2011年10月16日日曜日

人生と出逢い 第5回「早大・学院へ!」<前編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

学院入学の経緯

戦後の激烈な競争率

進学目標は一応早大高等学院においていたのですが、前述したように、敗戦後のこの年は旧陸海軍学校生徒並びに復員者は、G・H・Q指令により国立校入学枠が無く、そのため彼等は皆私学受験に殺到する始末であった。従って学院理科受験の競争率は何と四十倍という激しさになり、文科でも十数倍という厳しさでした。

一方私としては、学問をやるからには今後何年でも納得のいくまで勉学して実力を付け、できれば医学(それも精神医学とか遺伝学など)か数学者、或いは大手企業の技術者であれ、「兎に角国の再建に大きく役立つための進学なのだから」と割合暢気で、必ずしも早大に進学先を絞ったわけでもなく、寧ろ合格できるところであれば、其処を天命としてスタートすればよい位の気分でもあったのです。但し敗戦以来鬱積する気概としては「本来国が目指した世界一流実現に向かって、面目一新の第二ラウンドであり、今度こそ失敗は絶対許されないのだ」という情熱に燃えていたわけです。

早稲田大学高等学院校舎(現在)

入学試験は?結果は?

ところで早大入試試験問題ですが、前述したように大変な競争率なのでさぞやレベルが高い難問で来るだろうと覚悟を決めていたのですが、何と期待に反しこれでは、殆ど誰でも容易に解けそうな問題ばかりなのです、想うに戦後現役受験組の学力低下に配慮したという訳か、特に英・数(一部物理・化学応用問題も含めて)では物足りない程易しく、『こんな出題レベルでどう実力差・試験合否を決められるのかな?』など疑問を持ちながらも、兎に角早大高等学院理科・文科双方に合格した訳です。

早大学院キャンパスに咲き誇る桜 

さてそうなると、元来理科系重視の父は理科に進むのが当然と言い切っていますが、私は哲学の方に半分以上興味が傾いておるし、また一方では精神医学・遺伝学など基礎医学にも未練があり、父にどう話を切り出そうか、多分頭から反対されるだろうなどと悩んだ末、切り出してみたのですが、案外父も慎重で、身の廻りの人々一ダース程の事例を引き合いに出し、今の日本のインフラ見通しはまだ混沌としているし、先ず入学を優先して世の動きを考えるのも良いのでないかなど話し合った末、結局浪人をしてまで今から医学者を目指すには歳を食い過ぎているし、哲学も反対ではないが、当分は就職なども含めて生活も難しいのではないか?ということで、取り敢えず早大理科に入って勉学を積みながら次のステップを考えたらどうかということでひとまずその場は決着をつけられたわけです。

新たなスタートへ

戦時下自分の運命を賭けてスタートした中学から海軍時代が、結局は敗戦という憂き目を見る結末で終わった訳ですが、とは言え想像を絶する厳しさもそれはそれなりの貴重な経験―死線を超えての生き甲斐と悦びをすら経験する機会―でもあったのです。そしてその後に続く交響詩に彩られた信州岡谷での田園生活は、そうした『生きる悦び』を私の『生きる意志』として確立させ、今はこの碩学への出発をも鞏固に支えて行くのだと確信させるものでした。

中学同窓では帰還兵の加藤君(落語家三遊亭金馬師匠の長男)も慶応の理科に合格し、そこで中学の友人達数名で連れ立ち、春爛漫桜花綻ぶ上野の森に繰り出し、逍遙し、語り合いそして祝って呉れた一日でした。


戦後の生活は貧困の極み

貧困と荒廃の世相

ところで私が受験のため東京に出てきた当時、昭和二十一年夏頃から二十二年春頃の東京は勿論、焦土化し果てた主要都市の市民生活レベルは酷いものでした。経済状況は戦時中より更に悪化し、米の配給は勿論、あらゆる生活物資の入手は殆どゼロに近く、闇物資や農家からの食糧買い出しばかり忙しく、また農地改革法・公職追放令・労働組合法・学校教育法等改正法が次々に公布されても、生活は悪化の一途を辿り、闇市全盛・インフレー進行の中、ゼネストだ、食糧メーデーだのと世は挙げて騒然とするのみで、あらゆる企業活動も低迷、貧困、失業増大と最低の様相を呈しておりました。私どもも岡谷からの補助は助かりましたが、総じて物不足は免れず、月一度はボロ服を纏ってリュックを背負い、農家に薯や野菜その他、日曜早朝から買い出しに出掛けねばならない状態でした。

