2013年4月26日金曜日

人生と出逢い 第8回「本社リサイクルセンター開設」


堤健二(昭和19年卒 日本中学校卒)

()本社に資源リサイクルセンター開設

1.セメント産業は再資源化事業の本命?

a.リサイクル業務への馴れ初め
セメントの主原料は石灰石と粘土ですからメーカー自社で鉱山を確保し調達しています。一方セメントの品種により要求される原料品種も異なってきますから、これらを総合的に調整するため種々添加材が有効に使用されます。例えば 珪石・鉄滓・蛍石・石膏・リグニン類・チタン等々で、これらは従来有価の購入品で賄っていました。ですが輸送手段が貨車からトラック・船舶に変わり輸送費の低減に伴い、工場立地も石灰石・粘土の産地(山寄り)最寄りから、寧ろセメント出荷上でもより合理的な港湾最寄りに変わりました。セメントの添加材も購入品からリサイクル品活用に重点が変わり、更には各種廃棄物の経済的なリサイクル(発生者側で極力無駄な加工手間を掛けない)に活用方針を改訂拡大し、経済性と共に社会貢献をも重視する方向に重点を置くようにしたのです。結果は発生者も従来の莫大な前処理費を節減でき国家的にも省エネ効果は絶大なものとなります。今日東日本大災害に依り発生した大量の廃資源処理には、東日本のセメント工場は刮目すべき役割を果たして居るのです。

b.パルプ廃液
入社して三ヶ月位経った頃ですが、静岡県用宗の巴製紙工場のパルプ廃液につき調査を命じられたのです。セメント粉砕助剤として有効か、経済効果は、発生状況は、現在の処理状況は?などですが、結局調査結果はセメント分散効果のないアルカリ廃液で、原料粉末の造粒剤としては使えるが粉砕助剤効果はないということで終わりました。しかし私にとっては他産業との接点としてはこれが初めての経験でしたし、製紙側担当課長の親切な対応と助剤効果についての他の製紙会社データ、参考文献まで用意して戴くなど、以後特殊セメントへの取り組み、更には将来リサイクル事業を進展させる際の大事なワンステップとして貴重な経験になったことは間違いありません。浜松工場に転勤後、レポール式では半湿式の原料造粒前処理にアルカリ性亜硫酸パルプ廃液添加が有効で、東洋紡犬山工場の廃液を随分有効に利用し、更に酸性パルプ廃液の方は粉砕助剤としてセメントミル用に活用し有効でした。

戦後最大の重力ダムとして建設された五十里ダム

c.珪石系添加材(中庸熱セメント用)
大型ダム建設にとって、コンクリート打設初期(三~七日間)の硬化反応に伴うダム擁壁内発熱・膨張・亀裂発生は最大の敵です。湛水開始して三ヶ年以内で発生するダム崩壊は多くこれによると当時指摘されていました。昭和二十七年当時建設中の五十里ダムは日本でも戦後最大の重力ダムで、勿論建設局側としてもこれに最大の神経を使っていたわけです。この為冷却管の効果的配管とかコンクリート混和水に雪・製氷を使うなど大変な手間と経費をかけていました。そのためセメントを納入し始めた初期段階で“今少し水和発熱を抑えて欲しい”との現地要請があり、成分上珪酸率を上げるため軟質・高純度の珪石配合が必要になり、結局愛知県高蔵寺(瀬戸多治見地区)辺りまで珪石のサンプリング調査に出掛ける羽目になりましたが、結果は以後浜松・多賀彦根工場孰れでも特殊セメント用としてこれのお世話になる事が終始多かったものです。

2.リサイクル新事業展開

彦根多賀工場五年の任期を終えたところで、東京本社転勤ということになりました。本社辞令受取りに先んじて先ず新業務内容について、当時本社技術担当筆頭役員であった小川専務から概略構想に就き一報あり、後に手にした本社よりの転勤辞令の内容はと言うと

