2011年8月5日金曜日

人生と出逢い 第4回「復員:岡谷‐それは交響曲の故郷」<後編>

堤 健二(昭和19年 日本中学校卒)

春-田園交響楽

終戦の冬が明けて、昭和二十一年三月になると父達は疎開工場勤務から東京本社の業務に戻りましたが、私と母とは食糧事情が未だ悪い東京に行くのを見合わせ、岡谷で食料調達のための農耕をして待つことにした訳です。何しろ二五㌶(五〇〇㍍四方)くらいの広大な工場用地が空き地で農耕用に自由に使えると言うことですので、会社で試作したトラクターの試運転も兼ねて、蔬菜類・麦・馬鈴薯・甘藷・トマト・胡瓜・茄子・南瓜・玉蜀黍・枝豆・粟・稗・胡麻とあらゆる物を作り結構楽しい時間でした。早春の雲雀の声に始まり、諏訪湖畔・今井の里では、桜と共にやがて訪れる鶯やら塩尻峠からの多くの小鳥の囀りが、初夏には峠の山々で郭公の響き渡る歌さえ何時も聞くことが出来ました。

桜咲く春の諏訪湖

丁度ベートーベンの第六交響曲"田園"の風景そのものです。農耕で踏み締める素足の裏には土や若草の暖かみ、収穫を掴む時のあの確かな手触り、その艶やかな輝き、頭上には青空と太陽の輝き、そして突然の夕立にも濡れるが儘に『自然と本来一体であるべき自己発見の旅』とも言うべき生活でした。こうして私の『軍(いくさ)に敗れた思い』も急速に癒されて行きました。

敗戦を振り返る

当然頭を冷やしたところで敗戦への反省も乗り越えねばならぬことでした。『加害者あれば被害者ありで、止むを得ず戦かったのだとしても、勝つために戦う基本がまるで出来てない状態での開戦でしたし、米国に留学しその産業力を嫌と言うほど見せつけられていた山本五十六長官が警告したように一年しか戦える状態ではなかったのですから』。世は日露戦争・日本海海戦の時代は遠い昔のことだったのです。陸戦主体より海戦主体、大艦主義の制海権より空軍力による制空権支配、操縦機能より偵察機能そして情報処理の重視、即ち精神力も大事ですがより人命優先と充実した技術力重視に今少し透徹しておれば、英米との開戦反対派を押し退けての戦争も簡単には起きなかったし、万一起こしても外交を含めた総力戦の方向で、昭和一八年度中には講和に持ち込み、最小限度の被害に収めることも可能であった筈です。

32代アメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルト

戦争踏み切りに際し、米国は巨大発電ダム完成と強力な産業力復興の可能性を見越した上で、ルーズベルトが開戦に踏み切っています。たとい真珠湾の被害が多少予想より酷かったにせよ、近代戦主力の空母は全く無傷だったのですから、米国としては賢明な選択であった訳です。戦う以上は勝たねばならないのですし、開戦には充分準備が整い、しかも戦争相手国が開戦への国民的意思を見事結束させて呉れたのですから。一方日本は結局はめられた訳です。だから簡単です、日本もダム建設からやり直しすればよいのです。無謀な開戦の失敗を真摯に反省―例えばインテリジェンス戦での完敗が以後総ての敗戦に繋がった事実などー科学力・生産力・民政・外交・軍事面で、科学的識見に優れ確かな経験を備えた国際的人材を育て研鑽を積めばの話です。

或る友人

さて丁度こうしたとき、一人の友人が出来ました。東京外事専門学校(現東京外大)支那語科二年の山口譲氏です。彼は終戦で一旦東京を引き払い彼の父を始め家族がいるこの岡谷に戻ってきたそうで、彼は私の父が勤務していた東京発動機岡谷工場の工場長・常務の次男坊でした。彼は私と同年代で、黙って農耕に打ち込んでいる私に興味を抱いたのでしょう、声を掛けてきたのが交際のきっかけでした。彼は暇さえあれば話し掛けてきて、私は専ら黙って聞き役でした。でも決して空耳やいい加減に彼の話を聞き流していたのではありません。只当時の私は、どちらかと言えば自然との対話に心を奪われていたのです。

