2011年2月20日日曜日

人生と出逢い 第1 回 生まれと育ち 

堤  健 二 (昭和19年 日本中学校卒)

序文

『青年は決して安全な株を買ってはならない』とジャン・コクトウは言う。
『でも所詮は蛙の子は蛙の子なのだ!』と私は問いかけ得心したかったのです。

この生涯史(と言ってもほんの一部ですが)を書く際二つのことに留意しました。一つは自分の生涯のその時々で思ったこと実行したことを、当時の家庭とか諸々の社会的背景を出来るだけ正確に把握し、関連づけながら今一度見つめ直してみたかったこと。二つめは自分をその様に総括した結果から、最後にどうしてもやっておきたいことを明らかにし、人生締め括りの旅の指針としたいという願いです。そして最後に今一度序文に立ち戻り「自分はどんな株を買ったのであろうか」などと、遙かなそしてどこかの大空を遠く見ながら考えて見たかったのです、『自分なりに可成り頑張ったつもり』とか、『蛙の子は蛙の子で良かったのだ』とか・・・・・



生まれから幼少期

時代と背景

それは、四、五歳頃からですか私がやっと物心付くようになって父から聞かされたり、また母や兄たちに確かめたり、そっと横から彼等の会話に耳をそばだてたりしてほぼ確信していた物語です。

*優雅な大牟田

三井の街大牟田に話は始まります。台湾総督府詰めの軍人帰りの父は三井電化に就職し、田舎では肩で風を切る気分で暮らして居たわけです。藩校(後の九州帝大前身・医学、理科系)を出てから独学ですがよく勉強をした様でお陰で当時空中窒素固定法(註1)として石灰窒素法、ハーバーボッシュ法をドイツより相次いで導入工業化した三井電化で、父は無機分析室・石灰購入担当主任の仕事を与えられていたわけです。

毎週電化専用船に乗り、島原の石灰石鉱区に品質確認・購入に出張し、原料・半製品・製品の分析チェックが主要な業務だったそうです。

三井の社宅住まいですが、日曜日は得意のハーレイダビットソンを駆動しては有明海鴨猟で鉄砲撃ちに、夜は喜田流の謡の「して役」として出掛ける日々で、まあまあ安定した生活でした。そんな太平楽な中、三男坊として東新町の三井社宅で私は生まれました。昭和二年一月一九日朝のことです。駐在所のお巡りさんが、サーベルをがちゃがちゃ鳴らせながら戸籍調査で朝寄って「これはよい子だ将来あるバイ」とお世辞でも言うて呉れたそうです。一方、当時の世の中はそんなに悠長ではなく、世界大戦後の不況と金融引き締めによる失業者は巷に溢れ、その年、労働団体指導の元に全国大手企業でも約五万件に上る労働争議が展開していたといわれますが、大牟田でも例外でなく三井事業所(後の三井化学)・三池を中心とする争議は例年のように絶えませんでした。そして、なんと我が家でも、父が突然会社を辞めて争議に参加する事態が起きたのです。後に父曰く『お父さんは今の新しい仕事(註2)をやりたかったから東京に出てきたのだよ』と。でも、母曰く『九州帝大出の譲島さんゆうお友達が失業している言うて、自分の処にお世話したところがその人が先に課長いう偉くなって面白うないけんちゅう辞めたんよ、つまらんか話』と。母や兄たちはそのことで以後暫く大変苦労したようですし、未だ健在の長男は今でも当時のことを思い出してはぼやきます。でもそんな父を必死に支えて来たのは矢張り母なのです。

註1:当時ドイツはもちろん世界的にも石灰窒素法からコスト安のハーバー法への開発競争は激化し、工業化成功が大きな課題だったのですが、譲島さんという方が入社一年でこれに成功したらしいのです。

註2:父のいう新しい仕事とは後にも触れますが、当時労働組合の結成・強化と長期的なストライキの頻発と並行して、企業内生協組合の事業が盛んに進められましたが、その多くが間もなく財政的な行き詰まりで解散することになり、やがてこれが市民型生協組合《購買組合》の事業化を芽生えさせ、父もその将来に注目していたと思います。兎に角事業意欲はかなり強い人でしたから。


