2011年12月8日木曜日

人生と出逢い 第6回 「大学学部~応用化学科~へ進学」<前編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

応用化学科は希望者のラッシュ!

学科の選択

昭和二十四年四月より新制移行で学部二年進学と決まったのですが、問題は、学院入学の時点ではカリキュラムもクラス編成も理科と文科とに分かれているのみで、学部の学科別については学院卒業時の個人別申請により選別されるのですが、学部は学科別に定員枠(特に理科工学系では実験・実習・研究・卒論等々設備枠と、特に研究室枠に依る制限:例えば応化は四十名限定など)が決まっており、申請が定員枠をオーバーしている場合の選考基準は、学院での定期試験及び実力試験成績と、学部教授会の最終選考会議如何に関わっている訳です。ところで学院生個人サイドからの学部選択はと成りますと、将来目指すのが学究者であれ就職者であれ、狙いは何と言っても当世花形で且つ将来性有る業界・研究分野を目指して皆々殺到する訳です。

早稲田大学・大隈講堂

戦後産業界は不況のどん底

ところで当時日本産業界は敗戦直後の壊滅状態、未だ不況のどん底。ですから復興の見込みと将来性が最も有望視されていたのは、何と云っても先ず化学業界、次いで建築業界・電気通信業界の一部くらいのもので、国全体の復興ともなると、とても期待される状態からは程遠いものでした。基幹産業鉄鋼・電力を始め大多数の産業・鉱工業の火は止まり休業状態でしたから。

朝鮮動乱は福音??

そして産業復興の目途が見えてきたのは私達が学部に進学した翌年、昭和二十五年六月二十五日勃発の『朝鮮動乱』による米軍特需とそれに伴う棚ぼた式空前の産業復興でした。化学では火薬・合板など土木(武器?)、建設材需要と共に、所謂セメント・肥料・砂糖(又は繊維)の三白景気時代の幕開けです。セメント業界などは忽ち山のように貯まった在庫一掃は勿論各工場ともフル稼働、更には引き続く将来復興需要を見込んで各社共工場増設に乗り出す騒ぎでした。そしてこれを契機として日本産業界全体が奇跡の復興を遂げたのです。

38度線を境に泥沼の戦いが続いた朝鮮戦争

先ず一次・二次産業界の復活―昭和二十六年に始まる鉄鋼・電力・鉱工業業界の復活、港湾、河川、鉄道整備を含めた輸送機関・発電用と多目的ダム建設の推進、農村復活と共に農耕機器、肥料・農薬やがては繊維業界など各種産業が次々と生産を軌道に乗せて行きました。卒業前年昭和二十六年夏期に行われた関西・九州工場見学旅行では、復興する工場現場・研究所の先輩達に接して、その開拓者魂・希望に胸膨らませる姿には復興への確かな手応えを感じたものです。


学部編入も大競争

従って私達が学部に進学する当時の進学希望者は、応用化学科に約四倍、建築と電気通信学科には夫々約二倍という偏ったラッシュで、告示を見て皆初めて「えー?」と驚嘆させられたわけです。ところで私ですが、純粋興味本意に絞れば、中学時代から決めていた化学関係に絞る所ですが、その後海軍航空隊で可成り身に着けた電気通信・情報関係にも魅力があり(但し機械、機関関係技術は稍敬遠気味)捨てきれずにいたのですが、嘗て三井電化を識る父や富士電機勤務の兄の意見を参考に、進学は応用化学科と決めたのです。

そこで応用化学科進学者ですが、倍率から言うと概ね学院各クラスで成績五,六番以内の者と言うことに絞られそうですが、私の場合は応化がドイツ語・数学重視のお陰?か、何とか編入出来たと言う感じでした。結局学院全体としては、個人的希望は別として最終結末では、応化、電通、建築の他に電機・機械・鉱山・金属・土木・応用数学・応用物理・工場経営など含め工学系何れかに皆納まったと言うわけで目出度い限りと言うべきでしょう。そして今一つ気付いたことは、学院クラスでは軍学校出と中学現役組の比は概略相半ばすると言った処でしたが、応用化学科に来てみたところ何と約七〇%が中学現役組と圧倒多数で、しかも接していては彼等の若さの加減か、柔軟で諸事対応も素早く、可成りクリアーな頭の持ち主が多い感じでした。ですがクリエイティーヴな面となるとよく判りませんが?