a.本社に資源リサイクルセンタ設立
『本社リサイクルセンタ長を命じ、併せて東京支社、大阪支社技術担当を命ずる』と何とも妙な辞令なんです。第一にリサイクルセンタなるものなど当時本社には存在していないのです。結局転勤辞令を受け取る直前二度目の、本社小川専務(東大応化出身で私の入社以来の親分筋にあたる)からの電話による説明では、『これは社長提案の新事業で、先日役員会で決定したばかりなのだが君が担当推進することになったのだよ。実は今年通産省では、既に欧米で先行実施中の【廃棄物資源サイクル法立法化】が進められることになり、これをうけての社長提案だが、うちの全社リサイクル業務を本社で統括し、本格的に展開する意味で【本社リサイクルセンタを設置】し、君にセンタ長になって貰うことになったのだ。だから運営総て君の好きなようにやって結構だよ、何時までもドサ廻りでもないからな』と台北下町育ちを自称する専務は呵々大笑したわけです。東京支社・大阪支社技術担当云々の部分は、事業が全国展開であり、支店の相談・協力も得ながら営業網を使って全国各地廃棄物発生状況・業界ニーズ等情報網をとり易いよう配慮されたというのです。全国工場、支店、販売店網総てを総動員してリサイクル業務に協力させようという訳です。事業スタート当初の所員は先ず課長以下僅か数名配置とし、主要方針は・・・

 捉まえ処が無いようでも先ず情報・現物の収集から総当たり的に実施。処理については本社・  研究所・工場が責任以て全面協力する。
 通産省、地方省庁、産業界の協会・組合・地区会と連携し省庁・業界情報をとる。
 廃棄物処理業界の主要業者と連繋して発生品目と輸送手段リストを作りながら即住友全工場に於ける有効処理に繋げて行く。
 海外特に欧米の再資源化及び低開発国の副資源情報を入手しグローバルな連係を展開する。

と自分で勝手にですが、以上の方針をたてて昭和五一年より五五年の五年間で取り組み達成した成果は・・・

珪石:大量の石灰石粘土に少量の珪石と鉄滓をそれぞれ細かく粉砕して
混合した後、焼成するとセメントクリンカーを得る。
これを少量の石膏と混ぜて粉砕することでセメントができあがる。

b.主要全工場に総合リサイクル設備導入
社内主要工場(青森県八戸、福島県田村、栃木県栃木、岐阜県岐阜、兵庫県赤穂、福岡県小倉の六工場)に湿式並びに乾式リサイクル専用設備を新設し、全国で発生する副原料・添加剤・油泥系廃棄物・石灰系廃棄物・粘土系廃棄物・鉄滓系廃棄物・廃タイヤ・脱硫・廃型・化学石膏など年間約五〇万トンの副産物・廃棄物活用処理による約七億円の純利潤を創出。通産省・業種別協会・組合等のバックアップを得て、廃棄物発生主要各業界全体の経費節減に寄与する処絶大な成果を挙げ得た。

そして以後四十年間経った今日、その処理設備・処理技術のスキールアップと共に、この事業は省エネ省資源という面からも、セメント本体事業を大きく支えると同時に、国の環境・廃棄物処理という拡がりに於いてもまた絶大な効果を挙げております。昨年、彼の東北関東を捲き込み壊滅的とも云うべき災害と処理すべき膨大な廃棄物の山をもたらした東日本大震災復旧処理にも、セメント業界は今やおおいなる貢献を果たしていると聞きます。

c.官民協同リサイクルプロジェクト事業展開
①通産省、科学技術庁(新技術開発事業団)、通産省第三セクター(クリーン・ジャパン・センタ    ー)、兵庫県商工部、民間企業(神戸製鋼・三菱重工等)と組んでの官民共同プロジェクト展開。
   当社赤穂工場立地:タイヤリサイクル事業部
     製品:B重油・ゴム用フィラー           
② 当社赤穂工場立地:油泥再生プラント
     製品:船舶油泥/B・C重油・スラッジ

しかし好い事ばかりと云うわけにもいかず、本事業推進途上で当社主任研究員T氏(私と同期入社)が六価クロム処理研究中クロムガスを吸引する事故犠牲となったのは返す々々残念なことでありました。彼は一風変わった人で、私と同期入社だが四歳年上、非常な勉強家で東工大窯業科卒業、更に一級ボイラー技士、一級建築士資格を持ち、磐城入社試験では一次筆記試験合格後、本社での口頭試問の際に名前順の関係で、私のすぐ前に待機していたが、役員室に呼ばれる前、密かに私の耳元で囁いて曰く「貴方は若いが私は歳なので合格を私に譲って欲しい」と、飛んだことを言う人だと思いましたが、兎に角お互い目出度く合格入社し、彼は研究所勤務中特許も多数申請、会社への貢献度も高かった人ですが少し計算高く現実的過ぎた様。それにしても「ご自身の寿命についても今少し計算高くできなかったものかなあ?」としみじみ思った訳です。

