(6)千代田商事技術顧問時代(新日鐵関連)
鉄屋との付合い―専門学会・部会への参加―
体調を崩して住セリサイクル社の社長職を辞した後、会社斡旋で新日鉄の主要商社である千代田商事の技術顧問職に就くことになりました。当時住友セメントの新素材開発営業部ではセラミック系硬質新素材(刃物・耐摩材・耐熱材・電子材・研磨剤・装飾材等々)を新日鉄との技術契約のもと試験納入を初めて居たのですが、中間に立つ千代田商事では専門技術者派遣の要請をセメントに依頼していました。ということで私がその任に当たることになったわけです。
昭和五八年一〇月、五六歳で第二の仕事始めです。千代田社では早速開発部を設置し部長以下部員への技術指導・開発推進指導と相成ったわけです。だいたい一週のスケジュールは鉄鋼協会の専門図書館での文献資料調査、熱処理・表面処理・圧延・副原料・コンピュウター可視化など各技術についての各学会・発表会参加、新日鉄研究開発者並びに各業種メーカーとのニーズ・シーズ内容打合せ詰めなど多岐に亘り、その間毎月三~四回は君津、八幡、名古屋、広畑その他と新日鉄各製鉄所での打合せ廻り、千代田社内定期研修会での新たな新日鉄社技術改善案に取組み、ニーズを理解し行き着く最高の解決策を提示することが私の新たな仕事と言う訳です。その為、対応しうる先端技術、材料、メーカーと問題解決案を詰めて、ユーザーと対応します。遣り甲斐があるとは云え、新技術を消化し、対策を詰め、リポートの提示に漕ぎ着ける過程では、頭がそれこそ壊れてしまうか、すり減って禿げてしまいそうな毎日でした。
七〇歳で退職しましたが、その時点で千代田社には、新規部門として、開発部、海外営業部(主として中国上海を中心とする製鉄関連原材料・機器部品)、電子部(東芝関連を主体とする半導体開発営業)が発足していました。住友を退職して千代田社に入社した五十六才から、七十才で退職までの十五年間は、いわば私にとっては第二の仕事人生とも言うべきものでした。セメント製造と製鉄とでは石灰・鉱滓の高熱反応を基本とし、窯業先端材を駆使する耐熱設備を使用する点など共通点も多々ありますが、製品半製品の後処理・緻密な表面処理・先端材質開発など処理技術の粹は、分子・原子レベルの研究知識をベースとする理解を要求されます。従って関係者は国家レベルの先端技術者の開発要求に対応する覚悟が要求されるわけです。広範な化学・工学・電子技術に亘る学会・業界研究と製品発表・開発には絶えず注目し、これらの製鉄業界への有効な応用を頭に入れ注目を怠ることは許されません。
(7)趣味は?
①中国語と旅
台湾の風俗習慣とか現地人・蕃社とのつきあいのことは、小学生の頃から父によく聞かされていました。格好良く真白の詰め襟の官服を着込み、愛想も良いので中々原住民(漢族・熟蕃)にも評判良く、それがツオウ(曹)族だかルカイ族たち生蕃間抗争の平和的解決に役立ち殊勲ものだったこと。軍政主体の朝鮮と異なり民政主体に切替えて後の現地人との友好関係は良好で住み易く、日本軍人の中には原住民の嫁さんを貰ってその儘居付いた者もいた等々です。ですから私の台湾・中国人に対しての印象もどちらかといえば良好でした。
一方兄弟でも育った世代の違いか長男の中国人嫌いは理解し難い程です。その後、住友社に入社して浜松工場に勤務中には、屡々台湾からの見学者がよく訪れてきました。というのは工場上司の次長が終戦まで台北の台湾セメントで工場長をしていた関係で、当時部下だった現地人の方が訪ねて来たということです。私はよく案内人に立たされましたが、当初の台湾人見学者は戦前からの台湾現地人で日本語もよく通じ楽でしたが、三回目・四回目ともなると、次第に旧国民党政府要人(将介石一派北京・上海要人)が多くなり、連中の流暢な英語につきあうのに苦労しました。
