2014年8月28日木曜日

人生と出会い <最終回>                 
千代田商事技術顧問時代 ~我が人生とは~

堤健二(昭和19年卒 日本中学校卒)

(6)千代田商事技術顧問時代(新日鐵関連)

鉄屋との付合い―専門学会・部会への参加―

 体調を崩して住セリサイクル社の社長職を辞した後、会社斡旋で新日鉄の主要商社である千代田商事の技術顧問職に就くことになりました。当時住友セメントの新素材開発営業部ではセラミック系硬質新素材(刃物・耐摩材・耐熱材・電子材・研磨剤・装飾材等々)を新日鉄との技術契約のもと試験納入を初めて居たのですが、中間に立つ千代田商事では専門技術者派遣の要請をセメントに依頼していました。ということで私がその任に当たることになったわけです。

昭和五八年一〇月、五六歳で第二の仕事始めです。千代田社では早速開発部を設置し部長以下部員への技術指導・開発推進指導と相成ったわけです。だいたい一週のスケジュールは鉄鋼協会の専門図書館での文献資料調査、熱処理・表面処理・圧延・副原料・コンピュウター可視化など各技術についての各学会・発表会参加、新日鉄研究開発者並びに各業種メーカーとのニーズ・シーズ内容打合せ詰めなど多岐に亘り、その間毎月三~四回は君津、八幡、名古屋、広畑その他と新日鉄各製鉄所での打合せ廻り、千代田社内定期研修会での新たな新日鉄社技術改善案に取組み、ニーズを理解し行き着く最高の解決策を提示することが私の新たな仕事と言う訳です。その為、対応しうる先端技術、材料、メーカーと問題解決案を詰めて、ユーザーと対応します。遣り甲斐があるとは云え、新技術を消化し、対策を詰め、リポートの提示に漕ぎ着ける過程では、頭がそれこそ壊れてしまうか、すり減って禿げてしまいそうな毎日でした。

七〇歳で退職しましたが、その時点で千代田社には、新規部門として、開発部、海外営業部(主として中国上海を中心とする製鉄関連原材料・機器部品)、電子部(東芝関連を主体とする半導体開発営業)が発足していました。住友を退職して千代田社に入社した五十六才から、七十才で退職までの十五年間は、いわば私にとっては第二の仕事人生とも言うべきものでした。セメント製造と製鉄とでは石灰・鉱滓の高熱反応を基本とし、窯業先端材を駆使する耐熱設備を使用する点など共通点も多々ありますが、製品半製品の後処理・緻密な表面処理・先端材質開発など処理技術の粹は、分子・原子レベルの研究知識をベースとする理解を要求されます。従って関係者は国家レベルの先端技術者の開発要求に対応する覚悟が要求されるわけです。広範な化学・工学・電子技術に亘る学会・業界研究と製品発表・開発には絶えず注目し、これらの製鉄業界への有効な応用を頭に入れ注目を怠ることは許されません。

 (7)趣味は?

 ①中国語と旅
台湾の風俗習慣とか現地人・蕃社とのつきあいのことは、小学生の頃から父によく聞かされていました。格好良く真白の詰め襟の官服を着込み、愛想も良いので中々原住民(漢族・熟蕃)にも評判良く、それがツオウ(曹)族だかルカイ族たち生蕃間抗争の平和的解決に役立ち殊勲ものだったこと。軍政主体の朝鮮と異なり民政主体に切替えて後の現地人との友好関係は良好で住み易く、日本軍人の中には原住民の嫁さんを貰ってその儘居付いた者もいた等々です。ですから私の台湾・中国人に対しての印象もどちらかといえば良好でした。

 一方兄弟でも育った世代の違いか長男の中国人嫌いは理解し難い程です。その後、住友社に入社して浜松工場に勤務中には、屡々台湾からの見学者がよく訪れてきました。というのは工場上司の次長が終戦まで台北の台湾セメントで工場長をしていた関係で、当時部下だった現地人の方が訪ねて来たということです。私はよく案内人に立たされましたが、当初の台湾人見学者は戦前からの台湾現地人で日本語もよく通じ楽でしたが、三回目・四回目ともなると、次第に旧国民党政府要人(将介石一派北京・上海要人)が多くなり、連中の流暢な英語につきあうのに苦労しました。

 その後、彦根勤務では大阪一水会(住友本社技術研究グループ)業務も担当するようになり、金属・電工を中心とする住友グループの宝山製鉄所建設計画参画が具体的に進行している情報が入り、参加するためにも先ず中国語から始めようと思い立った次第です。彦根勤務五年を終えたところで好都合にも東京勤務となり、早速本社最寄りの中国語学院に通学始めたと言うわけです。二年の学習で上級まで到達、そこでヨーロッパ出張勤務が入り、中断しましたが、五六歳定年になったところで再度挑戦開始となったのです。以後のことは文集記述の様なことです。中国語勉強と並行して随分中国旅行をしましたが、最も印象深いのは三大石窟と敦煌の旅です。

一千六百年前の雲崗・龍門・莫高窟の仏像群、敦煌周辺では砂漠に没しつつある古代砦の玉門関・陽関、そして鳴(めい)砂山(しゃざん)への駱駝の旅です。敦煌市街は、北は砂礫地形のゴビ(モンゴル語で戈壁(グウピィ))砂漠に、西は砂丘地形のタクラマカン砂漠に接し、それはシルクロードの二道(天山北路=葡萄之路(プウタオジイルウ)と西域南路=玉之路(ユイジイルウ))の玄関口でもあり、天山北路入口の砦が玉門関であり、西域南路入口の砦が陽関です。ともに漢代の烽火台が古代中国史の表徴として残り当時を偲ばせてくれます。特に玉門関・陽関では秦始皇後の前漢時代(BC200)築かれた万里の長城跡が、砂丘に埋もれながらも頭を高さ2m長さ170kmほどに亘り連なり、唐代漢詩の世界に彷徨うかの感懐を抱かせます。

敦煌の北側は砂礫と草原のゴビ砂漠地帯で砂丘が連なるタクラマカン砂漠とは一変した景観です。砂丘が少なく、砂礫混じりの草原は、牧草と本来中国原産であったカラタチの木に似た棘だらけの駱駝草に被われ、駱駝はこの駱駝草を専ら主食として生き延びています。ゴビ砂漠の舗装道路を車で飛ばすと、十~二、三十頭の野性の駱駝群に二度三度と必ず遭遇し、彼等が横目使いでこちらを窺いながらゆっくりと道路を過って行くのを凝っと待つことしばしばです。これに比しタクラマカン砂漠は砂丘に覆れ、新彊省西端タリム盆地を抱えこんで展開し、崑崙(こんろん)山地(さんち)の地下水を泉源とするオアシス都市群とこの間をモンゴル、ウイグル族のパオレストラ(・・・・・・)ン(・)が点在、食事・お茶サービスをしています。

②パソコンとの付き合い(EXCEL応用に挑戦)
コンピュウターとの付き合いは古く、彦根多賀工場勤務時代に工場長の提案で住友グループNEC(当時の日本電気)との共同開発で最新鋭の赤穂工場対象に、ワンマンコントロールモデル作成をスタートしたことに始まります。私自身も当時二年ほど前から既に数値制御(当時はアナログ主体)とかプログラミミング言語(技術用FORTRAN・汎用事務処理用コボル)とか各種問題(工学・経理事務など)開決への応用利用などにも取り組んでいたので何の躇らいもなくチーム編成・モデル開発をスタートし、一年後には本社で基礎モデルの発表と、全社ベースでのチーム編成に漕ぎ着け、二年後には全社チームによる赤穂工場ワンマン制御化を実現させました。

当時既にコンピュウターによるワンマンコントロールを実現していたのは秩父社と日セメ秩父工場二工場のみで、制御はIBM・富士通のアナログ方式を基本とするものでした。これに対しNEC方式は飽くまで完全ディジタル制御方式を目指していたのですが、当時は未だディジタル方式は初期段階でアナログ制御に比し動作応答が遅いのが欠点でしたが、その後のデイジタル制御動作の急激な超高速化に伴い結局は大変な優れものとして高い評価を得るようになりました。結果は生産と品質制御の高度化と五百名の従業員が八十名に減員され、余剰者は研究スタッフとしてフルに研究所などで活躍することになったわけです。然し当時は未だ大型コンピュータの時代でした。

パソコンとの付合いは五十六歳の時に始まります、病気で休養中だったのですが各地でパソコン教室が開催され、暇なので取り組んだのが病みつきの始まりです。当時はインストラクションが全部英文で、プログラム書き込みの作業ですから、小さな表一つ作るのに半日もかかってしまうと言う苦労でした。でもそれなりに大変楽しかったです。その後ワープロ機能(一太郎・ワード)習得に始り、数値制御ソフトとしてロータス123、エクセルを、プログラミング技法としてアセンブラー・コンパイラー・C言語等々と何でも挑戦し、今やインタネットでブログの検索に嵌っているところです。最近の業績としては病院の禁煙会の名簿管理と入出金管理のエクセルによる統合管理化に成功しました。

③ハイキング紀行と鶯の谷渡り(実はサービス)
五十六歳で高血圧と狭心症で倒れたのを機会に健康の為に生活を変えねばと真面目に考えるようになり、以後禁酒・禁煙・ハイキング・食生活の健康化に取り組んだお陰で大分健康を回復しました。ハイキングは七十代前半まで白馬・霧ヶ峰・奥日光・箱根・紅葉台・軽井沢その他東京近郊丘陵地など出掛けましたが、特に尾瀬には毎年のように二泊三日で出掛け、通しで六〇~七〇㎞を三〇㎏位のリュックを背負って歩くわけですが、その桃源郷か極楽かと思えるような自然の美しさを満喫出来ることが素晴らしい喜びでした。

ところで不思議なのは鶯のことなのです。尾瀬でハイキング中は勿論、塩尻の山中ロッジ、軽井沢の森林中ホテルでも昼間は勿論ですが場合によると夜でも人の気配がすると、綺麗に然も繰り返しあの美しい囀りを聞かせてくれるのです。尾瀬では里に入り込むややがて始まります。私を待ち受けるように始まり送り終わる頃にはいつの間にか消え去ります。“あゝ行ってしまったなあ!”と名残を惜しむ頃、なんとそしてまた新たな一羽がまち受けたように鳴き始めます。こうして次から次に、ずっと峠を超え、次の宿に近づくまで続き、やがて聞こえなくなるのです。

それにしてもなんて鶯が沢山いるんだろうと内心感心していたわけですが、さてそんな折塩尻の管理人に「よく鶯が鳴きますね、夜でも鳴いていましたよ」と話しかけると「ええ、鶯は人の気配がするとよく飛んできて鳴きますよ!餌が欲しくてね」と仰有るではありませんか?そして尾瀬でもロッジの娘さんに教わりました『鶯は人に餌をねだってよく追って来るんですよ』と。何か一寸ロマンチックになりかかってた思いに『ザー』と水を掛けられたような気分になりました。夫れは兎も角、鶯の響きには我が第二の人生へのスタートとなった最大のスペクタクルー岡谷の田園生活―への思いが込められていて思わず涙が出そうです。潤いに溢れて里に響き渡るあの鶯の、そして小鳥たちの、郭公達の歌声こそ私の第二の人生への出発を最高に祝福し背中を押してくれたものとして生涯忘れられないのです。

④ゴルフ
浜松工場では事務課長・工場長に手ほどきを受け汐見坂などお供をしたり、生産課長とはしょっちゅう打ちっぱなし練習に出掛けたものでした。従って彦根に転任するや早速ゴルフ場会員になり、工場長次長からもさかんに奨められていざ始めようとしたのですが、なんと、とんだ横槍が労組幹部から入りしばらく止めてしまったのです。曰く『工場がこんなに大変なときにゴルフですか?』と爾来何度か再開しようと考えたのですが何となく気も進まない儘に止めてしまって今日に至ります。

⑤歌舞伎・落語・文楽鑑賞の楽しみ
家内の故郷、井伊谷は横尾歌舞伎で有名です。妻の祖父も義大夫三味線の奏者で、その三味線は地元歌舞伎会館に保管され永く記念とされています。地元の人々の間に代々受け継がれ、毎年地元で歌舞伎公演するのみでなく、子供歌舞伎も含めて地方公演にも招待され、上演したり益々盛んです。家内の弟も世話役をしていますが、会長はもとセメント工場の社員だったりで、先日の子供歌舞伎の横浜公演では、五〇年ぶりで町長はじめ地元関係者に懐かしくも出会いました。