d.欧州旅先で父の恩人との出遭い
三菱重工主任研究員と国際会議出席で欧州旅行を共にしたときですが、そこでドイツのデュッセルドルフ三菱支店に案内して貰ったのです。彼は本社の意向で、三菱社油泥再生リサイクルプラント関係では私のプロジェクト担当だったわけです。仕事打合せ終了後雑談に移り、お互い出身地など話していたところ、何と彼が久留米藩「有馬家」のお孫さんだというのです。実は私の父も久留米出身であり、東京杉並在住時代には「有馬家」には大変お世話になったことなど、偶然の邂逅に驚きながらも懐かしく改めて杯を重ね交わした次第でした。以後大変親しくなり、パリー、ドレスデン、アムステルダム、ロンドンと行を共にし、以後、私達と三菱重工との共同プロジェクト推進では彼が窓口になって貰い、赤穂油泥プラント設置・稼働実現に至った次第です。

ドイツ・デュッセルドルフ  クリックで拡大

3.原子力廃棄物処理技術開発
(東海村原子力研究所との共同開発事業)

①低レベル放射性廃棄物の保存・固化技術・専用セメントの開発(社員派遣)
②台湾原発向け同上技術の共同開発と現地見学及び打合せ
③岡山県人形峠核燃料開発事業団における燃料滓固化剤開発
④台北市廃棄物固化剤開発

東海村高・低レベル放射性廃棄物処理研究と被曝問題
原子力廃棄物処理開発では東海村に研究員常時二名を交替派遣(放射能被曝予防措置)の方式で進めましたが、研究員は厳密に二年間毎の交代制としました。高レベル廃棄物処理はガラス固化体性能試験、低レベル廃棄物処理はコンクリート密閉専用容器性能試験で、東海村原研研究員との共同研究方式です。

実は原研の熱心で優秀な研究員ほどやがて白血病に冒されるとの事前情報もあり、当社派遣研究者には放射能取り扱いには呉々も注意させていたし交替勤務厳守を原則としていました。また私達が原研に出張打合せの時は必ず会議に出席していた村越原研所長も、口ではくどいくらい危険性を指摘していたにもかかわらず、後日やがてご自身『白血病』で亡くなられてしまったのです。所長は会議の後など私達を実験用発電炉、研究所、大洗反応炉、低レベル廃棄物一時貯蔵所などとよく案内してくれましたが、そうした時も貯蔵所に関しては百メートル程手前ではぴたっと立ち止まると、それ以上はもう決して近づこうとしませんでした。それほど要心を重ねて居られた人でも、結局白血病に冒されるのかと改めて放射線の恐ろしさを実感しました。    

茨城県・東海村原子力研究所

在任中は当社事故者も出なくてやれやれと一安心でした。もし皆さんの知り合いで優秀な人が原子力関係の業務に就くという場合は呉々も注意してあげてください。魅力的な業務ですが危険極まりない代物です。日本には原子力発電所が五十五ヵ所、フランスにも五十五ヵ所、ドイツには八ヵ所、台湾には四ヵ所ありますが、総て海岸または内陸では大河流域に設置されています。何故でしょうか?水に流せばよいのでしょうか?恐ろしいことです。ドイツでは二〇三〇年までに原子力発電は一切廃棄することになっています。発電により発生する核燃料廃棄物再生燃料の国内輸送を一切住民反対で法的にも禁止することになったからで、事実上発電継続が不可能になったのです。以後原子力利用見直しは各国で広がっています。原子力廃棄物処理開発に取り組んでいた私共に密かにこういう話が囁かれました:―
『一人の人間が再処理燃料プロトニュウムを1グラム懐に持って地球を1ケ月間・一巡するだけで、地球上の全人類を即時絶滅することが出来る』と。

b.台湾原子力発電所にて
台湾側要請で東海村主任研究員・下請け処理業者と我々住友側担当三名、計五名のチームで台北空港経由台湾原発に入ったのは昭和五五年七月のことでした。じりじりと暑い日差しの台北空港Vルート(無審査)より出て先ずホテルに向かい始めるや、いつの間にか台北市長が同乗する我々リンカーンの前後は、物々しい軍用車二両に挟まれて護衛される形で走っていたのです。ホテルでの飲茶の軽食を終えるや早速出発です。

本社リサイクルセンタ時代・台湾原子力発電所
水力ダム発電所へ出張(左より5人目が堤氏)