その後、彦根勤務では大阪一水会(住友本社技術研究グループ)業務も担当するようになり、金属・電工を中心とする住友グループの宝山製鉄所建設計画参画が具体的に進行している情報が入り、参加するためにも先ず中国語から始めようと思い立った次第です。彦根勤務五年を終えたところで好都合にも東京勤務となり、早速本社最寄りの中国語学院に通学始めたと言うわけです。二年の学習で上級まで到達、そこでヨーロッパ出張勤務が入り、中断しましたが、五六歳定年になったところで再度挑戦開始となったのです。以後のことは文集記述の様なことです。中国語勉強と並行して随分中国旅行をしましたが、最も印象深いのは三大石窟と敦煌の旅です。
一千六百年前の雲崗・龍門・莫高窟の仏像群、敦煌周辺では砂漠に没しつつある古代砦の玉門関・陽関、そして鳴(めい)砂山(しゃざん)への駱駝の旅です。敦煌市街は、北は砂礫地形のゴビ(モンゴル語で戈壁(グウピィ))砂漠に、西は砂丘地形のタクラマカン砂漠に接し、それはシルクロードの二道(天山北路=葡萄之路(プウタオジイルウ)と西域南路=玉之路(ユイジイルウ))の玄関口でもあり、天山北路入口の砦が玉門関であり、西域南路入口の砦が陽関です。ともに漢代の烽火台が古代中国史の表徴として残り当時を偲ばせてくれます。特に玉門関・陽関では秦始皇後の前漢時代(BC200)築かれた万里の長城跡が、砂丘に埋もれながらも頭を高さ2m長さ170kmほどに亘り連なり、唐代漢詩の世界に彷徨うかの感懐を抱かせます。
敦煌の北側は砂礫と草原のゴビ砂漠地帯で砂丘が連なるタクラマカン砂漠とは一変した景観です。砂丘が少なく、砂礫混じりの草原は、牧草と本来中国原産であったカラタチの木に似た棘だらけの駱駝草に被われ、駱駝はこの駱駝草を専ら主食として生き延びています。ゴビ砂漠の舗装道路を車で飛ばすと、十~二、三十頭の野性の駱駝群に二度三度と必ず遭遇し、彼等が横目使いでこちらを窺いながらゆっくりと道路を過って行くのを凝っと待つことしばしばです。これに比しタクラマカン砂漠は砂丘に覆れ、新彊省西端タリム盆地を抱えこんで展開し、崑崙(こんろん)山地(さんち)の地下水を泉源とするオアシス都市群とこの間をモンゴル、ウイグル族のパオレストラ(・・・・・・)ン(・)が点在、食事・お茶サービスをしています。
②パソコンとの付き合い(EXCEL応用に挑戦)
コンピュウターとの付き合いは古く、彦根多賀工場勤務時代に工場長の提案で住友グループNEC(当時の日本電気)との共同開発で最新鋭の赤穂工場対象に、ワンマンコントロールモデル作成をスタートしたことに始まります。私自身も当時二年ほど前から既に数値制御(当時はアナログ主体)とかプログラミミング言語(技術用FORTRAN・汎用事務処理用コボル)とか各種問題(工学・経理事務など)開決への応用利用などにも取り組んでいたので何の躇らいもなくチーム編成・モデル開発をスタートし、一年後には本社で基礎モデルの発表と、全社ベースでのチーム編成に漕ぎ着け、二年後には全社チームによる赤穂工場ワンマン制御化を実現させました。
当時既にコンピュウターによるワンマンコントロールを実現していたのは秩父社と日セメ秩父工場二工場のみで、制御はIBM・富士通のアナログ方式を基本とするものでした。これに対しNEC方式は飽くまで完全ディジタル制御方式を目指していたのですが、当時は未だディジタル方式は初期段階でアナログ制御に比し動作応答が遅いのが欠点でしたが、その後のデイジタル制御動作の急激な超高速化に伴い結局は大変な優れものとして高い評価を得るようになりました。結果は生産と品質制御の高度化と五百名の従業員が八十名に減員され、余剰者は研究スタッフとしてフルに研究所などで活躍することになったわけです。然し当時は未だ大型コンピュータの時代でした。