私達も東京に住んでからはよく招待券を貰ったり歌舞伎座株主招待で歌舞伎座、国立劇場での歌舞伎とか、文楽を観に毎月よく出掛け、お陰で幾分かは内容とか役者のことも解ってきたところで、玉三郎、美津五郎、団十郎、勘三郎などが特に好きな俳優です。最近耳が可成り遠くなって、台詞がよく解らないことが多くなったりして、台本と首っ引きで観るのですが、台詞がよく解る反面、可成り疲れます。横尾歌舞伎では従来より猿之助一座が贔屓で、衣装類・小道具など総てを一座澤瀉屋(おもだかや)から購入している訳です。横尾歌舞伎の世話やき連中も澤瀉屋に頼んでは切符を入手しよく観に来ているようです。関連しては落語研精会の招待券も毎月頂き、国立演芸場の落語も私共贔屓にしています。気晴らしには最高です。

⑥映画気違いは小学校以来―毎週映画を鑑賞
(特に外国映画は子供の文化水準・視野を高める)小学校の頃から映画は飯より好きな方で、殆ど小学校から中学初年級までは毎週一回位の割で通い、特に外国ものでは感動したり筋がよく理解し難かった時など二回も三回も続けて観に行ったものでした。お陰で日本人と外国人の習慣・表現法、・文化水準の違いなども、いつの間にか身について覚えたと思います。当時日本映画は西荻窪にも封切館があり、あんまり私が頻繁に観に行くものですから、切符切りの娘さんに覚えられて、“まあ!あんた好きねえ!”と言われて一寸恥ずかしいやら嬉しい思いをしたものでした。洋画は近場では高円寺のオデオン座もありましたが、まあ何と云っても武蔵野館が最高で、兄貴達が興奮して月刊の映画雑誌「スクリーン」を見ながら、アメリカ映画女優などの評判しているのを片耳にしては、浮き浮きと口実を作って出掛けたものでした。中学生になっても相変わらず武蔵野館通いは熱心で、新宿予備校をさぼって映画を観に行ったときは、兄にパンフレットを見つけられ家中からすっかり絞られたものです。


(8)退職後の人生

①病院禁煙会長として
七〇歳で退職した時点で東京衛生病院より健康教育部禁煙講座OB会の会長就任依頼がありました。衛生病院とのつき合いは、前にも触れましたが大変古く、小学校三年の時に、当時、天沼教会アメリカ人牧師の奥さんがドイツ人で、東京衛生病院看護婦長をも兼務されていて、第一次世界大戦下の銃後ドイツ家庭の苦労話を拝聴しに通ったことが縁の始まりですが、直接は五十六歳にして狭心症と高血圧で倒れ、健康な生活習慣に切り替える第一歩として当病院の禁煙講座に参加したことに始まります。以後OB会役員を務め時々講座のバックアップに参加していたわけですが、前会長の退陣と言うことでOB会役員・病院理事会よりの推薦を受けた訳です。

禁煙講座は昭和四一年導入された米国方式を基本とする『五日でたばこをやめる禁煙講座』と云う長ったらしい名前の禁煙法ですが、以来四〇年間の伝統を背景に、積極的な自主受講を建前とし、老若男女分かたず、医師団、牧師団、OB会役員の三者の指導により、五日間の講座期間とフォローアップ会を経て九五%の成功率と会員として一生の禁煙持続の指導を主旨としています。会長としてはコンピュータによるOB会運営の合理化、講座の成果改善に病院と協力、組織としては顧問として病院院長始め関係医師団、会長、複数副会長、役員、会員の構成で、会報発行、講座推進協力、定期役員会、総会の推進などです。

一口に言ってボランティア活動ですが、精神的にも寧ろ自分自身の健康と長生きに大変有効な活動となっています。私はクリスチャンではありませんが病院は天沼協会と共にアメリカSDA教団に所属する世界的な組織下で運営され、主要医師、看護師、牧師は総てアメリカSDA専属ローマリンダ大学病院研修の派遣者で、大変信仰心の厚い人々により構成され、そうした方々に囲まれての仕事です。OB会推進上最も接触多いのは健康教育部ですが、婦長は協会パイプオルガン奏者として一流ですし、協会聖歌隊のリーダーでもあります。彼女が玉を転ばすようなソプラノ調で話しかけるとき、人々は癒され安らぎを覚えるのです。ですから病気も早く治ってしまうというわけです?

②中学母校の校友会運営参加
最近母校日本学園の校友会である『梅窓会』の再建問題を含めて毎月運営委員会に参加しています。もう私達も歳ですから、次の世代を担う若い運営委員の方達には、柔軟でしかも厳しい改革路線を説いている訳です「改革はコンピューター活用による数値管理と合理性を柱とすべし」と説いているのですが中々理解を得られないのが悩みです。会運営をコンピュータ管理で一元化し、これをベースとして会員の動向、意思など総てをデーター化して読み取り、今まで見逃していた問題点を浮き彫りにして有効な手を打つ訳です。しかし数値処理の経験が無いと『ピンッ』と来ないのでしょうね。困ったものですよ!《総じて改革ともなれば、心身・能力共々歳には殆ど無関係に、ただただ実行するか否かのみ帰すると!!》


(9)我が人生とはー総括―

私の人生が色濃く父の影響を受けて居るのは当然のことなのかもしれません。私は三井の街大牟田・東新町小川の傍の社宅に生まれました。父は若く三十二歳で三井電化の石灰石及びその分析部の仕事に取り組んで居たそうですし、三井を辞めて東京に出てからは、平凡なサラリーマンであるよりは、意識的に社会事業家としての生き方を選んだようです。このことは私の人生にも可成りの影響を与えたと思います。 

父が言い続けたように、如何なる時も先ず正論を通すべしと。威嚇する者とは闘わねばならないと。その為には力を持たねばならないと。学問も大事だが知恵はもっと大事だと。この言葉は永く私の人生の各場面で胸の中に囁きかけてきたと思います。予科練への道を選んだときもそうでした。戦争が終わった時、岡谷の地で敗戦を思ったときも然りです。就職に際しても、結局石灰を主原料とするセメントで仕事人生のスタートを切り、結局鉄鋼でも石灰との縁が切れず最後まで石灰との付き合いで終わったことは、父が三井で石灰関係の仕事をしている時に私が出生したことと、何か符合する因縁深さを感じます。

日本が米国との経済戦争に負けたのは、彼の国のダム建設に始まる産業復興に依ると云われますが、敗戦の悔しさを胸に抱きながらも、荒廃し尽くした国土の復興期にセメント会社で、先ずダム用セメントの製造を担当し、「これで良い」とし、結局退職の最後の日までそれを契機とする多種特殊セメント、原子力放射線遮蔽並びに廃棄物処理用セメントに到る特殊品類の開発・製造専門屋として国の再建に終始し寄与したことを思うとき、此処でも二重に因縁めいたものを感じます。

冒頭この自分史は反省を込めて一筆一筆と書き始めて、それが私の人生を振り返り、掘り起こしていく素晴らしい動機となりました。一体何が掘り起こされ、それが私の人生にどういう影響をもたらし、そして残された人生は一体どういうものになるのか?など様々に思い反省し書き進んできたのですが、そして今やっと大事なことに気がついたのです。大切なことを忘れていたのです。この歩んだ永い人生の数々の場面を振り返る時、深く考えもせず反省も無しに通り過ごして来たことがなんと多いことか!《時は帰らず》と言われますが、それは嘘です。より深く思うとき、過去もこれからも現実のものです。

今更と呆れる思いですが、兎に角やっと気がついたのです。全く迂闊な話です。出生に始まり、幼少時代を、そして海軍での燃える思い出、岡谷に始まる敗戦からの立ち上がり、それをバネとした光と力強い青春に満ちた学生時代、闘いと建設の会社生活、一生で一度輝いた流星の一閃、病気に挑戦してがむしゃらに山野を歩いた年月、更には敬虔な教会信者・医師に囲まれ、癒しに満ちた病院でのボランティアの日々、こうしたなかで『様々な出逢いと別離の場面、旅した国内外の遙かな街々と山野への数々の思い、等々と次々の思い出を拾いながら今一度それらの地を訪ね、見落されものを自分自身で再度確かめ、叶えられる事なれば世話になった方々と久闊と感謝と別離の挨拶を残したい』と、この一生をより深く掘り起こしてより真実の人生を再発見する。かくして、亡くなった友、先輩、そして冥土で待っている父にもやがて出遭うのであれば、その時こそ胸を張って「我人生かく生きたり」と物語りたいものです。父が『結局儂の掌の上で転がって終わりだったじゃないかね!』と云うなら『“親子だからね』と、それで勘弁して貰う積もりです。ですから、我が人生は?の終章は、この未だ今暫く続くであろう巡礼の旅が終わるまでお預けとさせて戴きたい願う次第です。  


                 



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<未完成のこと>

①健康に生きるために補弼しておきたい事

私は本来海軍で鍛えた頑強な心身を持ち、故に他より少なくも十年は長生きできると信じていた。事実二十五年前狭心症で倒れてからも、一年にして回復し、毎年尾瀬に旅行する程元気になったのだ。ところが、ここ二年ほど急激に脚の痛みから老化が感じられるようになり僅か毎日の日課である一駅散歩すら億劫で疲れが酷く感じるようになってしまったのである。『人生終わりが見えてきたのかな?そんな馬鹿な!』百歳を目前にして亡くなった義父の椅子に座った儘の大往生の姿が目の前に浮かびます。『そこまで生きなきゃ!』と。そんな時、二十数年来つき合いの整体術師に久し振りで全身を揉んで鍼をして、更に首、腕、足を引っ張って(整体術で)貰いながら、「普段動かさないところを動かすように!」と忠告され、これを実行始めるや、何と脚は軽くなり腰も可成り楽に曲がるようになり、若返ってきたのです。「使わない筋肉を動かし刺激しなさい!」と。今一つは就寝時に足を温めたことです。これは有効です、一ヶ月足らずの間に足が軽くなったことと並行して、血圧、血糖値、コレステロール値もどんどん下がってきたのです。今一度元気に尾瀬を目指して復活するのも夢ではありません!旅行をしよう!外国に行こう!元気が出てきた!と言うことです。

②心豊かに生きたいこと

身の回りに祖国・人々を身近に感じて生きよう。身の回りのもの事を漠然とでなく明快に数的に把握する。事象は多面的に把握する。お陰で幸福感が高まり、身の回りが美しく輝きだし、お陰で素晴らしい人生の展開が予感される。言葉に毒を含んではならない、薬になる言葉で人も自分もいやされる。薬になる言葉とはー令え恣意的な裏切りに遇おうともその一言により癒される言葉。


③今暫く生きて社会に尽くしたい事

千年万年後に価値あるものとして残るものがあるとすれば、それは何なんだろうか?本当にそんなものがあるのだろうか?と、そうした生き方をやりたい。それは仕事、趣味、或いは奉仕と何であれ、心改めてじっくりと踏み出す一歩としたい。それは自分でやるしかないし人に助けを求めて出来るものでもない。そして最後にあの世で自分が誇れるものとしたい。さて、最後に、《夫である私の幸福こそ自分の幸福》として、永く私を支えて来て呉れた妻に感謝の意を表し終りとします。           ―おわりー


(10)補筆:戦艦陸奥の爆沈と中学友人の原爆被災のこと

それは昭和一八年六月八日一二時一〇分の事です。折からの濃霧の中、広島(江田島)南方沖の柱島泊地に繋留中の戦艦陸奥が原因不明の爆沈し、乗組兵員中一千百二十一名は即戦没、更に生存者三百五十三名並びに関係者達も引責で間もなく南方サイパン、トラックに転出し、その九割の方が戦死という悲惨な運命に翻弄されたことはあまり知られていません。当時、事件直後に徹底した箝口令が布かれたからです。この事は後に、サイパンから奇跡的に生還した四十名の方々のお話から漏れ伝えられました。更に昭和二〇年八月六日には原爆投下により広島では壊滅的な被災者が出ましたが、そうした悲惨な運命に翻弄されたこれは私の中学時代友人の話です。勿論戦後に三回ほど彼を訪ねて広島に行ったおり話しを聞いて初めて知った事実ですが。