ホテル前を出る時は例の軍用車はいつの間にか姿を消していましたが、台北市内を抜け北海岸に向かうこと約三〇分、あっという間に脇道より四両の機銃装甲車輌が現れ、鬱陶しくも前後を挟まれて走っていました。軍用道路だったのです。やがて台北の北海岸金山第一原発の物々しい通用門を通過して庁舎に入ったわけです。予め同行者からは原発内では中国語は絶対使わないよう忠告されていたので専ら日本語で挨拶していたのですが、彼等も中国語はあまり使わずに殆ど英語で会話してくるのには何とも奇妙な感じでした。後で聞いたのですが連中は100%米国原子力研究所で教育を受けていて用語は総て英語です。何か米国の属国に来ているような錯覚を覚えます。一応台湾の原発関係者との低レベル・高レベル廃棄物処理説明・打合せは英語主体であとは本島人(北京系は肌色が白くてぷくぷくしていますが本島人は肌色が褐色で痩せ型:日本語が良くできる)の日本語通訳を介して無事終了しました。

台湾原子力発電所パンフレット(1981年)

打合せ後の原子炉、廃棄物処理設備等々見学中に建屋の間からとか、見学が終了後に海岸を走っているとき左側台湾海峡の彼方に中国本土が灰色に煙っているのが見えた様な気がしましたが、何で原発を中国本土側にわざわざ建設するのかと複雑な感慨に耽りました。その後、国聖第二原発(台北の北東海岸),馬鞍山第三原発(台湾南端)、龍門第四原発(台北東部海岸)と増強されていますが最近増設反対運動も起きているとか聞きます。原発から帰って台北では産廃固化剤の説明,建設中の淡水大ダム見学とダム専用セメント及びコンクリート品質仕様と管理方法についての講演、最後の晩は電発総裁・ダム建設所長・台北市長といったお歴々と北投温泉での交歓会を持って締め括ったのです。

台湾・北投温泉

c.大飯原発用セメントの開発納入
私が多賀・彦根に転勤して間もなくでしたが、関電よりの要請による『福井県大飯原子力発電所反応炉本体構造物、及び放射性廃棄物貯蔵所用の放射線防護セメント・コンクリート仕様・設計説明並に一週間に亘る現地立会試験を実施する』との通達を承け、大飯原発に泊まり込み一週間の出張となったわけです。夜は美浜のホテルに泊まるのですが、三方の海岸に早朝集合し、冷たい朝風を突いて出発、帰りは夜遅く半島先端の建設地点から原発専用ランチで往復という試験立会一週間は可成り厳しいものでありました。立会テスト当初は敦賀セメント社・大阪セメント社との三社共同入札を謳っていたが耐放射能高密度・高強度コンクリート仕様では結局性能競争で勝負は付き、全工事とも当社セメント仕様とコンクリート設計で実施と決まってしまい、敦賀社、大阪社は当社品代替え納入となったのです。

福井県・大飯原子力発電所

一般には放射能としてはα線・β線・γ線・中性子線があるのですが、遮蔽の点では透過性の大きなγ線と中性子線対策に重点が絞られコンクリート中に磁鉄鉱・鉄片の混入また中性子線にはコンクリート配合水比を大きくして遮蔽効果を上げるわけです。炉体はマスコンクリート並みに中庸熱セメントとする。β線の透過力は小さいが炉体近辺での作業者の被爆防止を考えなければならず“放射能飛程”対応のプラスチックコンクリート複合体が有効なわけです。α線は透過能力は極めて低く紙被服程度で防げるので対象にはならなかった。また放射性廃棄物貯蔵所防護壁用としては線種を考慮し厚み45cm65cmで現地原発側でテストすることとなった。以後数年に亘り大飯第一・第二原発に対応することになったのです。

さて美浜の宿で一寸面白かったお話しをします。それは毎朝宿を出るときですが、仲居さんがその都度『今日は魚か・肉か・揚げ物かなにが好いですか?』と聞くのである。そこで例えば『肉!』と注文しておくと、夕時お膳について吃驚するわけです。広いテーブル満杯に牛肉の口付け刺身から焼き肉・すき焼き・鍋・茶漬け迄総て肉料理で、はみ出した分は二ノ膳と盛りつけてあるのです。そこで聞いてみると、総て当日中の仕入れを原則とし、肉は本場舞鶴まで出掛けて神戸牛の一番好いのを買ってくると言うのです。魚貝類は敦賀・小浜迄買い出しだそうです。そして一週間というもの手によりを掛けて毎日違ったご馳走を頂戴し、然も宿泊逗留費は都会地の半値と言うのです。出張旅費がすっかり浮いて悪いようでした。

d.国際リサイクル会議に参加・発表
当時EUにおけるリサイクル活動はドイツを中心に大変活発で、リサイクル法施行とそれに基づくEU内連携事業化は日本より約三〇年先を行き、処理技術においても一〇年の長があると云われ、日本でもリサイクル法の早期立法化は産業各分野からも強く望まれていたわけです。ですから当社でも今回の廃棄物法の立法化を踏まえては率先してリサイクルセンタを発足させ、EU各国:スイス・ドイツ・フランス・イギリス・オランダ各担当官庁・機関とも廃棄物処理技術の交流発表と技術交換を積極的に進め、一九八一年東京リサイクル会議では議長団としても参加し、会議参加者対象の見学会は当社最新鋭赤穂工場リサイクル先端設備公開で主催するなど、通産省並びに地方公共体との連係下で推進する役割を強力にPRしました。赤穂のテーマは下記の通りで各国会議参加者に大きく評価されました。

【1】
①冷却用熱エネルギー極限利用を可能とする特殊設計クーラー開発。
②キルン廃熱の極低温熱回収交換機・低温発電設備。
【2】
広範に亘る各種油泥,廃タイヤ,その他産業廃棄物のキルンへの経済的添加設備(廃棄物発生者の不経済な前処理・加工負担は最低限にさせる様設計)。
【3】
①廃タイヤリサイクルプラント:通産省・兵庫県再再資源化事業団モデル事業
②油泥リサイクルプラント:科学技術庁・再資源化事業団モデル事業 

e.事業強化と新会社設立の機運
本社リサイクルセンターの事業は昭和五十七年度に入りいよいよ多忙を極め、赤穂実験プラント現業員約五〇名と東京事務所企画開発並びに営業スタッフ一〇名の挙げる事業純利益は何と数億を突破し、一方各事業の進展と共にリサイクル情報のみならず通産・運輸・農林・工業技術院・運輸省等々各省庁を始め、産業界を網羅する各種団体・自治体との連係も益々強化され、対外重要情報源また素材・製品等重要研究開発源として、社内全社的に当センター機能特質への認識はより広範に浸透するに至った。ここに本社開発機構の一部としてより、『新会社として独立し機能も事業拡大展開を図る』事への是非が役員会に於いても論じられるようになった。

f.社長要請で新会社の設立
丁度そうしたときに私は定年を迎えようとしていた訳で、結局、藤末社長・小川専務との急遽検討の結論は『本事業については我が社としても時局柄最も期待される優秀事業である認識に立ち、此処に更なる発展を期して現業を引継ぎ新会社を設立すること』となり、結局昭和五十七年四月『新会社・住セリサイクルセンタの設立』が決定、新事務所での業務が開始されたわけです。この時期は私にとって、人生最も多忙乍らも生き甲斐と理想に燃えた時期だったと思います。

新会社の社長と言っても業務内容は別に従来と大きく変わるわけではないのですが、私自身としては寧ろ対外的に客先との対応、資金繰りその他煩雑な本社との手続きなど仕事は増えるばっかり、業者からは次々と新たな依頼業務が持ち込まれ出張の連続と、従来社内各部分担処理で済まされていた雑務すら一つ一つ倍加する勢いで増加し、新規開業当初は只々疲れるばかりといった日々であった。スタッフも従来仕事慣れしたスタッフは半減し、補充された不慣れな新規職員ではこれの教育がまた負担となり、対外業務の半分以上がこちらの肩にのし掛かる毎日と成ってしまったのです。ただ然し、気分的には尚張り切り満杯で、疲れも忘れて仕事に打ち込めることは素晴らしいものでした。

g.体調を崩し退職・保養 ―そして再出発―
昭和五七年末ともなると事業は多忙の極を迎え、国内外を東奔西走、我が家での食事すらなかなか落ち着いて摂れないと言う、不健康極まりない生活に突入。対外営業が軌道に乗り出すに従い関係先・客先交流に加えて、更には煩雑な親会社対応の雑用までもが次々に増えるばかり。事業こそ順調に拡大し続けるなかで、だが私の健康は極限まで追い詰められていったのです。そして終には来るべき時を迎えてしまったのです。

現在の住友大阪セメント赤穂工場

本来毎月ですが赤穂工場敷地内で操業中の廃タイヤ並びに油泥リサイクルプラントに出張した際は、先ず現地センター従業員、三菱重工技師・神戸製鋼技師等々と打ち合わせ、帰りには必ず共同事業体の兵庫県県庁資源再利用事業団に寄り、ダンロップ事業部長、関西タイヤ協会支部長・神戸製鋼プラント営業部次長等々メンバーと懇談し事業打合せを行ってから東京に帰るのが決まりでしたが、偶々当日は用件も多く大変疲れてもいて神戸泊まりと言うことで、結局打合せ後麻雀中に突然ですが第一回の心臓発作でダウンし、その時は何とかニトロの服用で事なきを得て無事帰ってきたのですが、その一週間後に家で就寝中に第二回発作に襲われ心臓が止まりそうで苦しく、早速医師の診断摺る処では「貴方は今直ちに禁酒・禁煙・食管理・運動管理など生活態度改善を徹底すること。もう何時死んでも可笑しくない状態だから!」の絶対養生宣言を受ける身上となり、以後休養、通院養生となった次第です。

それからは、死んでたまるかと徹底した生活の改善努力をしたのが好かったのでしょう、一年で薬服用を終え、この際東京衛生病院の禁煙講座で指導戴いた禁煙生活も完全に自分の習慣としました。やがて半年、体調・体力の復帰と平行して、家内共々で尾瀬二泊三日・八〇㎞走破をはじめ、ハイキングクラブに参加しては毎月関東近郊山々を歩き回り、図書館に通っては手当たり次第に読書にはまり込み、当時市場に初めて普及し始めたパソコン教室に参加するなど充電に努めたお陰で、次の新たな第二の会社人生出発に繋げることが出来ましたが、これは、今にすれば細かく健康指導戴いた医師をはじめ、家族諸々周囲の方達、そして何より気を遣ってくれた妻にはどんなに感謝してもしきれないものがあります。

やがて住友社藤末社長、小川専務からの紹介で先ず短期間ですが先端的な新素材加工会社、並びに住友社新素材開発研究所での技術研修など経て、第二の業務として先端技術開発関係の仕事に取り組むことになりました。『新日鐵系商社千代田商事()の技術顧問』にどうかと言うことでした。当時住友と新日鐵との結びつきは、住セメ開発のセラミック系新素材を広大な製鉄各現場で積極的に試験試用を開始し、これの仲介役を果たしていたのが千代田商事でした。ですからこの新素材活用の推進・成功は住友社は勿論、新日鉄・千代田としても新技術・営業展開の第一歩で、更にこれを契機として新日鉄の広範に亘る先端材料開発・新技術ニーズに積極的に営業戦略を展開すべく、千代田社開発部門の新設拡大を意図していたわけで、その為にも住友の呼吸の掛かった技術顧問が必要だったのです。この企画が千代田社会長(京大哲学科出身・新日鉄OB)提案による企画と知ったのは、後日会長との面談の際冒頭『大事な企画なので宜敷』と丁重な挨拶を承け給わった際のことでした。

4セメント会社での仕事の総括

a.戦後復興はダム開発から
大東亜戦争の直前、モンロー主義(他国の戦線には参加しない)をとっていた米国も、二ヵ所の巨大ダム建設を契機に、続く産業復興と強力な生産力を背景に初めて連合国側として日本との開戦に踏み切り、緒戦ハワイの頓挫こそあれ結局は技術と物量の優勢ななか、日本に勝利したと云われます。やがて敗戦日本もダム建設に始まり国土再建の口火を切ることになるのです。

b.入社早々ダム関係から特殊製品取組へ
大学を卒業後私はセメント会社に入社しましたが、日本の敗戦後復興期にあたり重要なエネルギー対策としてのダム用セメント開発・製造と言う仕事に先ず取り組めたことは素晴らしいスタートであったと思います。何か日本の復興を全身で受け止めたといった重さを感じたからです。将にこれを契機として日本全体の産業界が復興に向かって動き出したのですから。

前述しましたように、そもそも日本が米国との戦争で負けたのは、半分は経済力で負けたといっても過言ではないでしょう。ルーズベルトは昭和十一年第二次ニューディール政策で、経済復興のエネルギー基本政策としてダム建設(TVA計画)に着手し、それを基盤とする経済力が第二次世界大戦にも充分耐えうると確信したからこそ、昭和十六年十二月の日米開戦にも踏み切れたと云われます。かくて日本は『国敗れて山河在り』とて、総てが荒廃し尽くした国土を、今度は私等が米国をも凌ぐ産業立国として復興させるべく取り組み始めたわけです。そして年月を経ると共に電力・技術開発と相俟って日本の産業は見事に復興しました。私が五十里ダムに始まるダム用セメント開発・供給に携わっているとき、一方では電力と共に高度産業復興も平行して進み、これがまたセメントの増産も促していったわけです。