昭和24年頃の三井化学 

と言う訳で、昭和二年一〇月、私の生まれた年ですが父は突然私達一家族を引き連れて東京に上京し、民間生協「東京共働社」を訪ねそこで働くこととなった訳ですが、父の仕事の見通しがはっきりするまでは生活の目途も付かぬまま、結局一家四名(母と三人の息子)は再び母の実家である佐賀の叔父(母の兄で当時八幡製鉄所専属医師)のところに暫く身を寄せ厄介になるということで、その年十二月には九州に舞い戻った訳です。私は兎に角、母や兄達の苦労や心配は大変なものだったと察せられます。以後父も必死で動き回り何とか事業と住まいの目途をつけ、明けて三月には私たちは再び上京することになり、以後西荻窪の地が私の第二の故郷であり揺籃の地となりました。父の講買組合共同会の事業が急速にスタートし始めた訳です。

からくりは当時の政党立憲政友会に所属し、父と同郷久留米出身で有馬藩主後裔 有馬頼寧氏(当時西荻窪に在住・註3)がバックに立ち、有力会員の紹介・事業推進を援助して戴いたお陰で事業もとんとん拍子に発足できたようですし、何故西荻窪が事業基点となったかということも想像出来ます。

この当時、昭和の初期の政治運動・労働運動・生協運動など社会事業の創業推進者はまだまだ華族氏族などのインテリー層が主体で、大勢として一般庶民が参加できるようになったのは戦後民主化を迎えてからのことだと思います。ですから九州時代から父はそうした時流を理解し、対応を考えていたのだと思います。

*東京住まい

さて、事業は西荻を中心として荻窪から三鷹にわたる中位以上のインテリー層の居住者(政界人・経済学者・会社役員・文学者・軍関係者等々)に主要出資会員になって貰い、現在の生協に相当する活動を展開した訳で、これが見事に受けて事業は順調に成長に向かった訳です。以後、有馬頼寧氏との繋がりでは「共同会」事業の順調な発展(天沼支部・三鷹支部の開設・淀橋倉庫の設置)のみならず、東京府教育指導員、大政翼賛会地区推進員に推薦して戴きながら、一方では社会主義的性格の強いこの種の事業者に疑惑の目を光らせる特高警察との駆け引き、そしてこれは私の目の前で起きたので今でもありありと覚えていることですが、二度三度と繰り返す特高警察の踏入捜査(思想担当刑事が突然黒タクで乗り付けての左傾資料の押収:証拠物件として"家の光"など農村向け啓蒙誌押収)で危ふく母が拘留されそうになったり、父が斡旋してやった留学生の朝鮮人・台湾人使用人に対するスパイ容疑拘留の釈放手続き、経済警察の嫌がらせ計量検査(暗黙の袖の下要求)といった事件が続き、その都度、有馬頼寧氏には父の相談に親身に乗って貰い、庇護の労をとって戴いていたようです。昭和一六年国家総動員法による配給制が強化され、いよいよ"共同会"が閉鎖に追い込まれた際にも、東京発動機(株)(当時鉄道用ディーゼル軽車両を生産し満州の満鉄・軍などへ納入をしていた)東京本社(志村)人事課長職に早速世話して戴くなど最後まで面倒を見て戴いたようです。

註3:有馬頼寧氏:久留米藩主有馬頼万の長男、東京帝大農科卒業後、農務省勤務、農民救済、震災義捐など熱心な社会活動を経て立憲政友会所属で衆議院議員、有馬家家督を継いで伯爵となってからは貴族院議員(今の参議院)、第一次近衛内閣で農林大臣、大政翼賛会事務局長などの任を経て終戦後は『有馬記念』で有名な競馬振興に尽くしています。特に昭和一五年当時は近衛文麿首相(第一次内閣)(荻窪荻外(てきがい)荘(そう)在住)、米内光政海軍大臣(当時西荻窪在住)等々と連携し英米との開戦反対派・大陸出兵の短期終結主張の立場をとっていたようです。