当時の東京発動機(現トーハツ㈱)の揚水ポンプ(「VA-70型」

彼の話は日本の当時から将来像への見通し、中国のみならず亜細亜・アメリカ更には欧州に対する思想とか意見、日本の政治・文学・思想家等々散々こき下ろしたり稀には称揚したりと、取り留めないようで熱っぽく次々と、私も実は大変惹き入れられ、同感し、所によっては多少疑問を抱きながらも聴き入っていたものでしたが、これがその後、私の考へ方に可成りの影響を与えたことは否定できません。新分野の小説、外交、中国史観、哲学史観等々新たな分野にまで改めて私の興味を掻き立ててくれたし、私の進学意欲にも影響するところ大でした。生涯忘れられぬ心の友となった人でした。

再出発に向かって

その年三月からは毎月東京の父の許へ食料を届けながら往復しました。父は会社で斡旋してくれた寮に入っていて、そこは大きな屋敷を会社が寮替わりに借り上げ、幹部職員十数人が皆々単身で、部屋は別々ですが食堂は共同で使用しての暮しでした。当然私も父の処に行けばそうした方達に挨拶し話もしますし、私の担いでいった食糧もそうした方達の空腹を少しは満たす役には立っていたと思いますが、そうした方達からの父への助言などもあってのことでしょうが、七月初旬何時ものように父の許にリュックに糧食を詰めて担いで行ったところ、急に革まった父から「戦争には負けたが復興すればこれからは矢張り学問だし、大学進学を考えてみないか」と勧められたわけです。

当時と変わらない旧岡谷市役所(昭和11年竣工)

ところで、私が海軍から帰ってきてから早くも半年が過ぎようとしていましたが、この当時ともなると、私なりに少し落ち着いて、周りの人たちを海軍における修練と対比的に観察するようになっていました。どうもその人達の言動・行動を見て居ますと実に無駄が多いと感じたのです。無用な時間潰し、自己弁護、非科学的無知、誤った認識に基づく恐怖・固執・遅疑・遅滞等々の行動です(これについては岡谷時代の読書生活で「超克の哲学」の項で既に述べました)。勿論私とてそうした人たちの中に居ては世間並みに生活している訳ですから、一緒に話し、同調し、行動しておれば別に不都合はないのでそれで好い訳です。

所謂「超克の心」

然し、もし自分が一旦一人で何か目標を決め、集中して実行に移す段になれば、目的に向かって無駄な言動、無駄な行動は一切省いて、言わば少し人離れした集中力をもって直進する訳です。かくて目的は人の二倍も三倍も効率よく達成されることになる。と、これが私の当時の娑婆の人に対する評価ですし自分の行動規範となっていました。事実人が『甚だ困難』とか、『不可能に近い』など指摘する難点も、多くは、慣例に囚われずにじっくりと集中して、問題点をよく考えて取り組めば、案外簡単に解決され実行可能のことが多々あります。ニーチェの超克の心を理解し徹せられるかどうかです。

当時私も社会人として如何に生きるかと考え始めておりましたが、このままエンジニアとして何らかの実務に就くか?トラクターによる農村開発など新規開発事業に取り組むか?今直ぐ社会人としてのスタートを選ぶか、或いは今少し学問・技量を身につけ、新たな能力開発・展開を待って社会に乗り出すか?等々私自身も丁度慎重に考え始めていた時期でした。

空から岡谷市を眺める

終局目標は、この荒廃しきった国を興すのは先ず最先端の科学立国を目指すことにあり、であれば私自身こそその一端を担うべく先ず学究への道を選び、大学受験への第一歩を踏み出すべしと想いは傾いていました。

進学を決意

父から大学予科受験の話を聞いたとき『自分には四年半の勉学のブランクと、今改めて勉強を始めても受験迄に六ヶ月間しかないがと計算したのですが、一方海軍入隊前の中学三年生時代、私は既に兄達の受験参考書により英・数・国三科目については一通りの勉学は進めていて、大凡の学習の目途は付いていましたし、結局人が一年勉強して受験するなら、自分は二倍・三倍の集中力で取り組めば、彼等の多くを凌ぎ目標達成は充分可能であり、それなりに人一倍意志を貫くに充分な体力もある!』とも考え、父には即座に「判った、やってみる!」ときっぱり答えて岡谷に帰ったのです。父は私があまりに簡単に同意したので多少不安だったと後で母に語ったそうです。

― 夏・秋 ―

占領政策で軍学校生徒の国立大進学制限

受験と言うことになると大学・予備校など少々情報も欲しいし、二、三日東京に滞在し、終戦以来の友人達ともこの際再会することにしました。中学の友人では慶応大の不破君・丹羽君、早稲田大の植田君・桔梗君、東大の家村君、ジャーナリストの大塚君、慶応大受験で城西予備校に通っている加藤君と言ったメンバーであった。夫々が元気溌剌として希望に燃え、理想を語り、皆心から励まし助言をしてくれた。鹿児島の旧家で代々造り酒屋即ち醸造元で且つ音楽家の家系の出である家村君は、当時東大経済学部に通う傍らアルバイトにピアノ教師などもしていて、私が信州岡谷の高原に暮らしている様子等を聞くと、早速ベートーベンの田園、ビバルディの四季などレコードを二・三曲聴かし乍ら『君は音楽へ進学すれば成功するよ』など勧めてくれた。