パソコンとの付合いは五十六歳の時に始まります、病気で休養中だったのですが各地でパソコン教室が開催され、暇なので取り組んだのが病みつきの始まりです。当時はインストラクションが全部英文で、プログラム書き込みの作業ですから、小さな表一つ作るのに半日もかかってしまうと言う苦労でした。でもそれなりに大変楽しかったです。その後ワープロ機能(一太郎・ワード)習得に始り、数値制御ソフトとしてロータス123、エクセルを、プログラミング技法としてアセンブラー・コンパイラー・C言語等々と何でも挑戦し、今やインタネットでブログの検索に嵌っているところです。最近の業績としては病院の禁煙会の名簿管理と入出金管理のエクセルによる統合管理化に成功しました。
③ハイキング紀行と鶯の谷渡り(実はサービス)
五十六歳で高血圧と狭心症で倒れたのを機会に健康の為に生活を変えねばと真面目に考えるようになり、以後禁酒・禁煙・ハイキング・食生活の健康化に取り組んだお陰で大分健康を回復しました。ハイキングは七十代前半まで白馬・霧ヶ峰・奥日光・箱根・紅葉台・軽井沢その他東京近郊丘陵地など出掛けましたが、特に尾瀬には毎年のように二泊三日で出掛け、通しで六〇~七〇㎞を三〇㎏位のリュックを背負って歩くわけですが、その桃源郷か極楽かと思えるような自然の美しさを満喫出来ることが素晴らしい喜びでした。
ところで不思議なのは鶯のことなのです。尾瀬でハイキング中は勿論、塩尻の山中ロッジ、軽井沢の森林中ホテルでも昼間は勿論ですが場合によると夜でも人の気配がすると、綺麗に然も繰り返しあの美しい囀りを聞かせてくれるのです。尾瀬では里に入り込むややがて始まります。私を待ち受けるように始まり送り終わる頃にはいつの間にか消え去ります。“あゝ行ってしまったなあ!”と名残を惜しむ頃、なんとそしてまた新たな一羽がまち受けたように鳴き始めます。こうして次から次に、ずっと峠を超え、次の宿に近づくまで続き、やがて聞こえなくなるのです。
それにしてもなんて鶯が沢山いるんだろうと内心感心していたわけですが、さてそんな折塩尻の管理人に「よく鶯が鳴きますね、夜でも鳴いていましたよ」と話しかけると「ええ、鶯は人の気配がするとよく飛んできて鳴きますよ!餌が欲しくてね」と仰有るではありませんか?そして尾瀬でもロッジの娘さんに教わりました『鶯は人に餌をねだってよく追って来るんですよ』と。何か一寸ロマンチックになりかかってた思いに『ザー』と水を掛けられたような気分になりました。夫れは兎も角、鶯の響きには我が第二の人生へのスタートとなった最大のスペクタクルー岡谷の田園生活―への思いが込められていて思わず涙が出そうです。潤いに溢れて里に響き渡るあの鶯の、そして小鳥たちの、郭公達の歌声こそ私の第二の人生への出発を最高に祝福し背中を押してくれたものとして生涯忘れられないのです。
④ゴルフ
浜松工場では事務課長・工場長に手ほどきを受け汐見坂などお供をしたり、生産課長とはしょっちゅう打ちっぱなし練習に出掛けたものでした。従って彦根に転任するや早速ゴルフ場会員になり、工場長次長からもさかんに奨められていざ始めようとしたのですが、なんと、とんだ横槍が労組幹部から入りしばらく止めてしまったのです。曰く『工場がこんなに大変なときにゴルフですか?』と爾来何度か再開しようと考えたのですが何となく気も進まない儘に止めてしまって今日に至ります。
⑤歌舞伎・落語・文楽鑑賞の楽しみ
家内の故郷、井伊谷は横尾歌舞伎で有名です。妻の祖父も義大夫三味線の奏者で、その三味線は地元歌舞伎会館に保管され永く記念とされています。地元の人々の間に代々受け継がれ、毎年地元で歌舞伎公演するのみでなく、子供歌舞伎も含めて地方公演にも招待され、上演したり益々盛んです。家内の弟も世話役をしていますが、会長はもとセメント工場の社員だったりで、先日の子供歌舞伎の横浜公演では、五〇年ぶりで町長はじめ地元関係者に懐かしくも出会いました。