終戦直後の買い出し列車 

ですから当時の日本人の顔には、誰も彼も皆々暗い疲れを滲み出させていたものです。貧乏に耐えながらも誇りと生きる気力だけは失うまいと歯を食いしばっていたわけです。但し当時私の心情面から云うなら、社会状況が悪化すればする程、却って復興の希望に向かっての情熱は益々膨れ上がると言った具合で、要するに次に来る時代の大いなる繁栄と自由を信じればこその気楽さに、寧ろわくわくしていたのかも知れません。

復興への苦闘

当時日本人の一人一人皆が共通して自覚していたことは、「貧困と荒廃のどん底にあり、然もGHQの支配と精一杯闘いながらも、日本再建には力の限り取り組んでいる国の施策を当てにするよりは、今は寧ろ先ず個人が再建に起ちあがり、よりよい生活環境は一人一人が築き挙げて行くしかない」との自覚が横溢していたと思います。私の父なども事務系なのに、発動機の在庫探しに狂奔の毎日でしたし、学生の多くの者が進駐軍関係などアルバイトで学費は勿論、親・家庭を助けての生活費の維持にすら必死で協力した日々であったと想います。日本国中皆が斯く努力する以外前途は開けないと覚悟していた訳です。

都下ターミナル駅周辺の闇市風景

学校休暇は岡谷で

昭和二十一年、二十二年中は父と親子やもめで寮での自炊生活(母は岡谷に残り農耕生活)でしたが、早稲田への通学が始まってからは、私は春・夏・秋・正月の各期末試験休暇(合計で年間約四ヶ月)は母と交替しての、岡谷での留守番兼『晴耕雨読』。春には四季農耕の準備に追われ最も大忙しですが、時には、夏、飯田の農学校教諭をしている兄と共に北・南アルプス(白馬・乗鞍・駒ヶ岳)に登山。諏訪周辺で冬期にはスキー・スケート・温泉に遊び、秋には兄と共に飯田の大和館なる肉料理店でご馳走になると言った生活でありました。

東京に家を新築

昭和二十三年四月、東京志村に本社があった父の勤務する会社の援助もあり、念願の我が家を志村坂下に新築することが出来、父母と一家三名で暮らすことになったのですが、岡谷の社宅の方は二十五年春まで学校休暇を利用しては、四季継続して留守番兼農耕に相変わらず通い続けた。まるで別荘通いの観もあったが、約三年に亘る学院・大学休暇利用の岡谷での一人暮らしは、お陰で学校教科を補充してドイツ語・物理・化学工学・数学など大分冊の専門書を専攻し、誰にも邪魔されず読了する為に大いに役立った。

雪解けの春を迎えたJR岡谷駅

時々様子を見に飯田から出掛けてきた兄貴は、イイ若い者が本の虫になっているのが気に入らないのか「お前学者になる積もりか?」など胡散臭そうな顔をして睨まれた。兄貴は好く普段から『学者くらい詰まらぬ者は無いよ!』と言い切っていたから。

岡谷市今井区長I氏のこと

今井の郷の区長I氏との出会いは、私が海軍から帰った直後の昭和二十一年年頭の区会に、父の代理出席した折の出会いに始まります。I氏は戦時中東條嫌いで有名な中野正剛(福岡藩士家に生まれ、早大政経卒後、朝日新聞記者を経て衆院議員、戦時中は右派的なところもあったが、どちらかと言うと自由主義者で憲政会、東方会総裁として、後朝日新聞紙上に米英との早期講和終戦を標榜し、昭和十八年二月に赤尾敏らと共に東條批判を展開、憲兵隊に拘束された後、国士頭山満翁の庇護を受け乍らも昭和十八年十月二十六日自ら割腹自決して果てた、後書生達から数多の名士議員が輩出している)の秘書であった関係で政治倫理も詳しく、どちらかと言うと自由民権派であり、戦後国政にも関心が高く、後に県会議員を経て国会議員を勤めたと聞く。ところで当時私が海軍から帰還後、黙って農業に打ち込んでいる姿に興味を持ち、以後区会のみならず、彼が主催する談話会にも度々呼び出され、懇談会後の意見を発表させられたりしたが、どちらかというと信州人でありながら、理屈よりも彼の人間性の広さが私にとっては魅力で、其れがとりもなおさず当時気持ちの上で多少鬱積気味であった私の胸に、時に涼風を吹き込む如く救いとなり大変有難かった。遠く空を見上げる開放感と再起への意欲を掻き立ててくれた訳です。