さて以後セメント産業と鉄需要とは競合しつつまた手取りあって伸びていったわけですが、セメントは一九六〇年代で年需一億二千万トンのピークに達し、一方粗鋼生産は一〇年遅れの一九七〇年代で一億二千万トンのピークを迎えています。一九五二年入社当時社長挨拶で『セメントもやがて一億トン超の需要が到来するが鉄とセメントいずれが早く達するか見守りたい』との話が懐かしく思い出されます。やがて鋼に対応する鋼線入りコンクリート開発など特殊ニーズが次々とセメントにも課せられる様になった訳です。PSコンクリート枕木、支柱無しコンクリート橋、ビル用PS巨大梁桁、超高強度PSパイル、道路用パネル、更に産業廃棄物処理・原子力関連では放射能防護・高低レベル放射性廃棄物処理等々です。

PSコンクリート枕木

c.特殊セメントから環境問題へ
結局ダム用取組に始まった私の特殊セメント開発への関わりは、次第に開発域を広め廃棄物・原子力おも含む環境問題の分野にまで必然的とも云うべく展開して行ったのです。これらは仕事の性質上から公共事業対応が多く、私もセメント工場勤務より官庁関連・事業体団体など、そして工事現地へと出張が多く、出先は地方山中に始まり次第に地方都市部そして主要都会地へと変化し、客先も官公庁から公団・協会・民間の団体・事業所へと順次時代と共に変わって国内外を随分歩くことになりました。製品仕様も役所決定型から民間協議型そして当社仕様提案型へと変わり、品質責任も我々メーカー責任が強化されてゆきました。終盤では環境事業の締め括りとしてリサイクル事業を担当し、当社事業のドル箱としての面目を果たしました。

d.リサイクルセンター事業運営
センター事業は私の住友に於けるサラリーマン生活の最後を飾る花でした。センター事業の華々しい展開、それは住友社本来からの保守性枠を敢えて乗り越えて、中央地方諸官庁・全国産業界との自由闊達な技術交流のもと、新事業を見事に成功させたのです。その手法・事績は役員会をはじめ人事部の大いに注目する処となり、折からの不況下また低迷する本社各部署の管理職クラスは、当センターの斬新的な運営ノウハウを学ぶべく、役員命令下事業研修を受けに来る程でした。処で前にも話しましたが従来リサイクル品の開発応用等ということは、セメント会社の技術職であれば常識的には気安く取り掛かられる仕事と考えられますが然し、国の新法制下で新規発足するセンター方針ともなれば・・・

①従来セメント製造用資源としては埒外品と見做し放置されてきた
それら広範な全国廃棄物をも対象に有効利用を積極的に検討する。
②その為、当社全工場の受け入れ処理設備をも新設合理化する。
③従来廃棄物発生各社が処分委託のために掛けていた
膨大な前処理費を最小限とする受入・処理法を採用し、
発生者の経済的利便性をも最優先視する。
④廃棄物輸送の合理化を地方行政府並びに輸送機関と協議徹底する。

という従来採用されてなかった卓抜した観点より、次々とリサイクル活用を進めた点が成功の基本でした。ここで霞ヶ関各本庁・経済団体・各種業界協会も大歓迎。結果として事業は無理なくスムースに軌道に乗り、更に二、三年後には小野田・日セ・秩父などセメント界大手他社も競争参入するほどで、社内のみでならず全国産業界全般更には国の省庁、各種協会・業界団体も含めて効用は高く評価されるようになりました。

例えば廃棄物処理に一トンを五~十万円もの処理費を支払い、然も四六時不法投棄・二次汚染発生の不安を抱いていた廃油処理等が、当社との契約では、発生者側でも殆ど最低の前処理費・運送費・処理委託費合計でも数千円で完全処分され、然も処理当社にとっても有効資源・エネルギー源として活用され得るのです。国・業界・関連団体よりも諸手を挙げて絶賛されたのは当然でした。さて然し斯うした結実に至る道程を今ふり返ると、ここに至る成功を見るまでの私たちの努力も大変なものでした。