そもそも彼とは中学二年(昭和十五年)のとき隣席同士になって親しくなり、陸軍官舎の彼の処もよく訊ねるようになったのです。彼は陸軍憲兵少佐の長男ですが、何故か軍人を志望せず技術系大学に行く様なことを言っていました。そんな彼が昭和十八年三月父君の突然の転属に従い広島に転校したのです。当時戦艦陸奥爆破のスパイ活動情報が流れ、父君はその防諜活動と主犯者逮捕を任務として広島憲兵隊長として転属されたわけです。呉市寄りの東側官舎に住まい、父君は憲兵少佐として毎日乗馬しての呉市警戒で出務だったそうですが、八日の戦艦陸奥爆沈の責めを負って、やがて南方に転出、間もなく戦死されたとのことでした。  

結局林君はご母堂と三人の妹弟を抱え遺族の暮らしを余儀なくされる中、昭和二〇年八月六日正に原爆を被爆したのです。朝八時一五分その時彼のご母堂は家(京橋川沿い爆心地より二㎞)の玄関前で、例の原爆ドームの方角に面して祈りをし、当人林君は家の裏手の井戸端で歯磨き洗面中だったそうです。彼は奇跡的に何一つ被爆の影響もなかったのですが、ご母堂は玄関庇の倒壊と被爆で即死されたのだそうです。幸い弟妹さん達は丁度学校疎開先で不在の為原爆被害を免れたのですが、黒い雨が降りしきるその晩、彼は泣く泣く一人で側溝を使ってご母堂の遺体焼却荼毘を済ませました。翌朝弟妹も疎開先から帰着、呉市在住の叔父が川沿いに船で救出に来られたので、一家共々船で下り、ひとまず叔父宅に身を寄せたそうです。とは言え早速一家世過ぎの責任が僅か一八歳の彼の肩に懸かって来たのです。彼は中国電力に出掛け作業員として潜り込み、以後中国電力職員として勤めを果たしながら、一家の生計妹弟の一切の面倒、家族全員の結婚に至る総てを裁量したのです。彼は幸い原爆の被爆被害もなく奇跡的ですが今も健在です。広島にお寄りすると、彼は車を駆って何日でも広島中及び周辺地を総て案内してくれるのです。得難い人です。まだまだ元気で山登りだ町会の世話だと駆け廻っているのです。静かな笑顔を絶やさずに!

-後日譚-

さてその後日の事ですが、私共夫婦は、林夫妻と旅先でですが、不意に出会うという事がありました。私と家内が奥日光の旅先、竜頭ノ滝傍のホテルに宿泊したときの事です。家内は早速温泉浴場に出掛け、洗い場でいつもの癖ですが隣の方とお喋りを始めたところ、何とそれが林君の奥さんだったわけです。お互い全く初対面で写真でしか知らない仲の筈にも拘わらずですが。やがて顔を興奮で紅潮させて飛んで帰ってきて曰く「広島の林さんご夫妻が隣の部屋に宿泊されてるんですよ!」ときたのです。

宿が公務員用旅館で私も会員登録で普段からよく利用していたし、林君の方も長男が広島県職員でその家族としての利用で偶然の邂逅となった訳です。お孫さんと一緒に日光旅行中とのことで、その晩はお互い家族のことなど様々の苦労話を重ね、翌朝林夫妻は金精峠経由で尾瀬に、私達は日光経由で霧降高原の日光キスゲ観望と云うことで再会を期し右左にお別れした次第です。お互いこの奇遇には驚くやら懐かしいやらで、当場では「これが本当の裸のご縁と言うことですかね」と。話したことでした。

それにしても、これに類する出逢いには其の後も時々ぶつかったことがあります。例えば遇うのが嫌な人とか、不思議に思い出して懐かしがっていたりすると、出先(トイレの手洗い、電車の中、旅先等々)でフイにご当人に出会って仕舞ってドキ!としたりします。 また、研究に燃えるような思いで没頭し手探りしている最中、不思議に涙が出るほど今の自分が求めていた文献やら暗示に出会うことがあります。こうしてみると、この世諸々の「縁」とは、『人お互い生きる執念のようなものが為せる技か?』などと想えてくるのです。その様な時こそ一層、生きる感動に胸を打たれます。

                                                          完



2013年4月26日金曜日

人生と出逢い 第8回「本社リサイクルセンター開設」


堤健二(昭和19年卒 日本中学校卒)

()本社に資源リサイクルセンター開設

1.セメント産業は再資源化事業の本命?

a.リサイクル業務への馴れ初め
セメントの主原料は石灰石と粘土ですからメーカー自社で鉱山を確保し調達しています。一方セメントの品種により要求される原料品種も異なってきますから、これらを総合的に調整するため種々添加材が有効に使用されます。例えば 珪石・鉄滓・蛍石・石膏・リグニン類・チタン等々で、これらは従来有価の購入品で賄っていました。ですが輸送手段が貨車からトラック・船舶に変わり輸送費の低減に伴い、工場立地も石灰石・粘土の産地(山寄り)最寄りから、寧ろセメント出荷上でもより合理的な港湾最寄りに変わりました。セメントの添加材も購入品からリサイクル品活用に重点が変わり、更には各種廃棄物の経済的なリサイクル(発生者側で極力無駄な加工手間を掛けない)に活用方針を改訂拡大し、経済性と共に社会貢献をも重視する方向に重点を置くようにしたのです。結果は発生者も従来の莫大な前処理費を節減でき国家的にも省エネ効果は絶大なものとなります。今日東日本大災害に依り発生した大量の廃資源処理には、東日本のセメント工場は刮目すべき役割を果たして居るのです。

b.パルプ廃液
入社して三ヶ月位経った頃ですが、静岡県用宗の巴製紙工場のパルプ廃液につき調査を命じられたのです。セメント粉砕助剤として有効か、経済効果は、発生状況は、現在の処理状況は?などですが、結局調査結果はセメント分散効果のないアルカリ廃液で、原料粉末の造粒剤としては使えるが粉砕助剤効果はないということで終わりました。しかし私にとっては他産業との接点としてはこれが初めての経験でしたし、製紙側担当課長の親切な対応と助剤効果についての他の製紙会社データ、参考文献まで用意して戴くなど、以後特殊セメントへの取り組み、更には将来リサイクル事業を進展させる際の大事なワンステップとして貴重な経験になったことは間違いありません。浜松工場に転勤後、レポール式では半湿式の原料造粒前処理にアルカリ性亜硫酸パルプ廃液添加が有効で、東洋紡犬山工場の廃液を随分有効に利用し、更に酸性パルプ廃液の方は粉砕助剤としてセメントミル用に活用し有効でした。

戦後最大の重力ダムとして建設された五十里ダム

c.珪石系添加材(中庸熱セメント用)
大型ダム建設にとって、コンクリート打設初期(三~七日間)の硬化反応に伴うダム擁壁内発熱・膨張・亀裂発生は最大の敵です。湛水開始して三ヶ年以内で発生するダム崩壊は多くこれによると当時指摘されていました。昭和二十七年当時建設中の五十里ダムは日本でも戦後最大の重力ダムで、勿論建設局側としてもこれに最大の神経を使っていたわけです。この為冷却管の効果的配管とかコンクリート混和水に雪・製氷を使うなど大変な手間と経費をかけていました。そのためセメントを納入し始めた初期段階で“今少し水和発熱を抑えて欲しい”との現地要請があり、成分上珪酸率を上げるため軟質・高純度の珪石配合が必要になり、結局愛知県高蔵寺(瀬戸多治見地区)辺りまで珪石のサンプリング調査に出掛ける羽目になりましたが、結果は以後浜松・多賀彦根工場孰れでも特殊セメント用としてこれのお世話になる事が終始多かったものです。

2.リサイクル新事業展開

彦根多賀工場五年の任期を終えたところで、東京本社転勤ということになりました。本社辞令受取りに先んじて先ず新業務内容について、当時本社技術担当筆頭役員であった小川専務から概略構想に就き一報あり、後に手にした本社よりの転勤辞令の内容はと言うと

a.本社に資源リサイクルセンタ設立
『本社リサイクルセンタ長を命じ、併せて東京支社、大阪支社技術担当を命ずる』と何とも妙な辞令なんです。第一にリサイクルセンタなるものなど当時本社には存在していないのです。結局転勤辞令を受け取る直前二度目の、本社小川専務(東大応化出身で私の入社以来の親分筋にあたる)からの電話による説明では、『これは社長提案の新事業で、先日役員会で決定したばかりなのだが君が担当推進することになったのだよ。実は今年通産省では、既に欧米で先行実施中の【廃棄物資源サイクル法立法化】が進められることになり、これをうけての社長提案だが、うちの全社リサイクル業務を本社で統括し、本格的に展開する意味で【本社リサイクルセンタを設置】し、君にセンタ長になって貰うことになったのだ。だから運営総て君の好きなようにやって結構だよ、何時までもドサ廻りでもないからな』と台北下町育ちを自称する専務は呵々大笑したわけです。東京支社・大阪支社技術担当云々の部分は、事業が全国展開であり、支店の相談・協力も得ながら営業網を使って全国各地廃棄物発生状況・業界ニーズ等情報網をとり易いよう配慮されたというのです。全国工場、支店、販売店網総てを総動員してリサイクル業務に協力させようという訳です。事業スタート当初の所員は先ず課長以下僅か数名配置とし、主要方針は・・・

 捉まえ処が無いようでも先ず情報・現物の収集から総当たり的に実施。処理については本社・  研究所・工場が責任以て全面協力する。
 通産省、地方省庁、産業界の協会・組合・地区会と連携し省庁・業界情報をとる。
 廃棄物処理業界の主要業者と連繋して発生品目と輸送手段リストを作りながら即住友全工場に於ける有効処理に繋げて行く。
 海外特に欧米の再資源化及び低開発国の副資源情報を入手しグローバルな連係を展開する。

と自分で勝手にですが、以上の方針をたてて昭和五一年より五五年の五年間で取り組み達成した成果は・・・

珪石:大量の石灰石粘土に少量の珪石と鉄滓をそれぞれ細かく粉砕して
混合した後、焼成するとセメントクリンカーを得る。
これを少量の石膏と混ぜて粉砕することでセメントができあがる。

b.主要全工場に総合リサイクル設備導入
社内主要工場(青森県八戸、福島県田村、栃木県栃木、岐阜県岐阜、兵庫県赤穂、福岡県小倉の六工場)に湿式並びに乾式リサイクル専用設備を新設し、全国で発生する副原料・添加剤・油泥系廃棄物・石灰系廃棄物・粘土系廃棄物・鉄滓系廃棄物・廃タイヤ・脱硫・廃型・化学石膏など年間約五〇万トンの副産物・廃棄物活用処理による約七億円の純利潤を創出。通産省・業種別協会・組合等のバックアップを得て、廃棄物発生主要各業界全体の経費節減に寄与する処絶大な成果を挙げ得た。

そして以後四十年間経った今日、その処理設備・処理技術のスキールアップと共に、この事業は省エネ省資源という面からも、セメント本体事業を大きく支えると同時に、国の環境・廃棄物処理という拡がりに於いてもまた絶大な効果を挙げております。昨年、彼の東北関東を捲き込み壊滅的とも云うべき災害と処理すべき膨大な廃棄物の山をもたらした東日本大震災復旧処理にも、セメント業界は今やおおいなる貢献を果たしていると聞きます。

c.官民協同リサイクルプロジェクト事業展開
①通産省、科学技術庁(新技術開発事業団)、通産省第三セクター(クリーン・ジャパン・センタ    ー)、兵庫県商工部、民間企業(神戸製鋼・三菱重工等)と組んでの官民共同プロジェクト展開。
   当社赤穂工場立地:タイヤリサイクル事業部
     製品:B重油・ゴム用フィラー           
② 当社赤穂工場立地:油泥再生プラント
     製品:船舶油泥/B・C重油・スラッジ