私達も東京に住んでからはよく招待券を貰ったり歌舞伎座株主招待で歌舞伎座、国立劇場での歌舞伎とか、文楽を観に毎月よく出掛け、お陰で幾分かは内容とか役者のことも解ってきたところで、玉三郎、美津五郎、団十郎、勘三郎などが特に好きな俳優です。最近耳が可成り遠くなって、台詞がよく解らないことが多くなったりして、台本と首っ引きで観るのですが、台詞がよく解る反面、可成り疲れます。横尾歌舞伎では従来より猿之助一座が贔屓で、衣装類・小道具など総てを一座澤瀉屋(おもだかや)から購入している訳です。横尾歌舞伎の世話やき連中も澤瀉屋に頼んでは切符を入手しよく観に来ているようです。関連しては落語研精会の招待券も毎月頂き、国立演芸場の落語も私共贔屓にしています。気晴らしには最高です。
⑥映画気違いは小学校以来―毎週映画を鑑賞
(特に外国映画は子供の文化水準・視野を高める)小学校の頃から映画は飯より好きな方で、殆ど小学校から中学初年級までは毎週一回位の割で通い、特に外国ものでは感動したり筋がよく理解し難かった時など二回も三回も続けて観に行ったものでした。お陰で日本人と外国人の習慣・表現法、・文化水準の違いなども、いつの間にか身について覚えたと思います。当時日本映画は西荻窪にも封切館があり、あんまり私が頻繁に観に行くものですから、切符切りの娘さんに覚えられて、“まあ!あんた好きねえ!”と言われて一寸恥ずかしいやら嬉しい思いをしたものでした。洋画は近場では高円寺のオデオン座もありましたが、まあ何と云っても武蔵野館が最高で、兄貴達が興奮して月刊の映画雑誌「スクリーン」を見ながら、アメリカ映画女優などの評判しているのを片耳にしては、浮き浮きと口実を作って出掛けたものでした。中学生になっても相変わらず武蔵野館通いは熱心で、新宿予備校をさぼって映画を観に行ったときは、兄にパンフレットを見つけられ家中からすっかり絞られたものです。
(8)退職後の人生
①病院禁煙会長として
七〇歳で退職した時点で東京衛生病院より健康教育部禁煙講座OB会の会長就任依頼がありました。衛生病院とのつき合いは、前にも触れましたが大変古く、小学校三年の時に、当時、天沼教会アメリカ人牧師の奥さんがドイツ人で、東京衛生病院看護婦長をも兼務されていて、第一次世界大戦下の銃後ドイツ家庭の苦労話を拝聴しに通ったことが縁の始まりですが、直接は五十六歳にして狭心症と高血圧で倒れ、健康な生活習慣に切り替える第一歩として当病院の禁煙講座に参加したことに始まります。以後OB会役員を務め時々講座のバックアップに参加していたわけですが、前会長の退陣と言うことでOB会役員・病院理事会よりの推薦を受けた訳です。
禁煙講座は昭和四一年導入された米国方式を基本とする『五日でたばこをやめる禁煙講座』と云う長ったらしい名前の禁煙法ですが、以来四〇年間の伝統を背景に、積極的な自主受講を建前とし、老若男女分かたず、医師団、牧師団、OB会役員の三者の指導により、五日間の講座期間とフォローアップ会を経て九五%の成功率と会員として一生の禁煙持続の指導を主旨としています。会長としてはコンピュータによるOB会運営の合理化、講座の成果改善に病院と協力、組織としては顧問として病院院長始め関係医師団、会長、複数副会長、役員、会員の構成で、会報発行、講座推進協力、定期役員会、総会の推進などです。
一口に言ってボランティア活動ですが、精神的にも寧ろ自分自身の健康と長生きに大変有効な活動となっています。私はクリスチャンではありませんが病院は天沼協会と共にアメリカSDA教団に所属する世界的な組織下で運営され、主要医師、看護師、牧師は総てアメリカSDA専属ローマリンダ大学病院研修の派遣者で、大変信仰心の厚い人々により構成され、そうした方々に囲まれての仕事です。OB会推進上最も接触多いのは健康教育部ですが、婦長は協会パイプオルガン奏者として一流ですし、協会聖歌隊のリーダーでもあります。彼女が玉を転ばすようなソプラノ調で話しかけるとき、人々は癒され安らぎを覚えるのです。ですから病気も早く治ってしまうというわけです?
