されたものと思はれる。所で実は最近私は珍しい夢と出逢ったのです。

それは我が分隊から出撃したあの五名の戦友に関する記憶のことです。今迄七十年間、屡々特攻に関する記事などに出会った時でも、彼等の一人や二人は兎も角全員の顔とか名前を揃ってはどうしても思い出せずにきたものが、つい二,三ヶ月前突然ですが彼等との送別の夢を見たのです。一人々々確かめながら「やあ!」と声をかけあい肩をたたき合って、そこで目が覚めてみた処、何と一人々々の顔と名前がハッキリと記憶に残ってしまったのです。以後、不思議な想いと、胸を傷めながらも彼等の面影を追っている訳です。

靖国神社「遊就館」に唯一現存する実物の「回天」

以上『甲標的』による水中特攻のことをお話し致しましたが、真珠湾以来如何に犠牲を少なくするかと散々改良を積み重ねた『甲標的』ですら尚犠牲のみ多出した事態であったのに、更に以後昭和十九年末から二十年終戦に到る間、無知極まりない一部二、三の中堅海軍士官達により計画・強行された一人乗り人間魚雷『回天』の出撃など無謀を通り越して理性を失った狂気の沙汰としか言い様はありません。

②国体選手に選ばれる
九月体育実技選抜で、神宮競技場でその年十一月行われる国体の選手に選ばれ参加出来たことです。なぜ二〇名ほどの国体出場者の中に私が選ばれたのか今もって解らないのですが、しかし五〇名ほどの強化選手の中に入り、鉄棒・鞍馬・転回・平行棒など体育課目テストに何とか合格したことは間違いないのです。私は分隊では第二班に所属していましたが、実は一、二班の班長は共に整備科出身でしかも体育担当教員であり、他班の者がやっかみで、一、二班員は有利なのだなど言う者もいたようでしたが、私自身としては中学の頃から空中転回と鉄棒大車輪には自信があったので何とかなったのでしょう。元気一杯模範育技を繰りひろげ海軍の若鷲と紹介された私達には、神宮球場一杯の若者の半分は女性であり晴れがましい一日でした。(運良く出場できたのは東京出身を考慮されたかも?)

昭和15年明治神宮国民体育大会(昭和15

③グライダー訓練
グライダー訓練は初級の地上滑走に始まり、中級滑空(高度五〇米付近)迄は全員訓練、そして仕上げは自動車・又は練習機牽引による上級機滑空(高度五〇〇米以上)ですが、これは操縦適正の高い選ばれた者のみ許されます。(リストアップは普段から数回行われる地上練習機訓練成績により区分けされている訳です:操縦適不適の篩い分け)

事実初級段階から既に失速墜落による骨折者を出す騒ぎなのです。初級中級は人手牽引ですから皆搭乗者を見ながら早さを加減してやるのですが、本人は高度恐怖症と錯覚で一〇米も上昇しないのにあがってしまい、操縦桿を無闇に引き揚げ、脚に矢鱈と力が入り突っ張るものですから機首を真上に忽ち失速、尻から“どうっ”と墜落して機体は真っぷたつに大破、操縦者も墜落ショックで腰ッ骨骨折入院と相成った訳です。普段から映像と地上訓練機で操縦桿操作・機体バランスのとり方は充分解っている筈なのにと皆「あーあっ」とため息です。『かったい棒め!(海軍用語で怪我人とか不器用者とかの意)』と忌忌しがる気持ちもありますが、本日夕食抜きでお叱り罰直は必然でもありますから。《テーブル支え》か《腕立て一時間》と言ったところです。たぶん《精神棒》はないでしょうが。

➃土浦A先生弓道場で模範弓技披露のこと:
六月に入って間もなく、突然分隊長より声が掛かり、上等兵曹の先任班長同行で土浦のA先生弓道場に挨拶外出を命じられたのです。当時練習生で航空隊外への外出を許されるるのは月二回の日曜休日のみで、土浦の指定倶楽部で手足が伸ばせる機会のみでしたから、何のためにA先生宅に伺うのか疑問に思うよりも、先ず外出できる開放感の方が先立って胸暖まる思いでした。さて伺ってみると、A先生は霞ヶ浦空並びに土浦空の司令以下隊長、文官教官等士官達に弓道指南をされており、一方東京西荻窪の吉田弓道場吉田先生の弟子でもあった訳で、吉田先生から私のことを聴かれ、一度挨拶方々A道場に伺うようにとのことだったのです。

西荻窪在住の小張氏による弓術指導の経緯から強弓の射術を披露する事になりましたが、入隊で六ヶ月程も休んでいたにも拘わらず弓術の腕は寧ろ安定していて、A先生からは「大変良い弓筋である」と褒められ、以後六,七,八、九月と飛練転属まで月一回の割りでA先生道場を訪れ、時に司令以下十数名の士官見学の前で、先生に倣い模範射術の披露をする栄をも戴きました。強弓で一箭、「パーン」と胸のすく様な音には、お陰様で久し振りに大変心の高揚を得たし、士官等見学者からは褒賞品迄も戴いたが、本来食品は分隊デッキに持ち込めない規則なので、全部先生宅と先任班長に献上した次第である。

飛行練習生として巣立ち

飛練は水上偵察鹿島空に決まる
昭和一七年九月末でいよいよ予科が終了し、飛行練習生として赴任するに際しては二つの選択がありました。一つは自分の今後の任務は操縦か偵察かということ。一般には操縦適性・反射機能が高く、体力がある者は操縦。電機・通信・写真・計測など技術性が高い者は偵察に振り分けられます。今一つは赴任先はどこかということです。自分なりに班長に話していた希望任務は「偵察」、任地は「北九州」でした。そして分隊長から告げられた内容では任務は希望通り「偵察」で好かったのですが、任地がこともあろうに「水上機基地鹿島航空隊」だというのです。海軍航空機は大きく二分すると空母・陸上発着の艦上機と水上・艦カタパルト発着の水上機に分けられ、鹿島空は当時海軍内切っての水上偵察基地隊で、その訓練の激しさは「鬼の鹿島か北浦か」と囁かれていた程のところなのです。北浦空は鹿島空の支隊で実戦基地隊です。同じ分隊(五〇名)からは五名が一緒の赴任だとのことでしたから、丁度一割に相当しますが、私達の分隊からはその年五月に、既に五名の水中特攻(真珠湾攻撃で有名な特殊潜航艇〈甲標的:二人乗り〉で脱出装置つき特攻であり、後の〈回天:脱出装置無しの一人乗り〉ではない)志願者が出撃していましたので、私達鹿島空水上組を除く残り八割全員は九州赴任に決まっていたわけです。

予科練平和記念館・展示室(茨城県稲敷郡阿見町)

敢えて申しますが彼等は艦上戦闘機か艦上爆撃機で南太平洋、フィリッピン沖か沖縄に出撃し殆どの者が亡くなっていると思われます。先日平成一九年八月二十六日ですが、土浦で開催中の『予科練習生遺族遺品展』を阿見公民館で見ましたが、甲種・乙種・丙種各期別練習生の死亡率が展示されているのに出逢いました。甲種一期(S一二年)より八期(S一五年)までは大略八五%と最も高く、云うて見れば全滅です。甲種九・十期(S一六、一七年)でも七二、三%の方が亡くなっているのです。ボードを見詰めたまま“嗚呼!矢張りだ!”と暫しは同期の九州航空隊・水中特攻出撃者のあの笑っていた顔、懐旧の思いに胸を詰まらせた次第です。

当時彼等は私の顔を覗きこんで「鬼の鹿島か、貴様大変だなあ!」と笑うし、班長はちょっと慰め顔で、でも肩をぐっと揺さぶって言ってくれました「一人ぐらいは土浦の傍にいても好いではないか、時には顔を出せよ」と。ですが当時の私は、結局の所鹿島赴任と聞いたとき実は寧ろほっとしていたのです。九州の航空隊赴任希望といった多少でも浮ついた遊山気分が「鬼鹿島」の名を聞いた途端に吹っ飛んでしまい、自分が本来選んだ道は『率先して厳しさにこそ挑戦し、討ち勝ち、己の道は己できり肇く』ことであり本望なのだと反省したからです。

事実それから鹿島空赴任後の私は息も切らさぬ日々新たな飛行課程訓練に追われる毎日でした。かくて鹿島空での六ケ月の飛行練習を終了するや、続いて呉海軍航空基地での三ケ月の発着艦訓練、佐世保通信基地での三ケ月の外電受発信・解読と次々に新たな任務をこなし、昭和一八年一〇月からは再び鹿島空に戻っての偵察隊写真班勤務に就いたのですが、米国機来襲が激しさを増す中、偵察飛行すら難しくなった二〇年三月からは、霞ヶ浦航空隊との間を行き来しながらの海兵出の飛行学生・予備学生出の飛行練習生の初級飛行指導に就いたのです。

富士上空を超えて関東圏へ向かうB29の編隊

ところでなんとその五月にはB29よる絨毯爆撃が霞ヶ浦、土浦地区を襲い、土浦航空隊の壊滅を目前にしました。偶然ですがその早朝に車で霞ヶ浦航空隊に向かっていた私は、突然雲に覆われた上空一面が轟々という爆音に覆われ、湖岸沿い道路の目と鼻の先で、あの懐かしい土浦航空隊が、突き上げる地響き共々数十メートルも吹き上がる爆風の屏風の中に埋め込まれ一挙に壊滅し消えていくのが。そしてもし在隊であれば、あの嘗ての温顔な分隊長や班長、若き練習生達の顔が思い出され、無事であれと祈るのみでした。さて少し話が先の方まで行き過ぎたようなので、土浦出発のところに戻します。

鹿島航空隊:

昭和一七年一〇月土浦空を出発し霞ヶ浦沿いに車で走ること一時間余で到着した鹿島空は、支隊の北浦空と共に中規模の初・中級水上機練習基地ですが、鹿島灘・東京湾方面偵察隊実戦基地でもありますから、霞ヶ浦に面して三方向に飛行デッキが張り出し、初級及び中級夫々の水上練習機(九〇式水観・九三式水偵)基地並びに水上偵察実戦機(瑞雲・彗星)基地と多角的に発進基地が装備され、司令以下隊長・教官のもと爆音を発しながら発着する飛行機数十機と、夫々操縦・整備・給油員が走り、命令し、そこで作業を進めるのですから大変賑やかな航空隊なのです。また居住甲板であるデッキでも、中級機訓練中(二ヶ月後には鹿児島の基地に全員発進)の鹿児島出身乙練の四〇名あまりと廊下を隔てての同居で、なんと私達が着任したその夕には早速彼等に対する厳しい飛行ミス指摘と、翌日の飛行日程説明に続き突然ですが、厳しくも斉々とした罰直光景を目にしたのです。

太平洋を臨む水上機基地鹿島航空隊跡地

それは予科の土浦の比ではありませんでした。罰直をする方もされる方も粛々として、それは当然といったまさに鬼鹿島の名に相応しい光景でした。何故そうした厳しさが必要か?やがて私達が自分達の飛行訓練が始まり、直面してみて忽ち思い知らされました。今までの同乗飛行とは全く異なり、その飛行訓練は日々命がけで新たな緊張の連続。事実その頃、支隊の北浦水上航空基地ではベテラン指導官の飛行大尉が、開発直後の水上偵察機《瑞雲》の急降下試験飛行中に機体分解を起こして亡くなるという犠牲が出たばかりだったのです。


飛行機乗りについて

さて、ここで飛行機乗りと言う海軍内でも一種特殊な能力を持つ軍人の心情を少しは理解しておいて頂きたいのです。それは『一度飛行機に乗ったら病み付きになる』という一言で表現されるあれです。勇気ある軍人であると同時に特異な技術者でもあり、『希少価値ある戦闘能力を持つ集団』、『孤独な武人』とも讃えられるべき自覚と誇りある者です。そしてそれを目標として日夜訓練に励み精進する悦びを識る者です。その厳しい訓練を耐え抜く鋼の強さを持つ猛者でなければならなかったのです。
ところで時局は日米開戦から一年の戦闘期間を経た現在、開戦当初の【奇襲成功】に酔った当時とは異なり、関ヶ原に完全敗北とも言うべき昭和十七年六月のミッドウエイ決戦を経て、益々軍事力を増強する敵との本格的近代戦で【一騎打ち】する時局を迎えようとしている今、あの緒戦に見られた赫々たる戦果に輝き自信に満ちていた陸海軍の将士達は、物量と技術力そしてこれをベースとする情報・戦略で明らかに日本側を圧倒する欧米側列強の優位性に戸惑い、大半は既に自信と目標すらおも失いつつあったことは歴然と見えていました。彼等には近代戦で戦えるに充分な態勢即ち装備・訓練と言うものがまるで理解も準備も出来てなかったのです。そうしたなか、劣勢を知悉しながらも尚且つ精神的に堪えて、唯一勇敢に誇りと生き甲斐を失わずに技量を磨き続け、任務に就いては黙々と闘っていたのは、我が飛行士達であったと思われます。彼等は自分達こそこの近代戦で勝敗を決する兵器=航空機とその搭乗技量を磨き持つ唯一集団であることをよく知っていましたから。

米空母ヨークタウンを爆撃する空母・飛龍の攻撃隊

勿論その技量と判断力の積み重ねが、即結果として戦闘場面で求められる勝利のレベルに達していることこそ必須条件ですから、一人前パイロットになることを目指してどんなに苦しくても必死に努力していました。加うるに練習生のみならず周囲の者、司令以下航空隊全員のとも言うべき家族的なチームワークがあってこそこれも達成されるわけで、訓練が苦しければより悦びも大きいと言うことに繋がります。鹿島航空隊は海軍内では『鬼鹿島』などと呼ばれますが、実は司令以下大変家族的航空隊としての伝統を持ち、なればこそ数多の優秀な水偵搭乗員が巣立ってきたと思われます。またかく独特の伝統は、鹿島のみならず日本海軍全般的にも相応の気風として横溢していたと思はれます。そして一旦前線に出撃を重ねる事になるや、彼等予科練出身の搭乗員達の殆どの者が、結末としては全滅の運命に置かれたと言うことです。この戦争で主役を演じ最も武人として国を守り続けたのは彼等だったと言っても過言ではないと思います。さて話を戻します、

私達は水上偵察初級、偵察中級と半年の飛行練習生教程を、無我夢中ながら何とか無事終え、兵長から二等飛行兵曹に昇進し、さっと次の呉航空隊に送り出され、瀬戸内海での三ヶ月間は、午前中巡洋艦・戦艦搭載カタパルトでの発着訓練(註1)と午後ドイツ人講師(大正八年青島より捕虜として淡路島の収容所に入所し、講和締結解放後もそのまま日本に留まり帰化したドイツ人ですが、彼等は日本にとってはドイツの技術・文化・語学・更には音楽の面などでも大きく貢献してくれました)によるドイツ語基礎学習と暗号通信解読研習(註2)を受け、更には一息つく間もなく次は佐世保行きとなったのです。


註1:戦艦陸奥爆沈のこと
呉空赴任は六月までで、当時は老朽化したとはいえ超弩級戦艦『扶桑』が専ら我々の発着練習艦でしたが、例の『陸奥』爆沈の六月八日は濃霧のため視界不良、飛行中止し待機中のことでした。『陸奥』より1㎞の至近距離に停泊していた『扶桑』からの第一信が呉鎮守府に達するや、爆沈事実には直ちに箝口令が引かれ、私達も全く知らなかったのです。当時第二艦隊旗艦『長門』の補修終了に伴い、広島沖の柱島繋留ブイの陸奥は十三時に長門と交代しての出撃準備作業に入っていた最中の事故でした。ですから爆薬はじめ大量の物資が呉基地から搬入されていたわけです。

堤二等飛行兵曹の発着練習艦「扶桑」

爆発は先ず艦首砲塔直下弾薬庫、艦尾砲塔下弾薬庫そして中央砲塔下弾薬庫と次々に爆発が起こり、結局時限爆弾による人為的に仕掛けられた原因によるものと推定され、しからば計画実行者が何れかとなると、ドイツ大使館関係ソビエト系スパイ組織とか、当時陸奥艦内で検束された共産主義者一派の仕業とか種々取り沙汰はされたが不明のままで終わってしまったわけです。この爆沈で乗組員中戦没者は一千百二十一名で、生存者三百五十三名並びに関係者は結局、引責で間もなく南方サイパン、トラックに転出しその九割の方が戦死という悲惨な運命に置かれた訳です。この事故を最初に発見し一二時一五分打電したのが『扶桑』なのです。ですからもし天候が好くて発着艦訓練をして居れば我々もこの事故の目撃者として巻き込まれ、或いは南方行きでお陀仏になっていたかも?

註2‥ドイツにおける暗号作成・解読技術
当時日本の暗号作成・解読技術は可成り高度で三千種が可能と誇っていたが、ドイツに於いても「タイプライター形式の新式暗号作成解読専用機が開発」され、情報処理能力がなんと世界一と言われる約一億種が可能となり欧州戦線で活用が開始された。との情報に衝撃を受けた日本の情報部に於いてもこれの活用を検討開始していた。アメリカにおけるコンピータ活用による情報処理については、この段階では未だ充分な実用段階に達していたかどうかは不明であった。                                    

海軍時代<後編>へつづく

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