現在、応用化学科学生が学ぶ早大・大久保キャンパス

卒業時にやっと産業復興?

ところで昭和二十七年四月卒業の時点になると、やっと産業界の復興も幅広く緒に就き、就職事情も稍々好転しつつありました。八月頃からの教授を通しての応化各研究室への直接求人以外にも、数十件の一般公募が入っていたように記憶します。これに比し、私達の一・二期前迄の卒業生では大手企業・研究所など殆どが未復興の状態の中、多くの方が教師とか公務員・中小企業など就職先が限定され大変苦労されたようです。

新制度下の学部状況

旧制高校の特質

さてGHQ指示による強制的な新制教育移行に対して、当時伝統を重んじる文部省・大学側は可成りの抵抗をした模様ですが、此処で旧制高校の教育重点に就き一寸触れておきますと、旧制高校とは国立では東京第一高等学校に始まり名古屋の八高その他官立の所謂ナンバースクールで、卒業後は東京始め各地帝国大学に殆どがストレート進学し、一方私立旧制高校では成城・成蹊・早稲田第一高等学院なども、卒業後は有名国・公・私立大学へ高率で進学し得る、資質・学力共に高水準の俊英教育を主旨とする場でありました。

旧制高校教育の主旨

旧制教育の主旨は、学生の自主研鑽を基に広い教養と大局的人生観教育を基本とし、国家社会を意識する構想を持した人物育成に主体が置かれて居ました。彼等は大学に進学するや、所謂『楨幹の誉(註1)』を胸に専門学究研鑽に励み、国家社会を支える有能な若者にと育成されて行ったのです。斯く日本の伝統ある優れた学制が、いとも簡単に破壊されてゆく。占領とは実にかかるものであったのか?何時までこの様な占領は続くのか?これからの日本は斯うした教育を受けた者で果たして支え継がれ得るものなのか?当時大いに困惑の渦巻く中で論じられたことでした。

現・成蹊大学も私立旧制高校のひとつである

学制改革のとばっちり

ところで当時この学制改革に直面した私達学生・教授共々ですが、新制度移行が強制的なのものとは云え、如何に旧制に劣らぬ実力を保持して乗り切るかと、大変な努力を強制されました。旧制高校三年学習分の補充も参考書と学習要領を教授に尋ねながら大部分を自習で補充し、更には卒業後社会に出ては、必ずや旧制教育を受けた者との質、実力差が問われる事は在学中から既に予想されることでしたし、事実後日社会に出ては忽ち厳しい給料格差着けなど現実となったのです。

ですから当時を振り返るとき、同窓生たち大分の者が口にこそ出さなくとも『大変だったな!』との想いに往事を振り返る事屡々です。語学ではドイツ語・英語、又基礎では物理・化学・数学の応用分野全般に亘る欠落補習は、可成り腰を入れた作業でした。私にとって昭和二十四年から二十五年春・夏と岡谷で過ごし補習に集中した休暇こそ、その点最も有効な時間でした。

註1
『楨幹の誉』とは「社会的に有能な人材」として公に評価され遇されること。

講義・実験カリキュラム(青字は老教授担当の講座

学部では講義・実験ともに本格的に専門化し、更に学部四学年では卒論研究がそれぞれ専門分野の研究室に別れての実施を待っている訳です。学課を並べますと「無機化学・結晶学・分析化学・有機合成化学・化学工学・物理化学・量子化学・化学ドイツ語・電気化学・燃料化学・油脂化学・高分子化学写真化学・発酵化学・定性・定量分析実験・卒論」以上が必須科目で単位を落とすことは許されません。