旧制松本高等学校本館

然し当時マッカーサー司令部の占領政策で、旧陸海軍学校生徒復員者の国立大入学は禁じられており、実は私も已に今年二月には父の公務で松本出張に同行し、旧制松本高等学校の入学願書手続きに行った折、GHQ指示により軍学校生徒は受け付けないとの対応を受けその事は知っていた訳です。結局私の第一目標は私学早稲田大学辺りに絞られそうだといった感じであった。医学部、哲学部など東大受験も視野に入れていた私としては一寸胸に引っ掛かる占領政策で、『そんなに敗者を押し潰したければ次は此方がどんな形であれ勝者となってやるさ!』と呟きながらも、『これから如何様に本格的な敗戦のツケが回ってくることやら?』と。一寸気がおもくなる。

日本中学校での卒業証明発行の依頼手続きを済ませ、更に予備校の入学手続書を受け取ると、もう今回東京はご用済みの処だが、実は小学校の先生友人達の動静、特に結核療養中の鈴木君(父君は既に戦死)のことが胸に引っ掛かっていたが次の機会までお預けとした。

私は岡谷に帰ると直ぐ母と、そして当時飯田の農学校で教諭をしていた下の兄と相談し、あとのやり残した夏秋に向けた農作業の準備・始末を一週間ほどで手早く済ますと、兄達が使い残していた受験参考書を手にして早速父の許に上京、城西予備校の入学手続きを済まし即受験勉強に入ったわけです。こうして父と二人で自炊しながら毎日予備校での五時間半、家で五時間勉強する受験生活が翌年昭和二十二年二月まで続き、否応なくいよいよ受験シーズンに突入していった訳です。

城西予備校と高見清先生

城西予備校は当時京王帝都線の西永福にあり毎日通ったわけです。予備校生は矢張り終戦直後でもあるので、陸士・海兵はじめ軍学校生及び帰還軍人が全体の約八〇%を占め、一方終戦後のG・H・Q指令では軍学校生の国立大・予科は昭和二十二年度も受験対象から外されていて、従って私大有名校受験に殺到し、競争は可成り激烈になりそうでしたが、要は実力次第だからと余り気にもしてなかったのです。

大宮八幡宮(西永福)に咲く寒桜

数学・国文・英語が受講科目でした。国文では小説家高見 順先生、数学では早稲田大学の数学の先生で高見 清先生がおられ、受験生の中で大変人気がありました。特に高見清先生の数学は『天才主義』と呼ばれ、教材無しで黒板上に問題を提起し、ヒントだけ与えて終わりです。そこで後は各自で時間内に回答を出さなければ、その後次々と関連した問題が出され、ついて行けなくなるので皆必死です。と云うことで嫌でも実力が付いてしまうのでした。そして私にとって生涯忘れ得ない思い出となったのは、受験前一月の最後の授業で何問か例の調子で問題を提起した後、「今日は最後の授業で皆明日からはいよいよ受験に挑戦となるのだが健闘を祈る、そこで最後のとっておきの問題を提案したい。これを解ければ〈天才〉と認めよう、但し解答時間は五分間、解答の第一ステップだけ答えればよい。」というのです。

緊張が流れる中、「集中!集中!」、『問題あるところ必ず解答あり』と取組んで行くと、なんと約三分で解けたのです。手を挙げたのは私一人。そして黒板上の問題を目で追いながら第一ステップの仮定を答えると、先生は「正解!」と叫んだのです。感激でした。そして先生の改まった次の言葉は今でも忘れ得ない貴重なものです。「みんな本当に数学をやる気なら理科系ではなく哲学に進むことが大事だ!!」と。これは勿論その場の受講生全員に述べたことですが。新鮮でした!

数学は哲学が基本

哲学者の宇宙探究の課程こそ数学発展の歴史を綴ってきたと思われます。ですから哲学史の追究は必ず科学史・数学史の学究にも繋がり、やがては数学・科学の未知分野への研究展開ということにもなる筈です。古くは地動説・天動説であれ、唯心論・唯物論であれ、波動説、量子論であれです。

5回「早大・学院へ」へ続く

0 件のコメント: