2011年11月7日月曜日

人生と出逢い 第5回「早大・学院へ!」<後編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)
 
学院のクラスルーム          

クラスはIJのJ組、担任は国文学(万葉集)山路平四郎先生でした。IJから始まり全クラスでは一体何クラスあるのかな?とか考えながら一年が過ぎ二年でクラス編成替えがあり、自分がPクラスになってみて同学年はどうもJクラスに始まりRクラスくらい迄一〇クラス(約四百名)はありそうだな、とやっと解ったくらい正直のところ同級生皆さんそれぞれの抱える苦労とか、事わけについては、無関心で暢気で、あまり熱心ではありませんでした。ですから学院二年の時に全国学生連盟(共産党員が主幹)が主導で授業料値上げ反対運動が展開され、その一環として高等学院をも巻き込んだ例の学期末試験ボイコット事件がありましたが、その際、葉山在住同窓の山元雄二郎君(電気通信学科卒業直後アメリカに留学)から『自分は母親一人の力で育てられていて、ボイコットに参加してまさかの留年など許されない、申し訳無いがボイコットには参加できない』と真剣な面持ちで詰め寄られたときには、暢気な私も胸が詰まり吃驚したものでした。


現在、応用化学科の学生が学ぶ早大・大久保キャンパス

自分では気が付きませんでしたが、周囲の友人達からは何時の間にかそんな目で見られていたのかと反省したものでした。当時は、岡谷時代から読み込んでいたニーチェ「超克の哲学」、ベルグゾン「生命の哲学」、西田幾多郎「善の哲学」の諸哲学に加えて、労働運動の激化に刺激され、唯物論哲学などにも多少興味を持っていたので、学内唯物論研究会(実は共産党のアジト)にも純学問的な興味を持ち時に顔を出したり、クラスでは長谷川四子男君につられて訳の解らぬ事を喋ってみたりしていましたが、ボイコットの主推進者が唯物論研究会の彼等なのを横目で見ては『アジルのはいい加減にしろ、学園なのだから』と呟いたものでした。当時日本共産党内でも学生運動に反対の宮本顕二と賛成派の徳田球一の対立はよく新聞面で報じられるなど、社会運動も足が地に着いてない中、学生運動も幼稚というか混沌とした時代でもあったのです。

同窓では、建築科に行った寺本俊彦君・福田尚君始め土木工学科の坂井豊君、電気通信学科の坂口敏郎君・山元雄二郎君、応用化学科の瀬川幸雄君はじめ皆々決して忘れることの出来ない懐かしい方々です。ただ奇妙なのは学院・応化時代通して一緒で、その後私の結婚式に迄唯一出席戴くなど交際の一番長い筈の山下博万君の顔がJクラス時代の思い出にはっきり出てこないのが、何とも合点が行かず未だ以て不思議な思いです。


当時瀬川君は現在私が住んでいる荻窪の家から歩いて一分位の所に居られ、物置には驚くほどの薬品類を持っていて、化学実験をするのだと面白がっていたものです。彼はフルートに凝っていて音楽好きなものですから、当時設立されたばっかりの日本フィルハーモニの会員でもあり、私も誘われて歌劇カルメンその他二、三回観劇にお付きあいしました。

今から一〇年ほど前に二村君・坂口君の両君から、便りと一緒に戴いた名簿で解ったのですが、IJから応化に進んだ方はIクラスからは打矢文俊君、宇野沢敏郎君、小磯洋一君、二村隆夫君、林達也君、福島保善君。Jクラスからは木村仁太郎君、瀬川幸雄君、長谷川四子男君、山下博万君の各氏でした。

青春の血に燃えた早慶戦

戦後リーグ戦が復活したのが昭和二十一年で春は慶応、秋には岡本投手らの活躍で早稲田が戦後初優勝したそうです。昭和二十三年にはシベリア帰りの石井籐吉郎らの活躍で優勝。以後毎年のように石井・末吉投手等々の活躍で優勝を重ね、学内の野球熱は弥が上に盛り上がっていったのですが、私達が早稲田に入り学部に進んだのは丁度そうしたときでした。分析実験を終えて薬品に薄茶けた白衣を畳み、応用化学科の建物を出るとすぐ前が戸塚球場、課業時間外ともなると、のんびり出掛けてはベンチに座り込み、選手の練習ぶりを眺めたのが今でも懐かしく思い出されます。早稲田中学出身で根っからの早稲田マンを自認していた二村君は『あれが荒川だ!向こうが岡本だ!若いのが石井だ!』と指差しては教えてくれたものでした。

在し日の戸塚球場。球場下に堤氏が学んだ早大応用化学科の校舎が見える。
当時、早大学院は早大早稲田キャンパスの校舎を使用していた。 

昭和二十五年秋の早慶戦は優勝を賭けた一戦で切符も手に入らず、二村君や瀬川君等とネット裏一般席で応援、見事優勝に酔った最高の時でした。確か以後早稲田は黄金時代を迎え三連覇を成し遂げている。早慶戦と言えば例年のことで後は必ず新宿に繰り出し、仕上げはビアホール「ライオン」と決まったもの、応援歌・校歌の大合唱で若き青春の血潮を湧かす一刻でした。

ドイツ語とのなり染め
―学院Pクラス担任中村英雄先生―

第一次世界大戦下ドイツの銃後家庭について

私のドイツ人とかドイツ語への関わりは古く、確か小学三年生の時二、二六事件のすぐ後で積もった雪がまだ融けきれないうちの事ですが、父の購買組合会員のための一連の講演会など催事企画が当時幾つかあり、その中の一つとして荻窪の天沼教会(今の東京衛生病院の敷地内)のアメリカ人牧師とその奥さん(ドイツ人で当時衛生病院看護婦長)をお招きし、『第一次世界大戦中ドイツ銃後の実情報告を聞く』と題しての講演会を日大二中の講堂を借りて催しました。

私も父に云われて横から拝聴したのが最初の関わりです。夫人の流暢だがドイツ語訛りの日本語と、情熱的でしかも暖かみに溢れた口調で、『当時の驚くばかりの厳しい銃後ドイツ家庭』の話しに非常な感動を覚えたものでした。当時の日本の社会環境では未だ厳しいドイツ銃後家庭の暮らしぶり、草の根・木の根・昆虫・小動物までも食料としたお話は中々理解を超えたものと聞いていましたが、その後の日本はまさにその通りになってしまったわけです。戦争回避が出来れば最も良かったのでしょうが、たとえ戦争回避が出来なかったとしても、戦中銃後の悲惨さを今少しでも皆理解して居れば、その犠牲を如何にしても最小限度に食い止めることぐらいは何とかなったのではないかと今にして悔やまれることです。或いは個々の自覚を広めるとか、原爆投下以前の問題として、東京はじめ広範な空襲被害を未然に避け、早期終戦の招致により特攻など人・物の損害を最小限度にする努力など出来なかったのかと残念で仕方がありません。

堤氏が小学生時代の天沼教会の佇まい。

当時ドイツは同盟国として友好ムードで受け入れられていましたので、そうしたドイツ人婦人による反戦すれすれの話も実現できたのでしょうが、ことアメリカ人に対しては特高警察がスパイ容疑を以て可成り厳しく四六時目を光らせ始めた時代でしたので、会場内に特高こそは遠慮して姿を見せませんでしたが、終始巡査が入口に立ち番をして会場に鋭い目を投げ掛けたりしていましたし、昭和一五年頃には結局、牧師は米国に強制帰国を命じられ、ドイツ人なるが故に奥さんが一人で終戦まで協会と病院看護の仕事のとり仕切りを続けられたそうです。丁度私が中学一・二年の時代ですがドイツがチェッコに侵攻を開始し、更にヨーロッパ全土の支配に向かって驀進するニュースとかヒットラー・ゲッペルスなどの映像には、私も異常に高い関心と興奮を募らせ、当時早大在学中であった長男のドイツ語参考書を引っ張り出しては単語を憶えたり、通学鞄の上にドイツ文字でイニシアルネームを大書して得意がっていたものです。

ドイツは何時まで最先端技術国であったか?

その後海軍に入隊し、練習生教程を終へて呉空に転任すると、水上機瑞雲による戦艦扶桑からの発着艦訓練の合間ですが、なんとその三ヶ月間ドイツ人講師によるドイツ語の特訓(特に主体は海軍用語)にあずかり、さらに佐世保空ではドイツ語電文の受発信・暗号電文解読実務にも従事したのです(当時暗号作成解読など情報技術はドイツが世界の最先端とのこと)。ところで学院に入学当初は、第二外国語は格好よくフランス語をもやりたいなど思ったのですが、終戦当時の日本の技術の規範には未だドイツ技術の影響(特に大部分の大学教授連の学術の基礎)が主力となっており、正式単位としての第二外国語もドイツ語と決まっていたわけです。特に大学の応用化学科技術関係では、化学ドイツ語が必須科目と云うことで、結局可成りの力と時間を割いて、ドイツ語の学習をせざるを得ない羽目になってしまったのです。

文献調査はドイツ語から英語圏へ

ところが学部は応用化学科と決まり、当時教授陣営はと言うと、創学の老教授陣の大部分は東大出・ドイツ留学経験者でドイツ語文献組なのに対し、若手早大出・助教授陣は殆どが欧米留学組で英語圏文献が主流と云うことです。特に化学工学の先生は、なんとアメリカ工科大学の教科書使用で総て英語で講義という訳です。ドイツ語だけでも専門用語だらけの文献調査と、並行しての予復習は容易でないのに、更に重要な化学工学など全英文の教科が加わるのですから、消化し追いつくのが大変で、応用化学科図書室を文献調査でフルに使ったものでした。更には大学卒業前一年・卒論の頃ともなるや、何とドイツ先端技術の大半は、アインシュタイン始め優秀なユダヤ系ドイツ人亡命など含め、既にアメリカNASA宇宙局技術文献に大部分が吸収され、更にこれをベースとして、以後の高度研究開発も総て英語圏文献に補充登録済みであり、結局我々大学卒業前後頃からの研究用文献調査の対象は、殆どが既に英語圏文献に移っていたという訳です。これからの研究者は学術専門英語を更に勉強せよと云うわけです。

旧早稲田大学図書館。日本学園一号館を設計した本学OB・今井兼次博士の設計であることはあまりにも有名。

学院二年担任はドイツ文学の中村先生

一学年はIJクラスでしたが、その後二学年ではOPクラスに編成替えになると担任としてドイツ語教授の中村先生を迎え、早速ベートーヴェン第九番シラーの『歓喜の歌』原文を、先生指揮の下クラス全員での唱和から始まったのです。その若く魅力的な人柄と指導で益々ドイツ語にも力が入り、お陰で二年二学期の試験ボイコット事件に続く実力試験では、特にドイツ語は可成り出来た積もりでした。学科全般では自信がなかった私が、厳しい学科編入競争の中で応化進級を果たせたのも多分にドイツ語の成績のお陰ではなかったかと思います。

ヨーロッパ文化圏で役立つドイツ語

後にヨーロッパでの学術会議で西ドイツ・スイスへの旅行の際にも当時は可成り役に立ちました。今は殆ど忘れてしまいましたが、それでも現地に行けば結構単語も次第に思い出してくれますし、案内広告などの読み下しには苦労しません。何日か滞在する間には耳も慣れてくるし、断片的には聞き取れる部分もあり嬉しくなったりします。

懐かしい天沼教会のドイツ人牧師婦人

今私は東京衛生病院で禁煙会の会長をしていますが、四〇年前に米国禁煙法を日本に初めて導入した林前院長は、偶然ですが私と同年の生まれで、軍医の子息として少年から中学時代も私と同じ西荻窪の南に住まって居たそうです。唯、小学校は私と違い、軍人・政治家子弟が多く在学する番町小学校ですが、荻窪の家庭教師に毎日通っていたとかで、その当時から私同様に東京衛生病院・天沼教会も知っていて、その後慶応の医学部から米国ローマリンダ大学医学部研修医を経て東京衛生病院に派遣されて来たそうです。ですから私の少年時代の思い出の教会牧師夫妻のことは勿論私以上によくご存じで当時の牧師夫妻とも面識もあり、お互いその様々の思い出を語り合い、奇遇にはあらためて驚いたり懐かしがったりしたわけです。

昭和15年当時のアドベンチスト会衛生病院 

学院生活の纏め

学院の生活は二年で終わった、私達の学年は旧制高校制度で入学したので三年間で卒業の筈でしたが、昭和二十三年にGHQによる学制改革(所謂六・三・三・四制なる悪法)指令が出され、新制移行が決定、昭和二十四年より旧制高校三年生進級の予定であった私達も新制大学二年進学に切り替えられたのです。日本国中多くの学生は勿論先生方にとってもこれは大変迷惑な話であった。

さて、この二年間の学院生活を振り返るとき、当時の私自身の心境では、少なくも過去十年間、あの中学・海軍時代と命を懸けて生きぬいた戦時激動の時代に比すれば、一応安定した環境の下で、大学進学を目標とするに充分な学力、思想の基礎固め、第二の人生の目標・志を確立するといった、それなりに重要な時期ではあるが、一方淡々として平坦な道程でもあったと今までは記憶していたのです。

早大応用化学科を統括する「応用化学会」会旗。 

ところが、実はこの六十余年の永い歳月を経た今にして、大変大事な忘れ物に気が付いたのです。実はつい先日、早大応化恒例の同窓会「七夕会」の案内と名簿を作っているときですが、ハット思い当たったのです、何と彼等は殆ど学院時代からの同窓生であり、しかも六〇余年と言う永きに亘り、身内以上に深い心のつき合いをして呉れた方々であったと。そして想いは広がり、応用化学科の方々のみならず、更には他の学科に進学後それぞれに、広く日本の官界・業界・教育界等々に進まれ、綺羅星の如く活躍されている学院時代の級友達・数えきれぬ程の方々が、今出遭う機会さえあれば、暖かく悠たりと『ヤー元気ですね!』と声を掛け合えば、余計な言葉は一言も不要といった交際が出来る仲間達でした。学院の二年間とはそうした人格の触れ合いの中友情を育て、生涯の友に廻り会う場だったのです。永い友情の重さを今更ながら
堪え兼ねる程感じている私です。

同窓会

卒業以来毎年欠かさず行われてきた同窓会ですが、素晴らしい友情の場であり、懐かしくも近況を語り、柔軟に冗談を飛ばし、本人家族共々の健康を祝い、談笑し、校歌斉唱のうちに再会を期して別れた訳です。「また来年の七夕会で!」と。

友情への想い
いつものことですが、友人達への想い出とその俤は、珠玉の宝石のように暫し目の前に輝き、やがて「スゥー」と胸の奥に消え去ります。皆学院時代が遺して呉れた私の最大の宝物です。ところで学生生活が始まった当初ですが、私は今後当分の間は、恐らくは過去のこと、海軍時代を含めて、一切を誰にも語ることはないと決心したのです。当分は学生として心機一転して新たな学問の世界への挑戦に集中し、只々前向きに取り組むべき人生が始まったのですから。そして私の周りにあって親しい友人達の多くも、当時の私の雰囲気からして、何か相応の理由があるのだろうと概ねは察するに止まり、敢えて何も詮索など控えて只々私の横にあって、必要最小限に語り合って居ればそれ丈で充分という位置を保っていてくれたのです。


早稲田大学・大隈講堂を臨む。

それから六十余年という時間が経ちました。当時と変わらず友人達は暖かく見守るように私との交遊を暖め続けてくれています。ですから、二・三年前から初めて書き始めたこの自分史に述べてきたような内容は、今もし興味を持って目を通して戴いている方があったとすれば、本当に申し訳ないことですが、今まで友人の皆さん始め周辺の方々、家族にも一切語らずに来たことなのです。

永き良き友
思い出せば爽やかに心和らぎ落ち着ける友。
思い出せば励まされ元気湧きいづる友。
思い出せば憧れで胸が熱くなる友。
思い出せば懐かしく酒飲み交わすべき友。
思い出せば永く何時までも阿吽の友。

6回・前編「大学学部―応用化学科―へ進学」へ続く

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