応用化学科創学の経緯

そもそも早大応用化学科の創立は一九一七年(大正七年)で早大創立の三五年後と遅いスタートであり、当時東大出身教授の小林久三博士の『新潟県村上産酸性白土(触媒)応用による石油燃料精製技術』が創学の基本となりました。これは当時日本石油化学業界の技術・事業発展の主軸となるものでした。以後早大応用化学科は酸性白土を主軸とする「粘土鉱物学研究室」並びに「燃料研究所」を中心に、以後広範な化学分野研究へと展開・充実を続け、今や総合化学研究の学府として今日に至っている。従って私が入学当時は、創学当時からの老教授陣は総て東大化学・物理研究室出身で且つドイツ留学者であり、以後此処に育った早大応化出身者が若手教授・助教授陣・講師・研究員として以後の応化全研究所・教室を受け継ぎ、新分野への研究拡大、例えば最近着目される東京女子医大との連繋開発で、遺伝子工学研究所発足など最先端分野への進出・挑戦にも意欲を燃やし続けている訳です。

東京女子医大・早稲田大の連携による先端生命医科学教育研究施設

教授陣と学習の意気

老教授陣は?(前述学課中の青字表示分野で示す

さて授業ですが、老教授陣の講座は「学究者権威の塊」とでも言うのでしょうか、何年前から編集したか判らないような一口で言えば古臭いノートを、教授が時間一杯ゆっくりと読み上げ、殆どの教授はドイツ留学の経験者即ちドイツ化学技術の流れを汲み、引用文献も殆どがドイツ語学習で、更に学生は試験で単位を落とす訳にはいかないのでその内容のまる写しが主体、質問時間も殆ど無く、とは云え学課内容の重要さも解るし興味もあるのですが、ツイ眠くなったりする訳です。

若手教授・助教授陣!

此処で次の時限が元気な助教授の講義と続く訳です。恐ろしい若手物理化学助教授の出番です。早大応化より東大大学院卒後母校に帰っては後輩のために教鞭を執ると意気高らかで、講義の半分は壇上よりぎらぎらと大きな眼で学生たちを睨まえながら、手製プリントで解説、後半は黒板上でその解析と補足説明、質問への応答、そして必要な小実験。最後には専門書名・英文参考文献を黒板上に書き殴りながら『皆良くやっておくように』と、一渉り学生たちをにやっと睨んで終わり。

早稲田大学・坪内博士記念演劇博物館(新宿区有形文化財)。
同大学の旧図書館と並び、日本学園一号館を設計した
巨匠・今井兼次博士の作品である。

量子化学の先生は金属工学科出身、米国留学后東大研究所を経ての若手の博士。アインシュタインの如く講義は全部数式展開で説明、具体的にはと皆に見せるべく取り出したのは、X線解析写真画像、これの現象はとの説明がまた粒子線散乱写真像ときてサッパリ内容も判らず、講義終了を待っては慌てて先生を追い「先生解らないのですが?」と、先生「当たり前です、解らないと思うから授業をやって居るんです!」と来て、手元の『量子力学』『X線解析法』『放射線化学』と言った参考書類三、四冊を示しながら「皆さんにも勉強するよう伝えて下さい!」と指示、皆で慌てて神田古本屋街を駆け廻ると言った具合で始まった訳です。(註1)今一人、化学工学の助教授もアメリカ留学帰りですが、なんと第一時限開始早々で米国工科大学から取り寄せた化学工学教科書(勿論全英文)を配り、忽ち英文講義が開始された訳です。赭ら顔で太って大きな身体なのに声は馬鹿易しく小さく、我々焦ってのノート書き取りも儘ならず皆顔を見合わせ目を白黒し、図書室での予復習は全英文で焦るばかり。

註1)後日、量子化学の先生のお話は「諸君は学部を終えれば、新制も旧制も関係無しに、いよいよ先端技術を以て社会に対応する覚悟でなければなりません。この量子化学もこれから来るべき先端社会ニーズにマッチする先端技術を重点に講義を進める積もりですが、私でも解らない未知の分野が結構多く、こうして専門書を持って授業に臨んでいるのです。これは学制改革がどうであれ、我々最高学府の出身者がこれからの社会に負うべき責務と自覚して貰いたいものです。重ねて皆さんの自覚を要望します。」と。