②中学母校の校友会運営参加
最近母校日本学園の校友会である『梅窓会』の再建問題を含めて毎月運営委員会に参加しています。もう私達も歳ですから、次の世代を担う若い運営委員の方達には、柔軟でしかも厳しい改革路線を説いている訳です「改革はコンピューター活用による数値管理と合理性を柱とすべし」と説いているのですが中々理解を得られないのが悩みです。会運営をコンピュータ管理で一元化し、これをベースとして会員の動向、意思など総てをデーター化して読み取り、今まで見逃していた問題点を浮き彫りにして有効な手を打つ訳です。しかし数値処理の経験が無いと『ピンッ』と来ないのでしょうね。困ったものですよ!《総じて改革ともなれば、心身・能力共々歳には殆ど無関係に、ただただ実行するか否かのみ帰すると!!》
(9)我が人生とはー総括―
私の人生が色濃く父の影響を受けて居るのは当然のことなのかもしれません。私は三井の街大牟田・東新町小川の傍の社宅に生まれました。父は若く三十二歳で三井電化の石灰石及びその分析部の仕事に取り組んで居たそうですし、三井を辞めて東京に出てからは、平凡なサラリーマンであるよりは、意識的に社会事業家としての生き方を選んだようです。このことは私の人生にも可成りの影響を与えたと思います。
父が言い続けたように、如何なる時も先ず正論を通すべしと。威嚇する者とは闘わねばならないと。その為には力を持たねばならないと。学問も大事だが知恵はもっと大事だと。この言葉は永く私の人生の各場面で胸の中に囁きかけてきたと思います。予科練への道を選んだときもそうでした。戦争が終わった時、岡谷の地で敗戦を思ったときも然りです。就職に際しても、結局石灰を主原料とするセメントで仕事人生のスタートを切り、結局鉄鋼でも石灰との縁が切れず最後まで石灰との付き合いで終わったことは、父が三井で石灰関係の仕事をしている時に私が出生したことと、何か符合する因縁深さを感じます。
日本が米国との経済戦争に負けたのは、彼の国のダム建設に始まる産業復興に依ると云われますが、敗戦の悔しさを胸に抱きながらも、荒廃し尽くした国土の復興期にセメント会社で、先ずダム用セメントの製造を担当し、「これで良い」とし、結局退職の最後の日までそれを契機とする多種特殊セメント、原子力放射線遮蔽並びに廃棄物処理用セメントに到る特殊品類の開発・製造専門屋として国の再建に終始し寄与したことを思うとき、此処でも二重に因縁めいたものを感じます。
冒頭この自分史は反省を込めて一筆一筆と書き始めて、それが私の人生を振り返り、掘り起こしていく素晴らしい動機となりました。一体何が掘り起こされ、それが私の人生にどういう影響をもたらし、そして残された人生は一体どういうものになるのか?など様々に思い反省し書き進んできたのですが、そして今やっと大事なことに気がついたのです。大切なことを忘れていたのです。この歩んだ永い人生の数々の場面を振り返る時、深く考えもせず反省も無しに通り過ごして来たことがなんと多いことか!《時は帰らず》と言われますが、それは嘘です。より深く思うとき、過去もこれからも現実のものです。
今更と呆れる思いですが、兎に角やっと気がついたのです。全く迂闊な話です。出生に始まり、幼少時代を、そして海軍での燃える思い出、岡谷に始まる敗戦からの立ち上がり、それをバネとした光と力強い青春に満ちた学生時代、闘いと建設の会社生活、一生で一度輝いた流星の一閃、病気に挑戦してがむしゃらに山野を歩いた年月、更には敬虔な教会信者・医師に囲まれ、癒しに満ちた病院でのボランティアの日々、こうしたなかで『様々な出逢いと別離の場面、旅した国内外の遙かな街々と山野への数々の思い、等々と次々の思い出を拾いながら今一度それらの地を訪ね、見落されものを自分自身で再度確かめ、叶えられる事なれば世話になった方々と久闊と感謝と別離の挨拶を残したい』と、この一生をより深く掘り起こしてより真実の人生を再発見する。かくして、亡くなった友、先輩、そして冥土で待っている父にもやがて出遭うのであれば、その時こそ胸を張って「我人生かく生きたり」と物語りたいものです。父が『結局儂の掌の上で転がって終わりだったじゃないかね!』と云うなら『“親子だからね』と、それで勘弁して貰う積もりです。ですから、我が人生は?の終章は、この未だ今暫く続くであろう巡礼の旅が終わるまでお預けとさせて戴きたい願う次第です。
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<未完成のこと>
①健康に生きるために補弼しておきたい事
私は本来海軍で鍛えた頑強な心身を持ち、故に他より少なくも十年は長生きできると信じていた。事実二十五年前狭心症で倒れてからも、一年にして回復し、毎年尾瀬に旅行する程元気になったのだ。ところが、ここ二年ほど急激に脚の痛みから老化が感じられるようになり僅か毎日の日課である一駅散歩すら億劫で疲れが酷く感じるようになってしまったのである。『人生終わりが見えてきたのかな?そんな馬鹿な!』百歳を目前にして亡くなった義父の椅子に座った儘の大往生の姿が目の前に浮かびます。『そこまで生きなきゃ!』と。そんな時、二十数年来つき合いの整体術師に久し振りで全身を揉んで鍼をして、更に首、腕、足を引っ張って(整体術で)貰いながら、「普段動かさないところを動かすように!」と忠告され、これを実行始めるや、何と脚は軽くなり腰も可成り楽に曲がるようになり、若返ってきたのです。「使わない筋肉を動かし刺激しなさい!」と。今一つは就寝時に足を温めたことです。これは有効です、一ヶ月足らずの間に足が軽くなったことと並行して、血圧、血糖値、コレステロール値もどんどん下がってきたのです。今一度元気に尾瀬を目指して復活するのも夢ではありません!旅行をしよう!外国に行こう!元気が出てきた!と言うことです。
②心豊かに生きたいこと
身の回りに祖国・人々を身近に感じて生きよう。身の回りのもの事を漠然とでなく明快に数的に把握する。事象は多面的に把握する。お陰で幸福感が高まり、身の回りが美しく輝きだし、お陰で素晴らしい人生の展開が予感される。言葉に毒を含んではならない、薬になる言葉で人も自分もいやされる。薬になる言葉とはー令え恣意的な裏切りに遇おうともその一言により癒される言葉。
③今暫く生きて社会に尽くしたい事
千年万年後に価値あるものとして残るものがあるとすれば、それは何なんだろうか?本当にそんなものがあるのだろうか?と、そうした生き方をやりたい。それは仕事、趣味、或いは奉仕と何であれ、心改めてじっくりと踏み出す一歩としたい。それは自分でやるしかないし人に助けを求めて出来るものでもない。そして最後にあの世で自分が誇れるものとしたい。さて、最後に、《夫である私の幸福こそ自分の幸福》として、永く私を支えて来て呉れた妻に感謝の意を表し終りとします。 ―おわりー
(10)補筆:戦艦陸奥の爆沈と中学友人の原爆被災のこと
それは昭和一八年六月八日一二時一〇分の事です。折からの濃霧の中、広島(江田島)南方沖の柱島泊地に繋留中の戦艦陸奥が原因不明の爆沈し、乗組兵員中一千百二十一名は即戦没、更に生存者三百五十三名並びに関係者達も引責で間もなく南方サイパン、トラックに転出し、その九割の方が戦死という悲惨な運命に翻弄されたことはあまり知られていません。当時、事件直後に徹底した箝口令が布かれたからです。この事は後に、サイパンから奇跡的に生還した四十名の方々のお話から漏れ伝えられました。更に昭和二〇年八月六日には原爆投下により広島では壊滅的な被災者が出ましたが、そうした悲惨な運命に翻弄されたこれは私の中学時代友人の話です。勿論戦後に三回ほど彼を訪ねて広島に行ったおり話しを聞いて初めて知った事実ですが。