しかし好い事ばかりと云うわけにもいかず、本事業推進途上で当社主任研究員T氏(私と同期入社)が六価クロム処理研究中クロムガスを吸引する事故犠牲となったのは返す々々残念なことでありました。彼は一風変わった人で、私と同期入社だが四歳年上、非常な勉強家で東工大窯業科卒業、更に一級ボイラー技士、一級建築士資格を持ち、磐城入社試験では一次筆記試験合格後、本社での口頭試問の際に名前順の関係で、私のすぐ前に待機していたが、役員室に呼ばれる前、密かに私の耳元で囁いて曰く「貴方は若いが私は歳なので合格を私に譲って欲しい」と、飛んだことを言う人だと思いましたが、兎に角お互い目出度く合格入社し、彼は研究所勤務中特許も多数申請、会社への貢献度も高かった人ですが少し計算高く現実的過ぎた様。それにしても「ご自身の寿命についても今少し計算高くできなかったものかなあ?」としみじみ思った訳です。

d.欧州旅先で父の恩人との出遭い
三菱重工主任研究員と国際会議出席で欧州旅行を共にしたときですが、そこでドイツのデュッセルドルフ三菱支店に案内して貰ったのです。彼は本社の意向で、三菱社油泥再生リサイクルプラント関係では私のプロジェクト担当だったわけです。仕事打合せ終了後雑談に移り、お互い出身地など話していたところ、何と彼が久留米藩「有馬家」のお孫さんだというのです。実は私の父も久留米出身であり、東京杉並在住時代には「有馬家」には大変お世話になったことなど、偶然の邂逅に驚きながらも懐かしく改めて杯を重ね交わした次第でした。以後大変親しくなり、パリー、ドレスデン、アムステルダム、ロンドンと行を共にし、以後、私達と三菱重工との共同プロジェクト推進では彼が窓口になって貰い、赤穂油泥プラント設置・稼働実現に至った次第です。

ドイツ・デュッセルドルフ  クリックで拡大

3.原子力廃棄物処理技術開発
(東海村原子力研究所との共同開発事業)

①低レベル放射性廃棄物の保存・固化技術・専用セメントの開発(社員派遣)
②台湾原発向け同上技術の共同開発と現地見学及び打合せ
③岡山県人形峠核燃料開発事業団における燃料滓固化剤開発
④台北市廃棄物固化剤開発

東海村高・低レベル放射性廃棄物処理研究と被曝問題
原子力廃棄物処理開発では東海村に研究員常時二名を交替派遣(放射能被曝予防措置)の方式で進めましたが、研究員は厳密に二年間毎の交代制としました。高レベル廃棄物処理はガラス固化体性能試験、低レベル廃棄物処理はコンクリート密閉専用容器性能試験で、東海村原研研究員との共同研究方式です。

実は原研の熱心で優秀な研究員ほどやがて白血病に冒されるとの事前情報もあり、当社派遣研究者には放射能取り扱いには呉々も注意させていたし交替勤務厳守を原則としていました。また私達が原研に出張打合せの時は必ず会議に出席していた村越原研所長も、口ではくどいくらい危険性を指摘していたにもかかわらず、後日やがてご自身『白血病』で亡くなられてしまったのです。所長は会議の後など私達を実験用発電炉、研究所、大洗反応炉、低レベル廃棄物一時貯蔵所などとよく案内してくれましたが、そうした時も貯蔵所に関しては百メートル程手前ではぴたっと立ち止まると、それ以上はもう決して近づこうとしませんでした。それほど要心を重ねて居られた人でも、結局白血病に冒されるのかと改めて放射線の恐ろしさを実感しました。    

茨城県・東海村原子力研究所

在任中は当社事故者も出なくてやれやれと一安心でした。もし皆さんの知り合いで優秀な人が原子力関係の業務に就くという場合は呉々も注意してあげてください。魅力的な業務ですが危険極まりない代物です。日本には原子力発電所が五十五ヵ所、フランスにも五十五ヵ所、ドイツには八ヵ所、台湾には四ヵ所ありますが、総て海岸または内陸では大河流域に設置されています。何故でしょうか?水に流せばよいのでしょうか?恐ろしいことです。ドイツでは二〇三〇年までに原子力発電は一切廃棄することになっています。発電により発生する核燃料廃棄物再生燃料の国内輸送を一切住民反対で法的にも禁止することになったからで、事実上発電継続が不可能になったのです。以後原子力利用見直しは各国で広がっています。原子力廃棄物処理開発に取り組んでいた私共に密かにこういう話が囁かれました:―
『一人の人間が再処理燃料プロトニュウムを1グラム懐に持って地球を1ケ月間・一巡するだけで、地球上の全人類を即時絶滅することが出来る』と。

b.台湾原子力発電所にて
台湾側要請で東海村主任研究員・下請け処理業者と我々住友側担当三名、計五名のチームで台北空港経由台湾原発に入ったのは昭和五五年七月のことでした。じりじりと暑い日差しの台北空港Vルート(無審査)より出て先ずホテルに向かい始めるや、いつの間にか台北市長が同乗する我々リンカーンの前後は、物々しい軍用車二両に挟まれて護衛される形で走っていたのです。ホテルでの飲茶の軽食を終えるや早速出発です。

本社リサイクルセンタ時代・台湾原子力発電所
水力ダム発電所へ出張(左より5人目が堤氏)

ホテル前を出る時は例の軍用車はいつの間にか姿を消していましたが、台北市内を抜け北海岸に向かうこと約三〇分、あっという間に脇道より四両の機銃装甲車輌が現れ、鬱陶しくも前後を挟まれて走っていました。軍用道路だったのです。やがて台北の北海岸金山第一原発の物々しい通用門を通過して庁舎に入ったわけです。予め同行者からは原発内では中国語は絶対使わないよう忠告されていたので専ら日本語で挨拶していたのですが、彼等も中国語はあまり使わずに殆ど英語で会話してくるのには何とも奇妙な感じでした。後で聞いたのですが連中は100%米国原子力研究所で教育を受けていて用語は総て英語です。何か米国の属国に来ているような錯覚を覚えます。一応台湾の原発関係者との低レベル・高レベル廃棄物処理説明・打合せは英語主体であとは本島人(北京系は肌色が白くてぷくぷくしていますが本島人は肌色が褐色で痩せ型:日本語が良くできる)の日本語通訳を介して無事終了しました。

台湾原子力発電所パンフレット(1981年)

打合せ後の原子炉、廃棄物処理設備等々見学中に建屋の間からとか、見学が終了後に海岸を走っているとき左側台湾海峡の彼方に中国本土が灰色に煙っているのが見えた様な気がしましたが、何で原発を中国本土側にわざわざ建設するのかと複雑な感慨に耽りました。その後、国聖第二原発(台北の北東海岸),馬鞍山第三原発(台湾南端)、龍門第四原発(台北東部海岸)と増強されていますが最近増設反対運動も起きているとか聞きます。原発から帰って台北では産廃固化剤の説明,建設中の淡水大ダム見学とダム専用セメント及びコンクリート品質仕様と管理方法についての講演、最後の晩は電発総裁・ダム建設所長・台北市長といったお歴々と北投温泉での交歓会を持って締め括ったのです。

台湾・北投温泉

c.大飯原発用セメントの開発納入
私が多賀・彦根に転勤して間もなくでしたが、関電よりの要請による『福井県大飯原子力発電所反応炉本体構造物、及び放射性廃棄物貯蔵所用の放射線防護セメント・コンクリート仕様・設計説明並に一週間に亘る現地立会試験を実施する』との通達を承け、大飯原発に泊まり込み一週間の出張となったわけです。夜は美浜のホテルに泊まるのですが、三方の海岸に早朝集合し、冷たい朝風を突いて出発、帰りは夜遅く半島先端の建設地点から原発専用ランチで往復という試験立会一週間は可成り厳しいものでありました。立会テスト当初は敦賀セメント社・大阪セメント社との三社共同入札を謳っていたが耐放射能高密度・高強度コンクリート仕様では結局性能競争で勝負は付き、全工事とも当社セメント仕様とコンクリート設計で実施と決まってしまい、敦賀社、大阪社は当社品代替え納入となったのです。

福井県・大飯原子力発電所

一般には放射能としてはα線・β線・γ線・中性子線があるのですが、遮蔽の点では透過性の大きなγ線と中性子線対策に重点が絞られコンクリート中に磁鉄鉱・鉄片の混入また中性子線にはコンクリート配合水比を大きくして遮蔽効果を上げるわけです。炉体はマスコンクリート並みに中庸熱セメントとする。β線の透過力は小さいが炉体近辺での作業者の被爆防止を考えなければならず“放射能飛程”対応のプラスチックコンクリート複合体が有効なわけです。α線は透過能力は極めて低く紙被服程度で防げるので対象にはならなかった。また放射性廃棄物貯蔵所防護壁用としては線種を考慮し厚み45cm65cmで現地原発側でテストすることとなった。以後数年に亘り大飯第一・第二原発に対応することになったのです。

さて美浜の宿で一寸面白かったお話しをします。それは毎朝宿を出るときですが、仲居さんがその都度『今日は魚か・肉か・揚げ物かなにが好いですか?』と聞くのである。そこで例えば『肉!』と注文しておくと、夕時お膳について吃驚するわけです。広いテーブル満杯に牛肉の口付け刺身から焼き肉・すき焼き・鍋・茶漬け迄総て肉料理で、はみ出した分は二ノ膳と盛りつけてあるのです。そこで聞いてみると、総て当日中の仕入れを原則とし、肉は本場舞鶴まで出掛けて神戸牛の一番好いのを買ってくると言うのです。魚貝類は敦賀・小浜迄買い出しだそうです。そして一週間というもの手によりを掛けて毎日違ったご馳走を頂戴し、然も宿泊逗留費は都会地の半値と言うのです。出張旅費がすっかり浮いて悪いようでした。

d.国際リサイクル会議に参加・発表
当時EUにおけるリサイクル活動はドイツを中心に大変活発で、リサイクル法施行とそれに基づくEU内連携事業化は日本より約三〇年先を行き、処理技術においても一〇年の長があると云われ、日本でもリサイクル法の早期立法化は産業各分野からも強く望まれていたわけです。ですから当社でも今回の廃棄物法の立法化を踏まえては率先してリサイクルセンタを発足させ、EU各国:スイス・ドイツ・フランス・イギリス・オランダ各担当官庁・機関とも廃棄物処理技術の交流発表と技術交換を積極的に進め、一九八一年東京リサイクル会議では議長団としても参加し、会議参加者対象の見学会は当社最新鋭赤穂工場リサイクル先端設備公開で主催するなど、通産省並びに地方公共体との連係下で推進する役割を強力にPRしました。赤穂のテーマは下記の通りで各国会議参加者に大きく評価されました。

【1】
①冷却用熱エネルギー極限利用を可能とする特殊設計クーラー開発。
②キルン廃熱の極低温熱回収交換機・低温発電設備。
【2】
広範に亘る各種油泥,廃タイヤ,その他産業廃棄物のキルンへの経済的添加設備(廃棄物発生者の不経済な前処理・加工負担は最低限にさせる様設計)。
【3】
①廃タイヤリサイクルプラント:通産省・兵庫県再再資源化事業団モデル事業
②油泥リサイクルプラント:科学技術庁・再資源化事業団モデル事業 

e.事業強化と新会社設立の機運
本社リサイクルセンターの事業は昭和五十七年度に入りいよいよ多忙を極め、赤穂実験プラント現業員約五〇名と東京事務所企画開発並びに営業スタッフ一〇名の挙げる事業純利益は何と数億を突破し、一方各事業の進展と共にリサイクル情報のみならず通産・運輸・農林・工業技術院・運輸省等々各省庁を始め、産業界を網羅する各種団体・自治体との連係も益々強化され、対外重要情報源また素材・製品等重要研究開発源として、社内全社的に当センター機能特質への認識はより広範に浸透するに至った。ここに本社開発機構の一部としてより、『新会社として独立し機能も事業拡大展開を図る』事への是非が役員会に於いても論じられるようになった。

f.社長要請で新会社の設立
丁度そうしたときに私は定年を迎えようとしていた訳で、結局、藤末社長・小川専務との急遽検討の結論は『本事業については我が社としても時局柄最も期待される優秀事業である認識に立ち、此処に更なる発展を期して現業を引継ぎ新会社を設立すること』となり、結局昭和五十七年四月『新会社・住セリサイクルセンタの設立』が決定、新事務所での業務が開始されたわけです。この時期は私にとって、人生最も多忙乍らも生き甲斐と理想に燃えた時期だったと思います。

新会社の社長と言っても業務内容は別に従来と大きく変わるわけではないのですが、私自身としては寧ろ対外的に客先との対応、資金繰りその他煩雑な本社との手続きなど仕事は増えるばっかり、業者からは次々と新たな依頼業務が持ち込まれ出張の連続と、従来社内各部分担処理で済まされていた雑務すら一つ一つ倍加する勢いで増加し、新規開業当初は只々疲れるばかりといった日々であった。スタッフも従来仕事慣れしたスタッフは半減し、補充された不慣れな新規職員ではこれの教育がまた負担となり、対外業務の半分以上がこちらの肩にのし掛かる毎日と成ってしまったのです。ただ然し、気分的には尚張り切り満杯で、疲れも忘れて仕事に打ち込めることは素晴らしいものでした。

g.体調を崩し退職・保養 ―そして再出発―
昭和五七年末ともなると事業は多忙の極を迎え、国内外を東奔西走、我が家での食事すらなかなか落ち着いて摂れないと言う、不健康極まりない生活に突入。対外営業が軌道に乗り出すに従い関係先・客先交流に加えて、更には煩雑な親会社対応の雑用までもが次々に増えるばかり。事業こそ順調に拡大し続けるなかで、だが私の健康は極限まで追い詰められていったのです。そして終には来るべき時を迎えてしまったのです。

現在の住友大阪セメント赤穂工場

本来毎月ですが赤穂工場敷地内で操業中の廃タイヤ並びに油泥リサイクルプラントに出張した際は、先ず現地センター従業員、三菱重工技師・神戸製鋼技師等々と打ち合わせ、帰りには必ず共同事業体の兵庫県県庁資源再利用事業団に寄り、ダンロップ事業部長、関西タイヤ協会支部長・神戸製鋼プラント営業部次長等々メンバーと懇談し事業打合せを行ってから東京に帰るのが決まりでしたが、偶々当日は用件も多く大変疲れてもいて神戸泊まりと言うことで、結局打合せ後麻雀中に突然ですが第一回の心臓発作でダウンし、その時は何とかニトロの服用で事なきを得て無事帰ってきたのですが、その一週間後に家で就寝中に第二回発作に襲われ心臓が止まりそうで苦しく、早速医師の診断摺る処では「貴方は今直ちに禁酒・禁煙・食管理・運動管理など生活態度改善を徹底すること。もう何時死んでも可笑しくない状態だから!」の絶対養生宣言を受ける身上となり、以後休養、通院養生となった次第です。

それからは、死んでたまるかと徹底した生活の改善努力をしたのが好かったのでしょう、一年で薬服用を終え、この際東京衛生病院の禁煙講座で指導戴いた禁煙生活も完全に自分の習慣としました。やがて半年、体調・体力の復帰と平行して、家内共々で尾瀬二泊三日・八〇㎞走破をはじめ、ハイキングクラブに参加しては毎月関東近郊山々を歩き回り、図書館に通っては手当たり次第に読書にはまり込み、当時市場に初めて普及し始めたパソコン教室に参加するなど充電に努めたお陰で、次の新たな第二の会社人生出発に繋げることが出来ましたが、これは、今にすれば細かく健康指導戴いた医師をはじめ、家族諸々周囲の方達、そして何より気を遣ってくれた妻にはどんなに感謝してもしきれないものがあります。

やがて住友社藤末社長、小川専務からの紹介で先ず短期間ですが先端的な新素材加工会社、並びに住友社新素材開発研究所での技術研修など経て、第二の業務として先端技術開発関係の仕事に取り組むことになりました。『新日鐵系商社千代田商事()の技術顧問』にどうかと言うことでした。当時住友と新日鐵との結びつきは、住セメ開発のセラミック系新素材を広大な製鉄各現場で積極的に試験試用を開始し、これの仲介役を果たしていたのが千代田商事でした。ですからこの新素材活用の推進・成功は住友社は勿論、新日鉄・千代田としても新技術・営業展開の第一歩で、更にこれを契機として新日鉄の広範に亘る先端材料開発・新技術ニーズに積極的に営業戦略を展開すべく、千代田社開発部門の新設拡大を意図していたわけで、その為にも住友の呼吸の掛かった技術顧問が必要だったのです。この企画が千代田社会長(京大哲学科出身・新日鉄OB)提案による企画と知ったのは、後日会長との面談の際冒頭『大事な企画なので宜敷』と丁重な挨拶を承け給わった際のことでした。

4セメント会社での仕事の総括

a.戦後復興はダム開発から
大東亜戦争の直前、モンロー主義(他国の戦線には参加しない)をとっていた米国も、二ヵ所の巨大ダム建設を契機に、続く産業復興と強力な生産力を背景に初めて連合国側として日本との開戦に踏み切り、緒戦ハワイの頓挫こそあれ結局は技術と物量の優勢ななか、日本に勝利したと云われます。やがて敗戦日本もダム建設に始まり国土再建の口火を切ることになるのです。

b.入社早々ダム関係から特殊製品取組へ
大学を卒業後私はセメント会社に入社しましたが、日本の敗戦後復興期にあたり重要なエネルギー対策としてのダム用セメント開発・製造と言う仕事に先ず取り組めたことは素晴らしいスタートであったと思います。何か日本の復興を全身で受け止めたといった重さを感じたからです。将にこれを契機として日本全体の産業界が復興に向かって動き出したのですから。

前述しましたように、そもそも日本が米国との戦争で負けたのは、半分は経済力で負けたといっても過言ではないでしょう。ルーズベルトは昭和十一年第二次ニューディール政策で、経済復興のエネルギー基本政策としてダム建設(TVA計画)に着手し、それを基盤とする経済力が第二次世界大戦にも充分耐えうると確信したからこそ、昭和十六年十二月の日米開戦にも踏み切れたと云われます。かくて日本は『国敗れて山河在り』とて、総てが荒廃し尽くした国土を、今度は私等が米国をも凌ぐ産業立国として復興させるべく取り組み始めたわけです。そして年月を経ると共に電力・技術開発と相俟って日本の産業は見事に復興しました。私が五十里ダムに始まるダム用セメント開発・供給に携わっているとき、一方では電力と共に高度産業復興も平行して進み、これがまたセメントの増産も促していったわけです。

さて以後セメント産業と鉄需要とは競合しつつまた手取りあって伸びていったわけですが、セメントは一九六〇年代で年需一億二千万トンのピークに達し、一方粗鋼生産は一〇年遅れの一九七〇年代で一億二千万トンのピークを迎えています。一九五二年入社当時社長挨拶で『セメントもやがて一億トン超の需要が到来するが鉄とセメントいずれが早く達するか見守りたい』との話が懐かしく思い出されます。やがて鋼に対応する鋼線入りコンクリート開発など特殊ニーズが次々とセメントにも課せられる様になった訳です。PSコンクリート枕木、支柱無しコンクリート橋、ビル用PS巨大梁桁、超高強度PSパイル、道路用パネル、更に産業廃棄物処理・原子力関連では放射能防護・高低レベル放射性廃棄物処理等々です。

PSコンクリート枕木

c.特殊セメントから環境問題へ
結局ダム用取組に始まった私の特殊セメント開発への関わりは、次第に開発域を広め廃棄物・原子力おも含む環境問題の分野にまで必然的とも云うべく展開して行ったのです。これらは仕事の性質上から公共事業対応が多く、私もセメント工場勤務より官庁関連・事業体団体など、そして工事現地へと出張が多く、出先は地方山中に始まり次第に地方都市部そして主要都会地へと変化し、客先も官公庁から公団・協会・民間の団体・事業所へと順次時代と共に変わって国内外を随分歩くことになりました。製品仕様も役所決定型から民間協議型そして当社仕様提案型へと変わり、品質責任も我々メーカー責任が強化されてゆきました。終盤では環境事業の締め括りとしてリサイクル事業を担当し、当社事業のドル箱としての面目を果たしました。

d.リサイクルセンター事業運営
センター事業は私の住友に於けるサラリーマン生活の最後を飾る花でした。センター事業の華々しい展開、それは住友社本来からの保守性枠を敢えて乗り越えて、中央地方諸官庁・全国産業界との自由闊達な技術交流のもと、新事業を見事に成功させたのです。その手法・事績は役員会をはじめ人事部の大いに注目する処となり、折からの不況下また低迷する本社各部署の管理職クラスは、当センターの斬新的な運営ノウハウを学ぶべく、役員命令下事業研修を受けに来る程でした。処で前にも話しましたが従来リサイクル品の開発応用等ということは、セメント会社の技術職であれば常識的には気安く取り掛かられる仕事と考えられますが然し、国の新法制下で新規発足するセンター方針ともなれば・・・

①従来セメント製造用資源としては埒外品と見做し放置されてきた
それら広範な全国廃棄物をも対象に有効利用を積極的に検討する。
②その為、当社全工場の受け入れ処理設備をも新設合理化する。
③従来廃棄物発生各社が処分委託のために掛けていた
膨大な前処理費を最小限とする受入・処理法を採用し、
発生者の経済的利便性をも最優先視する。
④廃棄物輸送の合理化を地方行政府並びに輸送機関と協議徹底する。

という従来採用されてなかった卓抜した観点より、次々とリサイクル活用を進めた点が成功の基本でした。ここで霞ヶ関各本庁・経済団体・各種業界協会も大歓迎。結果として事業は無理なくスムースに軌道に乗り、更に二、三年後には小野田・日セ・秩父などセメント界大手他社も競争参入するほどで、社内のみでならず全国産業界全般更には国の省庁、各種協会・業界団体も含めて効用は高く評価されるようになりました。

例えば廃棄物処理に一トンを五~十万円もの処理費を支払い、然も四六時不法投棄・二次汚染発生の不安を抱いていた廃油処理等が、当社との契約では、発生者側でも殆ど最低の前処理費・運送費・処理委託費合計でも数千円で完全処分され、然も処理当社にとっても有効資源・エネルギー源として活用され得るのです。国・業界・関連団体よりも諸手を挙げて絶賛されたのは当然でした。さて然し斯うした結実に至る道程を今ふり返ると、ここに至る成功を見るまでの私たちの努力も大変なものでした。

一口に全国の廃棄物発生各社・業界団体・各種協会・関連各本省地方官庁等々との交流と云いますが先ず事業スタートでは全国脚を棒にしての訪問・打合せ・調査とセンター所員全員総出の仕事で始まり、この間、昼間のセンター事務所は机と椅子そして事務・連絡係の女子事務員以外人ッ気一つ無い空き屋と化し、夕方からやっと外出者の帰着を待っては、資料整理と新事業展開を目指しての熱っぽい検討打合せ会、そして貴重な資料を積み上げ乍らさて次のステップは?の毎日です。

ヘッドの私なども課員同行で地方三、四日の出張不在はしょっちゅうで、家での食事など週一度も摂れるのが限度という忙しさでした。やがて一年二年と業績を積み上げ成果が目に見えて上がってくる頃ともなると、人事部始め本社各部担当部長等による『センター部の執務状況や如何?』と秘かな視察があり、ですがセンター事務所内はいつ見てもヘッド始め全員もぬけの殻!結局『彼等は一体いつどこでどう仕事しているのだろう?』と、余りに状態が異なり、役員会で話題になった程でした。この間リサイクル関係で官民協同の新事業開発・設備投資等々は数十億に達し、更に蓄積された膨大な社外業界各社・協会等の生産・開発・技術・統計情報は、本社始め研究所各部にとっても貴重な業務推進上の資源としてこれ又引っ張りだこで重用され評判になった程でした。

e.通産会議で早大応化旧友との出会い
通産省主催の定期リサイクル会議に臨んでは、数少ない有効活用者側の筆頭に立って発生者側の相談相手として役立てました。所で偶然ですが、会議席上、なんとメルシャンワイン(協和発酵)の環境部長をしていた、早大応化同期の伊籐哲也君も同席していて、会議の後ほど銀座のメルシャンサービスコーナーで久闊を叙し、忌憚なく近況など話し会うことが出来ました。但残念なことにその暫く後の事ですが、彼は東京の住まいの失火事故に遭い、間もなく亡くなられたとの風聞に接しそれが彼との最后になってしまったわけです。複雑な事情もあったように後刻窺いましたし、お互いまだまだ働き盛りの時期で『これからなのに』と無常観に打たれた次第です。尤も私自身もその数年後には高血圧と狭心症で倒れたのですからあまり他事とも云えないのですが。

更には我々リサイクルの仕事を進める過程では、従来からの処理業者の死活問題とも重なることが多く、その点は予め業者とも充分打合せし、契約も企業との直接は避けて業界とか協会単位で交わし、セメント工場内処理以外の小口分は成可く従来処理業者に任せるように配慮したのですが、それでも産廃・一廃処理業者などのなかには質の悪いのもいて、電話とかストーカー行為で脅しとか嫌味も時には受け、また危険な場面にも一・二度遭遇した訳です。

堤氏が滑走路用耐摩耗セメント開発・供給を推進した成田空港

f.各種特殊セメント取組みの総括:
入社当初よりダム用中庸熱セメントとの取組みに始まった私の会社生活は、退職までの三十余年間を振り返ってみると、結局特殊品との取組を続けるべく運命付けられたと言うことになる。緊急工事用早強セメントをはじめ、数々のダム用中庸熱セメント、成田空港滑走路用耐摩耗セメント開発・供給、東北・信越・北陸高速道路用セメント、原子力発電所向け放射線遮断用セメント、低レベル放射性廃棄物固化保存用セメント、超高強度パイル用セメント、峡谷岩盤強化グラウト用セメント、廃棄物安定化用セメント等々数多品種に及ぶ開発・供給と共に、その間雀の涙ほどの特許開発料ではあるが製法・工法等特許申請件数十数件、役職は役員相当の主席技師長を拝命、一方、本社・工場等在勤当時に教育した若手社員も夫々管理職に着任し、退職後も本社内で出遭えば『(本社・浜松・彦根多賀・赤穂時代等々)教育・指導のお陰様です』と感謝され、なかには最敬礼をする中堅社員と出逢ったりして、改めて自分がこの会社に本当に残して来たものは何だったのだろう?と何や彼や考える日々です。

g.伝統ある社風の育成
一口で言えば『先ず他社にない、自社独自に成し得る真の力を見つけ出すこと。次にそれを心底に据えて、国家的事業実現に向かい燃える如く全身全霊を以て努力する』と言うことでしょうか。かく立志決意する社員を一人でも多く育て活性化する伝統を樹立出来るかと云うことではないでしょうか。

元気いっぱいの堤先輩!
6/23(日)梅窓会総会・懇親会でお待ちしています!

次回【最終回】
千代田商事技術顧問時代(新日鐵関連)~我が人生とは―総括―へ続く

2013年2月8日金曜日

人生と出逢い 第7回「セメント屋・先ずダム屋から」 <後篇>


堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

(4).彦根・多賀工場時代

1彦根・多賀転勤の経緯

私が浜松工場に着任したのは昭和二十九年でしたが、それから多忙な勤務の日々とは云え十二年も経つと『そろそろ何処か他所の工場に転勤し気分を変えて見るのも好いな!』など贅沢な思いがふと胸をよぎる昭和四十一年、新浜松工場長が赴任してきました。私が磐城セメント入社時、栃木工場で生産課直属の上司課長であった方です。着任するとすぐ呼ばれての冒頭の言葉は『私がここに来たのは君を二年以内に転勤させるためでもある」と笑うのです。そして即刻翌日からの新業務方針に就き打ち合わせが始まったのです。そのせっかちな調子は十四年前の工場課長時代と全く変わり無く、つい苦笑してしまったものでした。

19544月 浜松工場・建設部の仲間と共に。左端が堤氏

意図するところは工場設備・操業方式の徹底した改良計画と併せて、毎週土曜日午後の月間・週間業務の連絡会、社員・現業員の教育スケジュール計画です。そしてやがてその後一・二年後の結果は、工場内結束の緊密化・意欲の盛り上がりは見事なもので、事務・技術・現業者による諸業務・工場設備の改造提案も次々に実現されると言った具合でした。生産業務に於いても、特殊セメント部門では福井県九頭竜川水系真名川ダム向け品質・生産も共に順調に進み、社員教育も驚くほどの成果を挙げ、お陰で神経を消耗する建設省技官の検査立ち会いも、この段階で検査及び製造主任に安心して任せるようになっていました。公害問題に就いても同様で工場改善・地元対策も順調に推移していたのです。

昭和四十二年秋には野沢社彦根・多賀工場の合併引継ぎ立合いと言うことで、社内技術スタッフ数名の中の一員として現地一週間の出張。旧野沢社引継ぎ従業員に対しては住友社工場管理要項に基づく社員教育を実施し、終了慰労会の席では谷津工場長(本社専務)から冗談みたいですが単刀直入に『君この工場に来るかね?』と斬り込まれ、承けては、私も当時規模・省エネ性能とも日本一と称されるこのドイツ製及びデンマーク製最新鋭工場での仕事には可成り魅力を感じていたので、即座に『是非!』と返辞してしまったのですが、何と翌昭和四十三年三月、浜松工場吉田工場長の手を経て本社からの彦根多賀工場転勤並びに昇格辞令が渡されました。『彦根多賀工場製造管理課長を命ず』と。尚、インフラの面では当地滋賀県は近江商人、就中例の西部系堤一族出身地(私も同姓の堤ですが家系は久留米で無関係)であり、当地域主要インフラではホテル・鉄道・バス始め観光関係は大旨西部系の地盤という訳で、着任早々彦根多賀工場長の谷津專務(住友商事出身)からは『君も堤姓だが地域対応には充分注意して貰いたい』と、早速にも柔和な顔立ちの下からきらきらと光る眼でご忠告を戴いた訳です。

19547月・浜松工場テニス部の仲間と共に。右から5番目が堤氏。

2.乾式フンボルト方式SPキルンと湿式スミス超ロングキルンの操業

a.野沢社からの継承

彦根・多賀セメント工場は、野沢石綿スレート社がセメント業界進出を狙い、社運を賭けて欧州メーカーより導入したもので、設備としては当時日本でも最新鋭の工場でした。野沢社としても乾坤一擲の事業であったのでしょうが、操業成績が悪く正常軌道に乗る前に不良品の山を続出し、加うるに不況下金融引き締めの煽りをも食らって倒産縮小、住友社に経営引き継ぎを依頼してきたものです。ところで彦根工場設備ですが、操業に充分な技術力を以て正常稼働さえすれば、当時世界的にも最も経済性が高いと言われる最新鋭のドイツフンボルト式サスペンジョンプレヒーター付きキルン(HSP)であり、生産性・省エネ両面に亘り住友社レポール方式をも遙かに凌ぐものでした。また多賀工場は品質管理機能抜群で、特殊セメント製造用としても優れた性能を発揮するデンマークF・Lスミス社湿式超ロングキルン(SWL)でチェイン式プレヒータを装備していましたが、野沢社の技術力ではそれら高度な操業技術要求に対応して、充分な機能発揮が出来なかったのでしょう。昭和四十一年、住友社で買収開始し、四十二年より引継・工場整備・従業員教育を徹底、昭和四十三年四月より工場試運転を兼ね従業員の指導をしながらの本格操業再開となった訳です。

 70年代の彦根駅。当時、住友セメント彦根多賀工場に向かう貨物車が並んだ。

b.彦根多賀工場操業安定化の全社的意義
~住友全工場NSP化と特殊品開発の基礎確立~

さて、昭和四十三年四月いよいよ操業開始したものの、我々にとっても両工場はともに未経験の新規設備であり、先ず工場全般に亘る設備能力・耐性のバランス改善、主設備の操業安定化改造と可成り手間取りながらも、やがて一年間が過ぎる頃より彦根工場でもSPキルン操業の安定化(これはやがて住友独自NSP設備技術の確立と後日の全工場レポールからNSP化改造への飛躍に繋がった)、また多賀工場では特殊品開発の多様な展開(耐放射線始め広範なインフラ問題にも対応可能とする当社独自の特殊セメント開発展開と住友技術に対する社会的信頼確立)など、以後永い将来に亘っての当社体質改善展開(近年世界的なグローバル化そしてインフラ変動への柔軟な対応力)を支え補償するものとなった。あの浜松工場操業当初『光は浜松から!』と、当時他社追随を全く許さぬレポール製造方式の高性能・高経済性を見事に実証して見せた浜松工場に対する全社的賞揚の烽火が、今また同様に『光は彦根多賀から!』と、彦根多賀での最新技術達成に対しても再び実現されようとしている訳です。

前述した様に彦根に於けるSPキルン改造と安定化そして独自NSPキルン開発成功、それは当社全工場を高効率NSP化と言う目覚ましい展開へと繋げ、また多賀特殊品開発技術成果は、共に以後突き進む世界経済・技術のグロウバル化、即ちインフラ・省エネ・リサイクル要求実現に向かっての確かな推力となったのです。それは単に生産・技術面のみではなく、社員総力の結集をも基盤とする総合経営の一歩となったのです。それから四十年間、彼の壊滅的な敗戦よりの復興のみならず、幾度となく襲って来た世界的規模の不況にも耐え、そして今日、東日本大震災・津波・放射能災害に直面するや、その復興協力という試練にも良く耐え抜く力を発揮しているのです。

c.社員教育には一苦労

さて、企業買収に伴う被合併従業員との対応など勿論私には経験のない訳ですが、谷津専務、並びに浜松時代からの先輩である本社技術部長小川氏の助言なども充分腹に据え、以後彦根多賀の五年間は『未来に向かって強い自信と幸福感を以て切磋琢磨に励む』との信条で通しましたが、特に意を用いたことは、彼等の被合併社員としての不安を極力理解しながら早期解消に務め、将来共に社を支え得る同志として一日も早い成長を遂げるよう務めたことでした。共に学び議論し、将来管理者として高度の能力・資格取得の達成を支援し、更には当社関西最先端工場である点より、渋谷工場長提案のもとNEC(住友グループ主要十六社よりなる一水会メンバー社)開発部と連繋して、電算機応用セメント工場完全自動化システム確立に取組んだ訳です。結果としてはこの成果が評価され、翌年には本社機構下に『新設赤穂第二工場自動管理システム開発部』設立が早期実現の運びとなり、これのチーム員としても彦根多賀要員中からも有能な技術者数名の参画に成功した訳です。

d.通勤は自家用車で

私が彦根に転勤した当時では旧野沢の従業員殆どの者は、彦根市内或いは多賀に住居を構えていて、地元市営の定期バス便または自家用車通勤でしたが、住友転勤職員は、工場長以下全員が彦根市郊外に新設された一寸洒落た社宅に居住し、工場とも離れていますので、社宅工場間にはマイクロバス定期便が送り迎えをしてくれましたが、私は家内が運転してくれる自家用車通勤で通した訳です。と言うことは当初工場を操業して解ったことですが、設備レイアウトの物流バランスが可成りずさんで悪く、あだかも新設工場並に故障が頻発し可成り改造を加えた訳ですが、生産課長即ち工場責任者である私としては、昼夜の別無く夜中・早朝もお構い無しのお呼出しが掛かれば、重大事故現場に即駆け付けねばならず、結果は徹夜もしょっちゅうで、家内にも迷惑を掛けない訳には行かなかったからです。当時は家内に大変な世話を掛けたと心中詫び乍らも感謝していた次第です。

3.湿式超ロングキルンで特殊品の生産

a.青蓮寺ダム用セメント製造~着任早々の仕事~

着任早々先ず休止工場を普通品生産で試運転開始です。湿式原料の調整と粉砕から始まり、超ロングキルン並びに工場総体の操業と品質安定化、定期検討会を昼夜分かたず実施し、どうにか三ヶ月後の七月に迫っていた水資源公団による青蓮寺ダム納入セメント製造立会に漕ぎつける事が出来ました。青蓮寺ダムは三重県名張の木津川水系青蓮寺湖堰堤用ダムで、発電を始め農業・給水その他多目的で、ダム本体は設計上も極度に厳しい超薄型アーチダムですから、納入中庸熱セメントの品質均一化と管理には大変な気の使いようでした。その後、昭和45年に完成した時点で湛水立会見学会に招待されましたが、公団現地所長・職員の方とは感動の握手を交わし乍らも、一方では当時フランス・イタリヤで連続して発生したダム倒壊事故の惨状を思い遣れば『まさか万一にもこのダムでは・・・・?』といったことを考えさせられ、背中が多少涼しくなる思いもしたことは否定しません。

青蓮寺ダム(三重県・名張市)

b.松川ダム用セメント製造

松川ダムは長野県飯田市下流洪水防止と農業・上水道用多目的重力ダムです。略々青蓮寺ダムと同時期に同様スペックで製造供給出来たので比較的楽でした。青蓮寺ダムに比べればセメント量は約六分の一、湛水量も約四分の一で小型です。それでも納入時の製造・試験立会・現地試験片作成等は青蓮寺ダムと変わらず厳しく一人前なのです。河川敷き全体の岩盤が脆弱だったのです。

c.高瀬川水域ロックフィルダム擁壁岩盤補強用超微粉セメントの開発・試験

長野県黒部下流域高瀬川の多目的用として三ヵ所のダムが建設されました。大町ダム,七倉ダム、高瀬ダムです。これは巨大なロックフィルダムですからセメント仕様としては通常の中庸熱セメントでよいのですが、高瀬川流域の基礎岩盤表層は強固な花崗岩質ではありますが破砕帯・断層が入り組み、補強グラウト(補強剤注入工法)用として大量の超微粉セメント(コロイドセメント)を供給し、且つ現地注入時は約一週間に亘る立会試験が行われました。超微粉セメントは細川鉄工所製の超微粉サイクロン設備で開発・製造され通常のセメントに比し微粉表面積が約倍(ブレーン5,000㎠/g)のグラウト(加圧注入)専用の特殊セメントです。現地での試験注入工事は一単位毎で幅五〇米、長さ約百米に及ぶ岩盤グラウトと試験片採取・立会という大規模なもので、現地職員と一緒に流域を上がり下がりフォロウして歩くという大変な作業でした。低部注入地点より三〇メートルも上手岩盤亀裂層で突然グラウト剤が吹き出すなどざらでした。

ロックフィルダムとして日本一の堤高を誇る高瀬ダム。

d.早強セメント・特殊セメント開発競争

関西は小野田・日本セメント社はじめ大手各社が鬩ぎ合い、特に営業屋にとっては激戦区です。特殊品需要と云いますと、早強セメント・超高強度パイル用セメント・原子力発電所躯体用セメント・放射線防御壁用セメント・本四架橋はじめ大型コンクリート橋梁用セメント・廃棄物処分場用対薬品・耐重金属類用セメント等々ユーザーニーズも広範で仕様も厳しく、然もこれに充分対応できないばかりに従来どれだけ大量の付帯工事用普通セメントの商機を逸してきたか計り知れません。ですから当社として今関西に近いこの彦根・多賀地区で湿式ロングキルンを稼働し、適宜ニーズに対応した特殊セメントの供給体制を採ることは緊急の必需事でした。さて着任すると早速ですが、社内営業担当者・ユーザー・工事屋・二次製品メーカー等々押し掛けての打ち合わせラッシュ、続いて仕様検討、社内開発・試作試験・京都大学始め専門研究機関性能保証書取得・社内生産打合せ・社内テスト・製造・現地ユーザー立会試験・特許申請と工場・大學・工事現地・本社研究所を駆け回るうちに彦根多賀勤務五年の日々があっという間に過ぎた思いでした。

e.高強度パイル用セメントの開発に成功

特に関西では超高強度オートクレーブ加工パイルメーカーが密集し激烈な開発競争を展開していて、これに応え得る専用セメントの供給は営業戦略上必須の状況にあったのですが、このニーズに適確に対応しうる専用セメントは各社共まだ手付かずでした。高速遠心力成型加工そして高温超高圧オートクレーブ処理後の高温水中養生を経て、一週間で1,000㎏/㎠余と言う高圧縮強度を実現し得るセメント硬化メカニズムが解明されておらず、 パイルメーカーはやむを得ず早強セメントを代用していたのですが、仕上がりパイル品質が低く安定せず苦労していました。

そこで当社では高強度パイルの特殊養生法(遠心成型及びオートクレーブ養生技術)に着目しこれに適応する二段反応性セメントの開発に乗り出し、試行錯誤六ヶ月苦労の末見事成功し、オートクレーブ養生後圧縮強度1,200(参考:通常建築物では300、土木構造体では400、ダム用高強度でも600)㎏/平方センチという驚異的結果を得たときは、工場開発チーム全員の喜びは勿論ですが、本社開発部・研究所・大阪支店等々の要請で社内説明と講習会を実施しましたが、系列大手パイルメーカーからの技術顧問要請については有難くお断りした次第です。京都大学建築学科教授六車研究室に特殊パイル強度試験証明書発行の依頼でパイルメーカーと同行した折も、大学側からの共同研究申し込みについては、ノウハウ問題があり本社研究所意向に従って辞退させて貰った訳です。孰れにせよ当時関西パイルメーカー各社間での評判は大変なもので、本専用セメント需要注文が当社に殺到し、大阪本店始め関西各営業所・販売店をも驚かせたものでした。

f.原子力発電所用セメント・コンクリートの開発
~原子炉その他躯体及び放射線防御壁用~

この項目については後述本社新設のリサイクルセンター事業中―原子力関連の項―で東海村原研・大飯・美浜原発用『放射能防禦用特殊セメント・コンクリート』の項で纏めて記述します。

4.住友グループ事業に参画~住友一水会~

住友グループ内主要各社横の連繋としては、セメント・銀行・商事・金属・化学始め主要二十社から構成される経営者・社長会として『住友白水会』があり、その下部機関の技術推進グループとしては、十六社技術系部・課長以上幹事で構成される「一水会」があります。会は大阪淀屋橋住友本部を中心に毎月定例幹事会が開かれ各社より当番が決められ、持ち回りで技術推進の分担作業を消化します。下部機関としては毎月定例的には各分科会(例えば環境・計測・分析・建設等々の技術分類)単位のもの、不定期には各社小グループ単位のプロジェクト業務研究・推進などです。また技術研修と懇親を兼ねては年数回のグループ内各社工場・研究所など見学会、年一回ですが三日間の広域見学会など五〇名から百余名の大人数のものまで、いずれも技術面の連携結束を高めるのに大きな役割を果たすものです。

私も彦根・多賀勤務を機会に早速グループの役員推薦をうけ、以後本社プロジェクト勤務後も含め数年間一水会代表幹事を勤めることになり、技術面のみならず人間関係に於いても各社主要技術者とも多数貴重な知己を得る機会を持つことが出来ました。特に後、日本社で新プロジェクト事業を展開した際にはどれだけ有益な機会となったか知れません。参考までに申しますと住友本部・主要各社ビルは大阪淀屋橋周辺に集中し、当社の大阪ビルも此処に居を同じくし、住友村といった様相でした。ですから大阪で淀屋橋界隈は彦根在勤中随分通いましたし、今でも毎年行われる住友クラブでのOB会案内を戴いては出席しています。 

「住友一水会」197210月・九州地区プラント見学の懇親会

5.彦根は城でもつ
~名物は近江牛・江州米・日本海鮮魚~

彦根は徳川井伊家三十五万石の城下町ですから、井伊直弼始め井伊家殿様ゆかりの名所が数多くあり、それ等が彦根に住む人々との間には様々の形で深く関わり合っています。私達も浜松工場在勤時代から親しんだ浜松井伊谷という井伊家二十四代直政誕生の地から遙々この彦根の地に転勤して来て、そこで井伊谷の名跡で且つ井伊家の菩提寺でもある竜潭寺・井伊谷宮と全く同じものが井伊直政の子直勝(彦根初代城主)によりこの彦根に建造され現在に至るも尚重要文化財として保存されているのを見ては、浜松育ちの家内などは私以上に縁の深さを感じていたものと思います。

娘達も小・中学・高校とその地で朝夕お城を見ながら多くの友と若き青春の刻を過ごしたのですから、懐かしさは一入ではないかと思います。春、彦根城大手門入り口に向かっての桜並木、早春の観梅会、直弼縁の八景亭、湖東三山の紅葉・琵琶湖周囲を取り巻く渡岸寺を始め古代からの数々の社寺仏像群の素晴らしさと思い出は尽きぬものでした。こうした田舎ですから、家内の運転してくれる車は大変役立ってくれたわけです。また会社関係で大切な来客があると、かっては井伊の殿さま別宅であった八景亭に案内し、中国式池水を巡りながら歓談、池水に張り出す別邸では大名料理を食し、お泊まり頂いたものでした。

春爛漫の彦根城

<彦根特産品三つを紹介します>
  近江牛のステーキ
近畿圏の仔牛の原産地は彦根の裏、奈良県伊賀上野です。これを三重松阪に持込んでビールを飲ませマッサージして育てたのが所謂松阪牛ですき焼き用霜降りとなり、滋賀県近江に持ち込み豊かな牧草と穀類で育てたのが近江牛のステーキ肉となります。彦根で最も美味しいステーキのグリルは彦根銀座通りにある《フレーバー》です、来客接待・家族団欒とよく利用しました。サンドウィッチも絶品で、事務所パーティー等の際工場長指図で注文しては、職員皆で歓談賞味しビールで乾杯したものでした。
  江州米近江中心に作られる米を江州ごうしゅうまいと言い、新潟、灘特産の銘酒専用米として東近江地区農家が主として受注生産しているものです。総て醸造元予約立ち会い植え付け刈り入れ出荷されてしまいますので、美味しい貴重な米だと噂は聞くばかりで、実は我々彦根在住一般家庭の食卓で賞味したことは一度も無く、いわば幻の米と言うことでした処で先日、退職三十年振りでしたが、懐かしくも住友彦根OB会に出席数十名の方々と歓談の一刻を過ごすことが出来ましたが後日久し振りにいし歓談した写真共々ビール券をりしたところ、何とお礼として米農家の方に豪州米一升を寄贈戴き早速賞味させて戴いた次第です光り輝くその味は餅米の様で貴重なものでした。
  鮒寿司
食通は美味しいと珍重しますが、私には到底その臭気と外見に堪えられず手が出ません。琵琶湖で漁れた鮒を米糀で半年以上漬け込んだものです。彦根在住中に大阪出張時の定宿に手土産で持参したこともありましたが、残念ながら冷蔵庫からゴミ処分場に直接廃棄処分されたとかです。鮮魚では敦賀からの小売人が直接彦根の街角・社宅に車でもたらす小鯛の寿司はじめ北陸産の魚が大変美味です。京都市場経由の店頭物は古くて旨くありません。

軍隊で鍛えられた堤氏も太刀打ちできなかった鮒鮨。

6.自家用車は彦根の必需品

転勤して忽ち困ったのが足便です。社宅から工場までの定期便或いは管理職員専用車の送迎はあるのですが、問題は工場の緊急事故・打合せなど朝・夕・晩、場合によると夜中・明け方と不定期突発の急用が出た場合はもう定期便等と云って居られない訳で、そこで結局少なくとも管理職・現場業務を与る身には自家用車が必需品となるのです。所で私はと言うと『仕事が多忙なのと飲酒交遊の機会も多い関係で、免許をとる訳にはいかない』と理由づけし、詰まり家内が自動車学校に通い免許を取って貰った訳です。結局不定期の送り迎えは面目ないが全部彼女におんぶと言うことになったのです。

1)大晦日免許が取れて早速京都初詣だ!
十二月末、家内念願の自動車免許も一回滑っただけで合格し、それにあわせてトヨタのカローラもすでに駐車場入りで出発を待っていたわけです。そこで仕事の方はと言うと、本来三ヶ月余の長期運転を建前とするセメント工場も、新年を迎えては定期休転整備入りと言うことで、年末から正月三ヶ日は全面休転で仕事も休み。そこで元旦に続き二日目は京都のお寺に初詣と家族全員で出発と張り切ったわけです。正月早朝の名神高速は未だ閑散として車も快適に飛ばし、いよいよ京都南インターを降りて京都五条を目指して進む程に、なんと前後左右からどんどんと情け容赦なく突っ込んでくる凄い渋滞にいつの間にか捲き込まれ、つい一昨日免許が降りたばかりの偉大なドライバー氏は、四列行進のろのろ運転・両サイドに気を配り、前後はぶつからないようにサイドギヤとアクセルの連続、緊張に目を吊り上げっぱなしの運行となったわけです。さて
どうにか五条の駐車場に強引に車を突っ込み、八坂の塔から神社の辺りとお参りが出来て、家族一同無事帰着の結果はほっとするやら自動車の旅大成功で大喜びだったのですが、よくもまあ傷一つ負わず人も車も無事帰ってきたものと後々思い出しては冷汗ものです。

堤家に納車されたと同型と思われる昭和43年式・トヨタカローラ。

2梅・桜の早春賦、でも自家用車の大敵は雪!
彦根の早春は、また浮かれた訪問客がどっと押し掛け、対応に忙しい地元民と共にお城の周辺は見物客のラッシュです。お城の観梅に始まり桜に埋まる大手門前の並木、井伊家別荘の楽々・玄宮園(今は市民、観光客に宿泊開放)と総て桜に埋め尽くされます。それに比べて厳しいのは冬です。日本海の寒気が北陸から雪と共に流れ込み、伊吹山にぶつかって琵琶湖東岸から彦根多賀そして鈴鹿に脱ける雪道はただ事でない積雪、一晩で一、二メートルの積雪などざらです。