中野正剛1886年明治19年)~1943年昭和18年)

一方彼にとっても私の海軍から岡谷での経験・感想は大変参考になると耳を傾けて呉れたものでした。東京に進学してからの三年間、東京岡谷を往復し乍ら今井に在住している間も、時々彼の懇談会に呼びだされ、GHQとか荒廃した東京周辺の再建状況など意見を聞かれては話す機会を持ちました。私の立ち直りに手を差し伸べてくれた大事な方々の一人でした。地元インテリ層の文化部会長など顔役的立場にあり、懇談会・集会・盆踊り会など良く引っ張り出されたりしては、お陰で地元青年達との交流の機会にもなったわけです。但し飯田の兄貴には余計な虫が着かないかなど多少気を揉ませたようですが、私は余り気にもせず、相変わらず『晴耕雨読』の青春と高原の気を満喫しては日々を楽しんでいたと言うことです。事実大分地元青年や娘さん達も紹介され交流の機会はありましたが、この方達とは飽くまでグループ内での出入りに止まり、個人の段階にまで至ることはありませんでした。

本田宗一郎氏との出会い

此の二十三年四月になると、父は勤務先の東京発動機()が主力製品として事業推進を決定した、原付自転車開発・製造から更にオートバイ製造事業(本田技術研究所と一部技術提携)本格化に見合って、販売会社を本社方針で独立させ、父は社長として業績拡大に多忙の極みと言った状況であった。本田社長との付き合いも此の頃から頻繁になった様で、当時設立したオートレース協会の会長として、時々同役員であった本田社長とも会議のあとで付き合いがあり、当時私も父からお会いしておくようにとの計らいで、三度ほど本田社長との酒宴の席でお目に掛かり人柄の片鱗に触れることがあった。当時は未だ自転車屋の親父然と云ったふうで飾らない人でしたが、父と交際でどんなに遅くなっても、当時未だ暗い東海道を必ず愛機オートバイを飛ばして、浜松まで帰られる決めを崩したことはありませんでした。

本田宗一郎1906年11月17日~1991年8月5日

本田原付自転車第一号に試乗

関連して忘れられないことは、昭和二十三年春に本田技研で原付自転車一号が試作されて間もない土曜日、『お前、今日は一寸家に居てくれ』。と朝言い残して出掛けた父が、突然、昼過ぎに原付自転車を引っ張って来られた本田社長と共に我が家に現れ、『お前飛行機に乗っていたのだから一寸此奴を試運転してみないか?』と言うのである。勿論私としては『原付き』などは飛行機に較べては玩具程度のものであるからと、早速スロットルとチョーク作動、ペダル踏替えを確認の上で、見守る二人を後ろに、家の前から交番間の舗装道路五百㍍程を、二・三回高速・低速切り替えで試運転往復し、本田社長に『音が低くてエンジン調子も良好です!但し変速時に躯体に多少がくがく振動がきて一寸耐久性が?』とお返ししたのですが、本田社長もにっこりと笑って『うん!』と頷き返されたのが今でも忘れません。それから暫く後にですが、本田技研に次いで父の務める東京発動機でも原付生産を中止、オートバイ生産を本格的に発表したわけです。私は当時、父も本田社長も、根っからのオートバイ好きで気が合っていたのだなぁ!と思いました。