昭和27年頃の西荻窪駅北口の風景 


*早大にはいるまでの年譜(幼少期・小学校時代)

西荻の生活はこうして始まり、家の中は父母と私と夫々四歳づつ年上の二人の兄の三人兄弟、それに何時も十人余りのご用聞きと称する小僧さん達同居で、以上十数名の家族が一つ屋根の下という大変賑やかなものでした。食事後にはよく「談話会」があり、父母はともに九州福岡近郷久留米・柳川の出身、父は久留米藩、母は立花藩柳川出ということで何かにつけてよく福岡・佐賀・大牟田の昔話が話題になりました。(大牟田は当時未だ藩政時代の係累で、人脈では久留米の系列下に在ったそうです)小僧さん達は長野・新潟・青森そして後には朝鮮・台湾出身の人達も加わるなどして地方伝承の話に花が咲くのですが、面白いのは出身地が大きく異なっているのに似た話というのが結構多く、しかも最終段階で全く結末が違った話になると、一体どちらが本当かということで議論を呼び、家族中ともども私自身も大変面白がって聴いていたものです。昭和二年当時の杉並区西荻窪は豊多摩郡西荻村で震災後下町からの転居者が盛んに入居し始めた頃です。東京市(当時人口五六六万人)三五区の中の杉並区になったのは昭和七年で、西荻駅から南北に延びるメーン通り沿いの商店街周辺こそ家が密集していましたが、一歩横道に入るともう草っ原の空き地だらけ、そこには盛んに新しい入居者の住居新築が始まっていました。桃井第三小学校は私が生まれた昭和二年に西荻窪に初めて創設された小学校で、兄達も皆々ここの卒業生です。どちらかというと人間性育成を重んじる小谷校長の方針が貫かれ、その点、進学率をも重視して、朝とか課外時の進学補習を主張する若い先生方は、条件付き補修の実施にはかなり不満があったようですし大牟田の三井附属小学校で学んだ兄達も完成直後の学校設備や教科内容の不備を指摘していました。私の担任の荒正弘先生も課外授業には積極派で校長とは時々意見衝突していたようです。但し小谷校長と教育指導員の父との関係は友好的なようでした。

小学校時代で一番忘れられない人は六年間担任をされた荒正弘先生です。仙台師範出身でまだ若いのに卒業直後にはホタルの産卵研究で博士号をとっていて私が土曜課外に校庭で遊んでいるとき生物学室から手招きに呼ばれ、ミジンコの顕微鏡像を見せてくれたり、生物標本の作り方を指導して戴いたりしたのが理科に興味を持ち始めた動機になったのは間違いありません。

先生とも変にウマがあった様な具合でした。それに前にもお話しましたが母の兄は八幡製鉄所の専属医師であり、母もその下で看護婦の経験があり腕前・知識も中々のものでしたから、私自身医師とか生物関係には特別親しみを感じていた訳です。

家庭でも犬猫は勿論、その他文鳥・鶯・ほほ白・カナリヤそれに鶏・金魚・亀・鈴虫まで入れ替わり立ち替わりで飼われており、これが私に《動物による癒し》を覚えさせ、《動物好き》にさせてくれたと思います。また世話する方も人手には不自由しませんでしたから。

*小学から中学にかけて

身近に起きそして自分の目で見て感じた昭和風雲録とも言うべきものを列挙しますと①昭和六年九月:満州事変が勃発したが、以後昭和二〇年七月ポッダム宣言受諾し、九月日本側の全面降伏調印で終わった長い泥沼の一五年戦争に突入することになった:満州出兵が始まり《共同会》でも小僧さん達三名が出征したが一名は帰らなかった。生きて帰った一人は金鵄勲章を、いま一人も勲章を貰い、のち、父の斡旋で夫々長野・東北出身で、得意先の女中さん勤めをしていた娘(ひと)(当時不況の真っ只中、農村からは多数女中奉公に来て居た)を嫁さんに貰い、それぞれ三鷹と天沼の支店長になった。だが私がその人達から戦争の話を聴きたくても、殆ど話はしてくれませんでした。その戦争は矢張り悲惨なものがあったらしいのです。