そもそも彼とは中学二年(昭和十五年)のとき隣席同士になって親しくなり、陸軍官舎の彼の処もよく訊ねるようになったのです。彼は陸軍憲兵少佐の長男ですが、何故か軍人を志望せず技術系大学に行く様なことを言っていました。そんな彼が昭和十八年三月父君の突然の転属に従い広島に転校したのです。当時戦艦陸奥爆破のスパイ活動情報が流れ、父君はその防諜活動と主犯者逮捕を任務として広島憲兵隊長として転属されたわけです。呉市寄りの東側官舎に住まい、父君は憲兵少佐として毎日乗馬しての呉市警戒で出務だったそうですが、八日の戦艦陸奥爆沈の責めを負って、やがて南方に転出、間もなく戦死されたとのことでした。
結局林君はご母堂と三人の妹弟を抱え遺族の暮らしを余儀なくされる中、昭和二〇年八月六日正に原爆を被爆したのです。朝八時一五分その時彼のご母堂は家(京橋川沿い爆心地より二㎞)の玄関前で、例の原爆ドームの方角に面して祈りをし、当人林君は家の裏手の井戸端で歯磨き洗面中だったそうです。彼は奇跡的に何一つ被爆の影響もなかったのですが、ご母堂は玄関庇の倒壊と被爆で即死されたのだそうです。幸い弟妹さん達は丁度学校疎開先で不在の為原爆被害を免れたのですが、黒い雨が降りしきるその晩、彼は泣く泣く一人で側溝を使ってご母堂の遺体焼却荼毘を済ませました。翌朝弟妹も疎開先から帰着、呉市在住の叔父が川沿いに船で救出に来られたので、一家共々船で下り、ひとまず叔父宅に身を寄せたそうです。とは言え早速一家世過ぎの責任が僅か一八歳の彼の肩に懸かって来たのです。彼は中国電力に出掛け作業員として潜り込み、以後中国電力職員として勤めを果たしながら、一家の生計妹弟の一切の面倒、家族全員の結婚に至る総てを裁量したのです。彼は幸い原爆の被爆被害もなく奇跡的ですが今も健在です。広島にお寄りすると、彼は車を駆って何日でも広島中及び周辺地を総て案内してくれるのです。得難い人です。まだまだ元気で山登りだ町会の世話だと駆け廻っているのです。静かな笑顔を絶やさずに!
-後日譚-
さてその後日の事ですが、私共夫婦は、林夫妻と旅先でですが、不意に出会うという事がありました。私と家内が奥日光の旅先、竜頭ノ滝傍のホテルに宿泊したときの事です。家内は早速温泉浴場に出掛け、洗い場でいつもの癖ですが隣の方とお喋りを始めたところ、何とそれが林君の奥さんだったわけです。お互い全く初対面で写真でしか知らない仲の筈にも拘わらずですが。やがて顔を興奮で紅潮させて飛んで帰ってきて曰く「広島の林さんご夫妻が隣の部屋に宿泊されてるんですよ!」ときたのです。
宿が公務員用旅館で私も会員登録で普段からよく利用していたし、林君の方も長男が広島県職員でその家族としての利用で偶然の邂逅となった訳です。お孫さんと一緒に日光旅行中とのことで、その晩はお互い家族のことなど様々の苦労話を重ね、翌朝林夫妻は金精峠経由で尾瀬に、私達は日光経由で霧降高原の日光キスゲ観望と云うことで再会を期し右左にお別れした次第です。お互いこの奇遇には驚くやら懐かしいやらで、当場では「これが本当の裸のご縁と言うことですかね」と。話したことでした。
それにしても、これに類する出逢いには其の後も時々ぶつかったことがあります。例えば遇うのが嫌な人とか、不思議に思い出して懐かしがっていたりすると、出先(トイレの手洗い、電車の中、旅先等々)でフイにご当人に出会って仕舞ってドキ!としたりします。 また、研究に燃えるような思いで没頭し手探りしている最中、不思議に涙が出るほど今の自分が求めていた文献やら暗示に出会うことがあります。こうしてみると、この世諸々の「縁」とは、『人お互い生きる執念のようなものが為せる技か?』などと想えてくるのです。その様な時こそ一層、生きる感動に胸を打たれます。