ホンダ技研第一号車

しかし当時は、幾ら父から「偉くなられる方だよ」等と云われていたとは言え、まさか後にあのような日本を代表する立派な経営者になるとは夢にも想はなかった次第です。

:父は若くして、三井勤め大牟田住まいの頃から、休暇にはハーレー・ダビットソンを駆動しては有明海に鴨猟に出掛ける程の根っからのオートバイ好きだった訳です。 

東京で迎える新年

昭和二十二年元旦、戦後東京で迎える初めての正月でしたが、酒等は愚か米も満足に口に出来ない状況で、それでも明治神宮に参拝に行く道すがら、格好良くターバンを巻いたインド軍守備兵が代々木口を警備して居るのが珍しく、写真に収めようと構えると、彼等は大真面目に緊張して整列・不動の姿勢をとり、撮り終わったところでニッコリ笑って敬礼を返してきたり、お洒落なカウボーイハットで気取っているが、でもアメリカインディアンのジェロニモには絶対敵いそうもないオーストラリア兵や、黒人・白人・日系人米軍将兵など、多様な人種が自由に出入りするGHQ総司令部(第一生命館ビル)前で、ロイヤル・スコットランド騎馬軍楽隊の行進に出遭いますと、その二〇騎程の先頭で、大きな真鍮のタクトを自信満々に振りまわす、カイゼル髭の騎乗指揮官が、私共に目配せしてニッコリ笑って通り過ぎる気軽さには、平和な時代が来たことをゆったりと感じをさせられながらも、一方この占領軍連合国が一体これから日本をどう裁きどう変えて行く積もりなのかなど、将来に向かっては一抹の不安も捨てきれず、正月早々とは言えつい緊張感で気を引き締める一刻でもあったのです。

連合国軍最高司令官総司令部時代の第一生命館(1950年頃)


入学式そして教室・授業等々

早稲田の入学式

入学式は四月初旬大隈講堂で約一千名の新入生を迎えて壮麗に始まりました。軽音楽部員による『モーツァルトの典礼曲』『弦楽四重奏・四季』の演奏と華やかに始まり、大学総長・高等学院長をはじめ綺羅星の如く老教授連が入場し、創学の精神表明、新入生への祝辞に続き、壇上二・三十名の応援部員リードのもとで校歌斉唱に酔う一刻でした。この刻から大隈候により創学された在野精神のもと、早稲田マンとしての学生生活が始まった訳です。

終戦直後の教室

さて、入学後始めて教室に入ってみて驚いた、第一高等学院の教室がないのである。爆撃で戦時中に焼失して我々は第二学院の教室を共用というのである。暖房設備もなく寒さが非道からとて、学生の中の或る者が、教室の隅に積んである毀れた机を壊して、薪代わりにストーブにくべる者があった。その煙が立ち籠める中、先輩でもあるドイツ語の新鋭中村先生が丁度教室に入ってこられ、夫を咎めて「君達情けないよ!」と泣き「君達先輩達が愛した母校教室の備品を薪にするとは、戦争で亡くなられた先輩方も居られと言うのに、顔向け出来ると思うのか!」と諫める一幕があった。


早稲田実業旧校舎(旧早稲田工学校)

この時は級友の多くの者が申し訳ない思いで先生と一緒に泣く一幕となった。それは、この干涸らびた世相の中にあって、この伝統ある学府で学ぶべく選ばれ、更にはこの先輩ありという想い故の暖かい涙であったと思うのです。ところで、その一件があってか判りませんが、多くの学生が、以後この先生のドイツ語講義に関しては、情熱を燃やして学ぶようになり、先生も後に「このクラスは優秀でした」と語ったと聞く。学院の教養学の先生方は早大学部出身の新鋭先輩方が多く、暖かく心を通じながら学ぶことが出来た幸いは忘れられないことである。又、学院の製図室も戦時中爆撃で焼損していたので、早稲田工学校(現在の早稲田実業)の製図室を日曜登校で月三回利用しての授業を続ける始末であった。念願の新校舎が爆撃で焼失した旧第一高等学院跡に完成し、我々がやっと伸び伸びと授業が受けられるようになったのは翌年昭和二十三年春になってからであった。