この年春休み母と子供三人は久しぶりに九州に里帰りした。四歳になった私が覚えていたのは岐阜を列車が通過したとき突然山中大雪の中に列車が突っ込み、兄が大喜びでデッキから雪の塊を運んできて私に見せてくれたこと、大牟田の駅前から広い産業道路が三井三池港の方までずっと降って見晴らせたこと、そのあと東新町の元社宅を訪ねたとき横を川が流れ水車が回っていたこと位です。


門柱に当時の面影が残る、現在の桃井第三小学校 

昭和七年:一月上海事件勃発・三月満州国建国宣言に続いて、五月、五・一五事件勃発した。犬飼首相射殺、有馬農林政務次官所属の政党政友会も襲撃目標にされていた模様。父落ち着かず、電話が掛かってくる度に二,三言話しては、ご用聞きの主任さんとなにか囁き合っていた。

②昭和八年:日本は三月、ドイツはヒトラー首相となった後一〇月に国際連盟脱退し、またアメリカ大統領ルーズベルトがニューディール政策で、先ず大型ダム建設に乗り出すなど重工業を起点とする産業業復興を図る中、日本は満州から河北に戦線拡大。英国・日印通商条約破棄、ヒトラーナチス党台頭。父独り言『戦争はどうなるのかな?』と私を見て呟き、私も父は何か心配なんだなと感じた。その年四月から私は小学校一年生に進学した。進学テストだと言って、上の兄の担任の中野先生が三角だの円だのと図形問題を出すので困った。

一方、庶民・子供達の生活感覚は未だきわめて太平楽で、夏には毎日吉祥寺井の頭公園のプールまで兄と一緒に水泳に通い、可成り泳げるようになった。帰ってきて、母が井戸で冷やして置いてくれた西瓜を食べるのが日課で楽しみであった。夜は中島飛行機社の野球グラウンドで東京音頭を踊り、野外映画の朝日ニュースで満州事変出兵の勝利の映画とか、ありもしないと云われる爆弾三勇士の映画、ソ連赤軍のクレムリン「赤の広場前」での猛烈に強そうなソビエト軍の軍事パレードを観ていると、とても日本が勝てる敵ではないと不安な気持ちに駆られたり、他方では、やれ古川ロッパ・徳川無声の笑いの大国、やれ玉錦・男女ノ川の優勝や如何にとか大人の話の仲間入りし、一方子供同士の遊びに夢中で、毎日地元の池でトゲ魚・川エビ・蛙捕りや、父に連れられてラグビーの早明戦を見てきては、ガキ大将達数名を集めてルールも何も解ったような顔でスクラムを組んで大騒ぎしたり,それが今少し大きくなって小学三年くらいになると、ビール箱で船を作り山椒魚を捉まえようと山田(当時有名な造塑型作家)の池の中の島に漕ぎ出したものの水漏れで、途中で池にはまり込んでの濡れ鼠で家に帰り、すっかり家中の皆から笑いものになったりでした。

③昭和九年一二月:ワシントン海軍軍縮条約破棄通告。父"海軍が増強されるのは好いが大きな戦争に拡大しなければよいが!"と。その年、従兄弟の弘利が佐世保海軍航空隊に志願入隊のこと佐賀の叔父より便りあり。従兄弟はのち重慶渡洋爆撃に出撃。長距離爆撃機で日本初の自動操縦装置付き。眠ってる間に目的地に到着するので操縦手は楽だとか言っていた。だがその頃従兄弟は体を毀した模様で後海軍病院に入院した。