多忙の日々

かく進められる講義は老教授陣と新鋭助教授陣ほぼ半々の構成でその煩雑なノート整理、これら講義に付帯する専門書・外国語文献の図書室・家での予・復習、一日乃至半日に及ぶ化学分析実験では、分析担当講師確認を得るまでは夕方過ぎまで実験室足留め等々と「日々追い捲られっ放しの二年間」という感無きにしも非ずでした。加うるに年三回の定期試験前はこれまた大変です、試験開始一週間前頃から休みとなり、学生たちは、毎日それぞれ学科別分野別に得意の者を囲んでは四・五人グループで集まり、ノート整理と難問・奇問の試験予習、そして最後には皆で出題の山勘予想の詰め。何しろ難解な学課四・五科目を斯く短期間に消化するのですから、そしてこれが妙に生涯の友情と交友をすら育てて呉れたと言う事です。更にいよいよ三年目の仕上げは、十二研究室に別れての『卒論』が待ち受ける訳です。振り分けは先生の指名と各自研究申請の両方式を、最終は教授会決定に持ち越されます。

堤氏が通った早大・旧図書館(都選定歴史的建造物)。
こちらも日本学園一号館を設計した巨匠・今井兼次博士の作品。
階段や柱に日本学園一号館に通じる趣がある。

学の独立と気風

早稲田の杜に学ぶ者の余裕ある学風は、専門教育と並んで、実は人間教育により重きを置く伝統にこそ起因すると思います。即ち斯く多忙な学習の合間にも、交友あり、先輩でもある師との談論・コンパあり、早慶戦応援で万丈の気を吐き云々・・と後々迄懐かしくも忘れられない、数々の交遊の場にこそ学風は育ち受け継がれて来たと思われます。

葉隠こそ創学の根幹

それは創学の先賢大隈候の発祥が佐賀鍋島藩であり、倫理書『葉隠』魂を脊柱とする『学の独立・在野精神そして進取の気風』あればこそ、誇り高くもこの学風は支え続けて来たと云えましょう。この早稲田の杜に足跡を印し集まり散じた多くの卒業生が、社会に出ては『楨幹の誉』を胸に、他の如何なる国公私立大出身者に比肩しても恥じる事なく、青雲の気概に燃え、人間的にも大きな襟度を持って生きて行くことになる訳です。此処で当時の交遊関係に話を切り替えます。

佐賀藩士であった若き日の早大創立者・大隈重信

写真班に入会

写真班の結成

応化に入ってすぐ部活では写真班結成の話が出ました。内容は写真術の基本とも言うべき調色を基礎に現像・焼付け・引き延ばし・カラー写真技術の勉強をする会と云うことで、二階の暗室及び暗室前の薬品室を使い、希望者は任意参加方式当番制で開始されたのです。ところで写真班発足の言い出しっぺは、御父君がアマチュアだが有名な写真家の息子、二村君ではなかったかと思います。兎に角当時早大応化の講師であり、カラー写真技術では日本でも有数と言われる小西六写真専門学校の宮本教授(早大講師)にお願いしての指導とカラー写真技術の講義など内容も充実した班活動で、思い出多い会合でした。当時の班員は山下・二村・瀬川・古平の各君その他ということで、二村君がアマチュア写真家の御父君より譲られたローライコード二眼レフを誇り高く使うのが大変羨ましかったものです。

小西六写真専門学校(旧・東京写真大学/現・東京工芸大学)

暗室では?

化学屋にとって写真と言えば矢張り先ず暗室の作業です。私にとっては海軍時代以来のことで、あの鹿島空でやった暗室での想い出にも繋がるものでした。それは航空写真の合間に頼まれてはやった、あの現像と共に次第に現れた同期の戦友の笑い顔の面影です。想い出が次々と複雑な想いに繋がってゆく瞬間でもありました。然し概ね皆との写真作りは大変楽しいものでした。級友の家族や美人の妹さん等々、調色写真作成から焼き増し・現像など頼まれては随分手掛け、時に級友から妹さんの引き伸ばし写真現像を頼まれ、慎重に暗室で処理最中など突然横から「美人でしょう如何ですか?」など済まし顔で声をかけられ、「エ?」と胸の裡本心を見透かされた様でドギマギしたりしたものです。