哲学の第一時限での作文

哲学は皆初めての講座と云うことで、先ずは哲学の定義に就き基礎的講義があった後〝本日はこれから『常識』と言うテーマで皆さんに作文を書いて貰う〟と言うわけです。敗戦直後と云うことで皆価値判断に可成り混乱の最中であり、教授も先ずその辺から参考として開始するための提案だったのでしょうが、私は『生と常識』と言うテーマで、書き始めは「常識は生の残骸に過ぎない、生命は日々新たに、その達成する目的は努力により日々革められ、個人から取り巻く環境に向かって改革を働きかけていく。従って人々の間に過去に於いて共通して形成されて来た『常識』は、常に新たに形成される倫理観念に対しては受身であり、その改革に常に追いつかない。一途に理想を追究する改革者から見れば概ねは無価値な存在となる。然し多くの常識人は古い『常識』に拘る余り、己が生命の目標を見失い、それを実現する努力を忘れ、生きる感動・創造の喜びの人生を見失ってしまっている。従って新たな創造的生き方を求める者には云々・・・・・」と言った調子で、学生然とした未熟でやや激しい論調に過ぎる内容でもあった。

要はうっかり、国家権力に都合好く誘導された『常識』例えば思い出すのも残念な戦時中「一億総玉砕」など、当時の国民としては「絶対遵守すべき真実」と信じさせられて一途に二百万名とも数え切れない犠牲者を生み出してしまった、飛んでもない「常識」には二度と決して惑わされない様に、寧ろこれからは各個人一人一人が真に己が正しい生き方と考え尽くした信念を持って己を磨き生き抜くことを自覚すべきでないか?今こそ己の確立に責任を持ち、心の学問『哲学』に関心を持つて生きるべきではなかろうか?と言った論調であった。さてこれに対しての学校側教授の方々の反響が想わぬ方途に出たのである。

早稲田大学高等学院バッジ(現在)

少壮新鋭の数学の教授は、授業で教壇に立つやいなや「君達の中には凄いのがいるんだね、この間哲学の時間の作文で『常識は生の残骸に過ぎない云々・・・・』だそうだが、哲学の先生もクラス担任の山根教授(国文学で万葉集を講義)も首をひねって居られたよ!」と。そして「これは数学とはどういうふうに有効に関連付けされるのかね?」と考え考え呟いておられたが、その時のクラスの者の背中には、其れを書いた者が誰か?は、一部の者は大凡察しをつけている様であったが、大分の者は互いに周りを探っていると言うところで、数学の先生はというと、大真面目で一渡りサッと教室内を見廻したのみで、さっさと難しい授業に取り掛かられた。

参考までに申し上げると、当時我々の数学の先生は二人居られ、孰れも早大大学院出の先輩で、この時間の先生は「微積分学」担当、今一人の教授は「多次元幾何学の行列式解」を教えられたが、特にこの幾何学は難解で、理解するために、その年夏、岡谷での休暇中大部の時間を割き、参考書首っ引きで取り組む羽目に追い込まれた。関連するテーマでは難解中の難解『ポアンカレー予想』がある。

一方哲学の老先生は、次の時間の講座に来られると、目を瞬かせながらちらちらと教室の中を見渡し「先日皆さんの作文を拝見したのだが、今日はベルグソンの哲学とニーチェの哲学に就きお話します」ときたのである。私の論調が『ニーチェ』と『ベルグソン』の哲学を基調としていることを見抜いた上でのお話であろうと、「流石は!」と感嘆したことでした。

哲学者/アンリ・ベルグソン

私達のクラス担任であり国文学の山根老教授は、万葉集の講義中も心なしか私の方を時々見ているようでしたが「日本人の心は万葉の心にこそよく読み込まれていると思うんです。よく味わってみてください」と諭されていたことは今でも忘れられません。日本人にとって万葉集は今日と言へえども常識の詩集ではないと言うことの様でした。七・八世紀と言えば日本の肇国の時代であり、その厳しさを基調にあらゆる階層の人々の生活、恋、死、自然を当時素朴な自然人の心で詠んだものとされますが、孰れの時代であれ、厳しい時代環境の中で生きねばならなかった人々が、常識を乗り越え乍らより身心を鍛え、強く生きようとしたことは現在の我々と同様であり、これを訴えたものが万葉にこそ多く見られるのだと言ったようなお話でした。

5回・後編「学院のクラスルーム」へ続く

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