④昭和十一年五月:国のファッシズム化が着実に進むなか、これと平行して特高警察の対思想犯監視も益々強化され、私の同級生の岡千里君の屋敷(「共同会」会員)周辺も特高の日夜厳しい張り込みを受けていた。折しもサンフランシスコ在住で岡君の祖父にあたる在米社会主義者(印刷業:機関誌発行)岡繁樹氏が娘道子さん親子を米国に迎えるため来日したが、特高の監視厳しく東京駅の東京鉄道ホテルから一歩も出られず、結局道子さんの要請を受けた父の計らいで我が家の電話利用で会話して貰うことで、祖父と親子・孫の声の連絡のみはしてやることが出来た。岡繁樹氏は結局六月にホテルで身柄拘束、熾烈な拷問と聴取の後米国に強制送還され、戦時中はビルマ戦線で日本兵に対する宣伝活動に従事したと伝えられる。のちモスクワコミンテルン野坂三造氏の指令で上海に飛びゾルゲ事件の一端にも関わったとか。その後、同級生岡君の消息は気に懸かっていたが、戦後、昭和六三年編集の小学校名簿で観ても消息不明空欄で、或いはアメリカで暮らしているのかとも思ったりしています。

⑤昭和十一年:一月日本はロンドン軍縮会議脱退し軍備拡張時代に突入するなか、二月二、二六事件勃発。前夜から降り出した雪が20㌢程積もった朝であった。学校は午前中習字自習に切り替へ、自習中に荒先生が『何かやる者はいないか?』と言われ、私は早速級友一人と相談し、国語教科書中の狂言「末広がり」で太郎冠者と次郎冠者役をそれぞれ教壇に出て即興ではあるが熱演した。午後は休校で級友四人連れ立って、雪の積もった道々立哨警備する憲兵隊の怖い顔を見ないように、俯きかげんで足早に、道路両側に物々しく架銃した間を縫って雪道を帰る。私「どうなるの?」、父「陸海軍がぶつかるかもしれんよ、海軍が品川沖に軍艦を進めているそうだよ」。其の後海軍陸戦隊の一部が芝浦埠頭に上陸したとか。「高橋蔵相が撃たれた、民間人はどうなるかな?」と。私の友人には鈴木中将はじめ陸海軍の子弟が多いが彼等の家庭はどうなるのかな?と思ったりしたが、結局陸軍中尉を父にもつ松村君以外は皆登校し元気だった。その後松村君は登校していない。後日のことであるが二、二六首謀者は満蒙国境に移動し、関東軍に編入されたとか秘かな話しが囁かれていた。

⑥昭和十二年七月:廬溝橋で日中衝突し戦争に突入(日支事変)。父「今度は満州事変の様に短期と言う訳には行かない長くなるよ」と。

この年海軍甲種飛行予科練習生制度(註1)が創設され中学四年卒の第一期生二五〇名が横須賀海軍航空隊に入隊。(第一期生は昭和十七年には飛行少尉に任官し、我々が横須賀鎮守府に空母乗艦をした折りには、格好良く空母上を案内し説明する一方、艦隊の南方出撃の話とか、シンガポール寄港の話などをしてくれた。)

十一月海軍陸戦隊は杭州湾上陸、日独伊三国防共協定。十二月南京陥落し国民政府は→武漢・重慶に移動。海軍〈一式陸攻〉による渡洋爆撃開始。当時海軍飛行兵曹の従兄弟も参加した。父「いよいよ泥沼か?」と。小学校単位で『南京陥落祝賀提灯行列』に参加した。晴々しい顔は軍人達が一番か?街では応召者の戦死帰還が目立ちだし、戦死者の奥さん達の白けて悲しげな、そして顔をそむけて涙に濡れた顔が私の印象に残った。

註1:当時海軍では、少数派だが山本五十六参謀の主張から、海上戦略の主体が、従来の巨艦主義の制海権争奪戦から、航空機主体の制空権覇権争奪に移行するとの情勢判断に基づき、空母戦力強化と並行して、強健な体力と専門能力を持った航空技術士官・下士官の大量養成が急務との見通しから、従来の乙種・丙種に加えて甲種飛行予科練習生制度が発足された)。