一口に全国の廃棄物発生各社・業界団体・各種協会・関連各本省地方官庁等々との交流と云いますが先ず事業スタートでは全国脚を棒にしての訪問・打合せ・調査とセンター所員全員総出の仕事で始まり、この間、昼間のセンター事務所は机と椅子そして事務・連絡係の女子事務員以外人ッ気一つ無い空き屋と化し、夕方からやっと外出者の帰着を待っては、資料整理と新事業展開を目指しての熱っぽい検討打合せ会、そして貴重な資料を積み上げ乍らさて次のステップは?の毎日です。

ヘッドの私なども課員同行で地方三、四日の出張不在はしょっちゅうで、家での食事など週一度も摂れるのが限度という忙しさでした。やがて一年二年と業績を積み上げ成果が目に見えて上がってくる頃ともなると、人事部始め本社各部担当部長等による『センター部の執務状況や如何?』と秘かな視察があり、ですがセンター事務所内はいつ見てもヘッド始め全員もぬけの殻!結局『彼等は一体いつどこでどう仕事しているのだろう?』と、余りに状態が異なり、役員会で話題になった程でした。この間リサイクル関係で官民協同の新事業開発・設備投資等々は数十億に達し、更に蓄積された膨大な社外業界各社・協会等の生産・開発・技術・統計情報は、本社始め研究所各部にとっても貴重な業務推進上の資源としてこれ又引っ張りだこで重用され評判になった程でした。

e.通産会議で早大応化旧友との出会い
通産省主催の定期リサイクル会議に臨んでは、数少ない有効活用者側の筆頭に立って発生者側の相談相手として役立てました。所で偶然ですが、会議席上、なんとメルシャンワイン(協和発酵)の環境部長をしていた、早大応化同期の伊籐哲也君も同席していて、会議の後ほど銀座のメルシャンサービスコーナーで久闊を叙し、忌憚なく近況など話し会うことが出来ました。但残念なことにその暫く後の事ですが、彼は東京の住まいの失火事故に遭い、間もなく亡くなられたとの風聞に接しそれが彼との最后になってしまったわけです。複雑な事情もあったように後刻窺いましたし、お互いまだまだ働き盛りの時期で『これからなのに』と無常観に打たれた次第です。尤も私自身もその数年後には高血圧と狭心症で倒れたのですからあまり他事とも云えないのですが。

更には我々リサイクルの仕事を進める過程では、従来からの処理業者の死活問題とも重なることが多く、その点は予め業者とも充分打合せし、契約も企業との直接は避けて業界とか協会単位で交わし、セメント工場内処理以外の小口分は成可く従来処理業者に任せるように配慮したのですが、それでも産廃・一廃処理業者などのなかには質の悪いのもいて、電話とかストーカー行為で脅しとか嫌味も時には受け、また危険な場面にも一・二度遭遇した訳です。

堤氏が滑走路用耐摩耗セメント開発・供給を推進した成田空港

f.各種特殊セメント取組みの総括:
入社当初よりダム用中庸熱セメントとの取組みに始まった私の会社生活は、退職までの三十余年間を振り返ってみると、結局特殊品との取組を続けるべく運命付けられたと言うことになる。緊急工事用早強セメントをはじめ、数々のダム用中庸熱セメント、成田空港滑走路用耐摩耗セメント開発・供給、東北・信越・北陸高速道路用セメント、原子力発電所向け放射線遮断用セメント、低レベル放射性廃棄物固化保存用セメント、超高強度パイル用セメント、峡谷岩盤強化グラウト用セメント、廃棄物安定化用セメント等々数多品種に及ぶ開発・供給と共に、その間雀の涙ほどの特許開発料ではあるが製法・工法等特許申請件数十数件、役職は役員相当の主席技師長を拝命、一方、本社・工場等在勤当時に教育した若手社員も夫々管理職に着任し、退職後も本社内で出遭えば『(本社・浜松・彦根多賀・赤穂時代等々)教育・指導のお陰様です』と感謝され、なかには最敬礼をする中堅社員と出逢ったりして、改めて自分がこの会社に本当に残して来たものは何だったのだろう?と何や彼や考える日々です。

g.伝統ある社風の育成
一口で言えば『先ず他社にない、自社独自に成し得る真の力を見つけ出すこと。次にそれを心底に据えて、国家的事業実現に向かい燃える如く全身全霊を以て努力する』と言うことでしょうか。かく立志決意する社員を一人でも多く育て活性化する伝統を樹立出来るかと云うことではないでしょうか。

元気いっぱいの堤先輩!
6/23(日)梅窓会総会・懇親会でお待ちしています!

次回【最終回】
千代田商事技術顧問時代(新日鐵関連)~我が人生とは―総括―へ続く