二度三度とある中では、後日卒業式の大隈講堂前で、なんと例のご本人を連れたこの友人と出遭うや華やかにも紹介され、対すればすらりとモデルの様に背高で写真以上の美人ときては呆ーッとし、然もその場に居合わせた級友四.五名に取り囲まれてその視線は興味津々。もう只々身体が硬直し熱くなるばかりの体たらく。ところで写真には不思議な魔力があり、気持ちを入れて看ていくと、単なる映像以上に、当時の本人の心境・環境、場合によると人生観すらも垣間見せられるものです。ですからお互い写真以来始めての出遇いであるのに、今眼の前に佇む彼女は、もう何年も前から私と識り会っている様に、美しい瞳は無意識にきらきらと輝き頬笑みかけているのです。暗室で現像している時でも同様で、次第に姿を現す人の顔は、それが男女誰であれときに活き活きと、やがて私に問い掛け笑い掛け、ときに寂しさすら思わせ、此方の胸の中に響きを以て語り掛けて来ます。そして写される方の思いより実は寧ろ写す方の意志により多く内容が左右されることも忘れてはならない事です。以心伝心。

ローライコード二眼レフ

写真との出会い

私も小学校三年位の頃から、長男次男が買って貰ったさくら暗箱式カメラを使ってみたり、兄貴達が押入を暗室替わりに夢中になって現像・焼き付け・引き伸ばしをするのを手伝ったり、父から幻灯撮影機を買って貰ってロイド、チャップリン、キートンものなど短編喜劇撮影会に参加したりと結構小学校入学当時から写真には親しみを持っていたものでした。ところで海軍に入ったら飛行機を操縦して敵との交戦が主任務だとばかり思いこんで入隊したのですが、練習生教程が終了し偵察飛行任務に着いてみると(飛行訓練では成る程操縦・発着訓練そして計器操縦・機銃射撃・仮設爆撃訓練等もしたのですが)、何とやれ通信受発信だ、計器整備だ、レイダー試験操作だ、航空写真撮影と処理の方が主任務であり、特に鹿島空に着任するやもう写真班で明けても暮れても鹿島灘・東京湾地区の警戒観測・偵察写真撮影・現像・引伸し・解析の毎日でした。一方で同期の桜は前線で命懸けの激突をし、その成果如何が刻々伝えられて来るし、肝心の当地での航空隊勤務は、極端に言えばまるで写真のために海軍に入って居る様な気にさせるものでした。兎に角そう言う具合で何だかだと写真とは子供の時から永い縁があったことを申し上げた訳です。

理研化学のアルバイトで大失敗

さて早稲田の写真班員と云うことで、当時慶応在学中の中学友人不破君の御父君(日本中学・早稲田政経学部卒の先輩)からは経済雑誌に掲載する宣伝写真を撮ってくるようアルバイトを頼まれ、二村君と一緒に理研化学に出掛け合成酒「利休」の宣伝写真と云うことで研究室の写真を撮りに行ったのです。ところが二村君がローライコードを構え私がフラッシュを焚いたのが大失敗!テーブル上一杯に置かれた研究用「利休」フラスコ群をフラッシュ粉塵で全部お釈迦にしてしまったわけです。まあ学生と云うことで平謝りに謝って事は済みましたし、封筒に入った何某かの宣伝費謝礼と、その上「利休」を二本も戴いて意気揚々と雑誌社に帰ったのですが、雑誌社では専務さんが待ち構えていて二村君共々しっかりお叱りを頂戴したと言うわけです。猶「利休」一本は社長宅に届けるよう云われ、先輩でもあり業界経済紙社長の宅に伺うと、上機嫌でその晩は社長・中学友人(慶応卒後当時アメリカ銀行勤務)の不破君・二村君・私、社長夫人家族も入って鍋料理で賑やかな宴会となったのです。

合成酒「利休」の生みの親、鈴木梅太郎(理化学研究所設立者)。
「利休」は現在でもアサヒビール㈱に受け継がれて市販されています

会社入社後も大活躍

後日私が会社勤務になると、入社早々に本社の新工場建設部に所属した関係で、本社工場敷地内で行われたドイツよりの輸入設備性能試験資料用とか、学会発表論文用など添付写真資料作成用など早速役に立ったと云うわけです。当時戦後初めて国産一号で売り出されたばかりの、高価な小西六社製コニカⅡ型なども、通常の社員給与ではとても手に入らない代物でしたが、三白景気に湧く会社で、昼夜連続に行われる試験立会など膨大な残業手当のお陰で、入社三ヶ月後には早速購入することが出来て役立てたというわけです。 

6回・後編「大学学部~応用化学科~へ進学」へ続く