昭和11年2月26日・永田町一帯を占拠する兵士たち 

⑦昭和十三年四月:国家総動員法公布で朝鮮志願兵制度、配給統制法、電力管理法、物資総動員計画で各種製造・販売制限が定められた。父「朝鮮人兵卒の仕事は非道いらしいね。配給制度になると『共同会』の仕事が難しくなるね、今後のことは有馬さんと相談しなくちゃね、まあこんな時は軍人が一番だよ」と人の顔を見る。それは自慢していた台湾時代の栄光(台南駐在→ヤミ族蛮社内紛争和解成功→昇格して台湾総督府付き官員)のことを言っているとすぐに解りました。でも私は内心では〈軍人も格好良いが自分には向かない〉と思っていたわけです(私は性格が温和しく医者か生物学者とかが向いていると母もよく言っていたし、自分でも同級生の軍人の子のように晴晴しいことは自分には無縁だと考えていたのです)。但し友人では鈴木宗作陸軍中将(当時中支那方面軍参謀副長、後に太平洋戦争勃発し山下奉文司令官のマレー作戦では参謀長を務め、更にフイリッピン・ミンダナオ作戦で司令官として指揮を執り昭和二〇年四月十八日戦死)の息子を始め、陸海軍軍人を父に持つ同級生が多数いて、家に遊びに行くと結構兵隊ごっこに加わるなどはしていました。特に鈴木君は親友としては筆頭のほうでしたから、私が予科練に入隊するときも、当時府立四中在学中ながら伊豆長岡で結核療養中の彼を訪ね励まし合った仲でしたが、戦後間もなく結核のため亡くなりました。

八月に佐賀の従兄弟の弘利(私より十歳年長)が佐世保海軍航空隊から休暇を貰い父を訪ねてきました、海軍飛行兵曹として当時中国の首都重慶・仏印国境援将ルートの渡洋爆撃に参加するベテランパイロットであったが、この後士官として軍人の仕事を続けるか、退役して民間航空会社または中島飛行機製作所のようなメーカー勤務に切り替えるか迷って相談に来たらしいのです。結果はどうだったのか知りませんが、当時私が彼を通して海軍をより身近に感じるようになったのは間違いありません。しかし翌々年彼は病を得て佐世保海軍病院で亡くなりました。佐賀の叔父からの手紙を見て父母はそっと泣いていたようです。

十月、毎年のことだが上の兄の小学校以来の友人達四人が最後の集まりを我が家で開いた。当時兄は早稲田の商学部に、小室さん云う人は商船学校、一人は海軍機関学校、今一人は海軍兵学校の夫々三年生に在学中だが軍学校修学年限短縮で、明年から夫々に任官するとのこと。皆いつものように笑って話し騒めくなかでも、『次は南方で会うか!』などと話は穏やかでありませんでした。

⑧昭和十四年八月:満蒙国境ノモンハンで日本軍大敗。但し前半は圧倒的な勝ち組、後半は壊滅的な負け組と従軍者は明暗を分けたそうです。国内電力・石炭危機。九月ドイツポーランド進撃開始、十月各種統制令公布、十二月野村大使(中学先輩)・米グルー大使会談するも通商条約締結成らず。既に米国も日米交戦の必至を予期して、双方にとっても中途半端な妥協は排除することで考えがきまっていたらしい。


戦後1950年代の中島飛行機製作所東京工場 

そうした世情を反映する如くに、西荻窪青梅街道沿いに中島飛行機製作所東京工場が設立され、海軍の『ゼロ戦』、陸軍の一式戦闘機『隼』のエンジンの設計製作を開始、西荻窪―中島飛行機製作所経由―荻窪間の道路拡張とアスファルト舗装工事も急ピッチに進められ、やがて乗合バスも朝晩は常に満員で運行、毎日、工場従業員朝夕の出退勤ラッシュ開始で、暢気で静かな西荻駅北側の街通りも俄に埃っぽい慌ただしさに包まれるようになりました。海軍の新鋭戦闘機『零戦』、長距離爆撃機『新一式陸攻』はこの年試験飛行に成功しましたが、陸軍の『隼』は旋回機能・航続距離延長など改造に手間取り、すこし遅れて昭和十六年に試験飛行に成功しました。



第2回・「中学入学」へ続く

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