さて、突然の積雪であれ勤め人である以上、定時出勤は守らねばならず、家内はぐっと緊張して、ラッセルの効いた道中のスリップには全神経を集中して車を飛ばすわけです。そしてやっと工場入口に到着するといよいよ難関の登りスロープ百メータが待ち構えてます。前夜からのトラック出入りで、降りしきる雪も下から溶けては凍て付きつるつるになっており、上には昨夜からの雪が乗っていて見えません。家内がさっとアクセルを踏み込んで坂のコンクリート勾配路を一気に駆け上がろうとします。そして驚くことに車は横にスリップ、前に進むどころか対向車線に向かって一目散、もたもたしていると前から迫る大型ダンプの餌食です。家内が慌ててブレーキを踏むと、途端に車はくるりと一八〇度回転してまた横滑りです。今度は停まりません!家内はもう真つ青で今後雪降りはご免だというのです。

以後大雪の朝は会社手配の臨時便か客用便の出迎えを必ず待つことになった訳ですが、それにしても当時構内情報伝達は素早く、事務課長が事件直後飛んで来て『以後管理職員は必ず送迎用の便を出すので利用されよ』との工場長伝達を、私が事務所椅子に座る間も無く、早々と伝えられてきたわけです。

3)春・秋の伊吹山は見事なお花畑

室町時代から伊吹山は薬草の宝庫です。信長が薬草もですがその他に、世界中から草花をも取り寄せ栽培、お花畑として開放、庶民政策の一つとして健康管理の基本に力を注ぎました。ですから彦根伊吹山周辺の住民はよく伊吹山にハイキングとかドライブに行き花・薬草をそっと持ち帰ります、公には禁じられていますから。ところで私達夫婦も休みにドライブしがてら出掛けましたが、麓の草原は背丈倍もある高い茅に覆われ、横道の通行者・車などの見通しがまったく利かないのです。そして帰り道で一〇メートルほど離れた横道から突然斜めに突っ込んできた対向車にぶっつけられたのです。こちらは一旦停車して待ったのに、相手は横合いから突っ込んできたのですから責任の所在は明白ですが、結局家内のよく知っている保険屋が直ぐ駆けつけて納得の示談で済ませました。先方は薬草を可成り摘んでいたようです。山麓一帯広がる草原は背高を倍超す茅で見通しこそ悪いのですが、広々として気持ちよくこちらも油断があったのだと反省した次第です。滋賀県に来て浅井・信長始め戦国武将の事績が多いのには驚きです。

現在では整備が進んでいる伊吹山のドライブウェイ。

()娘達のピアノレッスンは京都で

さて近畿圏文化の中心は矢張り隣の京都です。当時毎週土曜日午後は家内と娘達京都通いが週末日課になっていました。と言うことは、浜松から転勤した当座、娘達のピアノレッスンは発表会の都合で、暫くその儘浜松の先生通いで続けると云うことになり、毎週土曜午後娘達は新幹線で浜松に通わせたのですが、一年が過ぎ発表会が終了したのを機会に京都の先生を紹介して戴き、家内は車を運転して毎週土曜午後は京都通いという事になった訳です。そして二年後、上の娘が県立高校に進学したのを機会に大学受験が重点となり、下の娘も高校受験に集中すると言うことで結局レッスンは休止としました。然し娘達にとっての京都通いは、この間に古都名所各地を巡ったりとよい想い出になったと思います。多彩な名所旧跡の京都も更に名園・美術館と飽きさせません。

1971年春・彦根城にて。得意のカメラで奥様・お嬢様を撮影。

5)早大打矢君夫妻が彦根に来訪

そんな頃突然ですが打矢君から「琵琶湖一週に出掛けたいので車を貸して欲しい」との連絡があったわけです。西部系地元ホテルからの電話で唐突でしたから一寸驚いたのですが、実は打矢君は早大応化の大坪研究室の同期であり、共に窯業関係研究に進みどちらかというと出遭い交流する機会も多かった仲ですが、それにしても、この彦根くんだりの片田舎に迄わざわざ出向いて来て、しかも私のことを忘れずに唐突ながら「車を借してくれ」と声を掛けてくれたことが、可笑しくもまた何よりも嬉しく、兎に角使って戴いたわけです。趣味であれ或いは理由がどうあれ同君ご夫妻のため、「少しでも何かお役に立つことが出来たのかな」とか、「それにしても我が家で車を持っていることをよくご存知だったなあ」とか、後で家内共々で話し合ったことでした。後々同窓会の席上、打矢氏からの打ち明け話では『当時丁度仕事を変えるかどうするかと云う将に重要な転機にあり、琵琶湖周辺の十六面観音を始め古佛像群と向きあう中で、お陰で意を決することが出来た』との話であった訳です。打矢氏は後に保谷硝子のIT部門を率いて副社長となり、本拠をアメリカ各地またヨーロッパではロンドンに本部を置きながら、全海外部門を統括する責任者の職にあたったと聞く。

6)彦根の豊かな立地

さて兎に角彦根は住友の本拠大阪・関西に最隣接の工場立地であり、住友本社とか、グループ各社との種々交流が盛んという点では、私にとって生産・開発等当面の仕事のみならず、住友技術グループ一水会幹事としても将来に亘って大変意義深く、新事業展開等にも何かと有用なところでした。一方歴史的にも琵琶湖周辺は有史以前より大陸渡来部族の勢力下にあり、古代より豊かな文化財力に支えられて先端文化が開花したところで、驚くほど多くの優れた神社・仏閣・仏像群・文化遺跡に恵まれ、景観、観光と豊かな心の故郷でもあります。

7)大阪万博会場入口から工場へUターン

懐かしいEXPO70です。彦根からは名神高速を通って車で一時間、吹田市千里丘陵で三月十四日から九月十三日まで六ヶ月開催と云うことですが結局家族一緒で夏休みに出掛けたわけです。早朝に彦根をでて家族四名で会場へ。然し会場は人気のパビリオンは長蛇の列で、うまくいっても見物できるのは二ヶ所止まり、結局アメリカ館と日本館一つがやっとかなという混雑です。まずは自動車疲れを癒して一休みと言うことで、お茶を飲み始めて間もなく、耳をすました上の娘が「お父さん拡声器がうちの名を呼んでいる様よ!」と来たのです。またかと会社に電話すると現場から大故障の緊急連絡とのこと。製造課主任よりの報告では、事故はキルン関係で停まって暫く動かないというのです。結局家族はそのまま会場に残し、私一人会社に戻って夜半まで指揮処置に当たった訳です。折角会場まで行って何も見ず仕舞いの体たらくに、EXPO70のテーマ『人類の進歩と調和』は「我が社では何時実現されるのやら」と工場に舞い戻りながら呟いたものです。サラリーマンとは何時の時代になっても、そう簡単に優雅に暮らせるようにはならないものですね!でもだからこそ『何時か必ず!』と目標実現に向けての反骨も湧いてくるのでしょう。

大阪万博

7.浜松・彦根・多賀工場長の想い出
~会社勤めで良い上司との出遭いこそ一生の宝となります~

①.浜松時代の工場長など

ⅰ.初代天野晋工場長
私が昭和二七年磐城社(住友社前身)に入社した当初所属の本社建設本部長であり、浜松工場竣工稼働後工場長となり、実は私達夫婦の仲人役もして戴くなど大変お世話になった方です。早大機械工学部出身でしたが、当時御子息も同機械工学部在学中とのことで宜敷と紹介された。浜松工場着任六年後の昭和三十五年には岐阜工場新設稼働に伴い岐阜工場長として転出された。

ⅱ.小川正主任
父君が台湾総督府官員であった関係で、台北一中卒後東大応用化学出身。豪快な実力派であり入社は私より六年先輩にあたる。当初入社は栃木本社技術管理部であったが、昭和二五年、重要な進駐軍向け(朝鮮動乱戦線向け)セメント品質管理に関する技術会議の席上、社長・眞田技師長を前にして敢えて米軍納入品質検査法ミスを指摘し、社長並びに技師長を困らせたといった剛直さと言うか馬鹿正直というか、歴史的エピソードの持ち主で評判であった。お陰で本人は以後三年間結局、会社としては傍系の下田アルギン酸工場勤務に飛ばされ、工場設備改善研究の名目で化学工学を主体とする工場近代化設計等散々辛酸を嘗めた後、漸くにして新鋭浜松工場製造主任として復帰着任された訳です。

然し私にとっては幸運にも、事務所で机を並べる貴重な機会を得たことになり、結果として技術面は勿論心情面でも直接の指導をうけ、以後私の浜松時代に始まり、生涯折々に亘る広範な化学工学応用技術習得、熱管理士資格取得、東京・大阪のセメント協会技術大会での晴れやかな技術論文発表、更に彦根・多賀生産課長時代では第一種公害防止管理者資格取得(合格率五十人に一人という難関)、電算機による赤穂工場無人化システム確立、住友グループ一水会代表幹事を担当し住友要人との交友、本社に資源リサイクル・センターを設立し先任技師長就任、国の中央・地方官庁並びに多くの業界要人との交友、住友新子会社設立しての社長就任、退職後の新日鉄技術顧問役への就任等々、その都度生涯の先輩として指導・相談を仰いで来たが、一線から退いた今尚何かと交遊は続いている。通常サラリーマン生活とは平板で退屈なものとして一般的には認識され勝ちであるが、退職後で私と小川氏とが交遊・懐古を重ねる仲では、それは画期的な得難い事績であり、四十年経った今尚その数々の感動の想いは目の当たりにある如く感懐に包み込んでくれるのである。『我々最後にやったあのリサイクルセンター事業は、誰にも真似できぬ、官界業界をすら感動させた一大事業であった。よくぞやってのけたものだ!』と語る時の小川先輩の目には、今尚光り潤むものが見られるのです。

ⅲ.二代目河野靖工場長・杉浦益彦氏との出遭い
河野靖氏は本社常務・総務部長であったが、天野工場長の岐阜新工場転出の後を承け転入して来られた。一高・東大出の俊才。杉浦重剛先生のお孫さんの杉浦益彦総務課長の上司であった関係で、校祖・杉浦重剛先生並びに日本中学の事績、卒業生等の人誌にも詳しく、浜松着任間もない昼食会の席上、懇談中私が日本中学卒であると聞くと、以後何かに付け関心を持たれ、後日、杉浦益彦氏が工場視察に来場の際も、わざわざ工場長室に呼ばれ紹介して戴いた。中々のスポーツマンでゴルフなどもハンディ片手、昼食後とか課外時間にはテニスの試合で私も好くペアを組み、また手合わせさせて戴いた。昭和三十八年十月いよいよ当社が住友グループに参入し、住友セメントとして新規出発したが、当時斉藤社長の次期後任社長と嘱望され乍ら後日病に早世された事は呉々も残念なことであった。

日本学園校祖・杉浦重剛先生。

ⅳ.三代目吉田専助工場長
私が磐城社に入社当初、未だセメントのセの字も解らぬ時から栃木工場生産課長として、セメント生産の基礎から現場全般に亘り直接の指導を戴いた最も印象深い方である。当時はご本人も現場主義一本槍でどちらかというと課員達総じてから煙たがられると言った処もあったが、会津武士の一徹気質に富み、懇親会では酒を飲むと、好く白虎隊の詩を吟じ乍ら剣舞を披露され、一方私に対しては次の転勤地浜松工場要員を意識してか、入社三ヶ月で既にして五十里ダム用中庸熱セメント品質管理を担当させ、生産管理面では工業技術院主宰での『米国に於ける最新品質管理法講習会』に、またリサイクル関係では静岡巴製紙社のパルプ廃液活用調査に出張等々勉強させて戴いた。その後栃木工場より転勤し、当時新日鉄向けドロマイト生産の為新設された羽鶴工場長、新設岐阜工場次長を経て昭和四十一年浜松工場長に着任された。十四年ぶりの再会であったが、当時管理係長としての私が、生産関係全般の責任者であった関係で、来浜早々に工場長室に呼ばれ『やあ、久し振りだな!』と前置きしておいて、早速今後の工場管理方針に就き指示に預かった訳である。

曰く『今後の方針だが二項目ある、一つは工場近代化の改造計画で、今一つは従業員技術研修の推進と言うことで早速着手したい』と、また『そこで明日から全部署検討に入るので、参考として叩き台になる具体案と会議推進日程表を早急に提出して貰いたい』とのこと。付け加えて曰く『君を浜松から早く追い出すのも私の目標だがね』と来てニヤリと笑われた訳。かくて工場改善と従業員技術研修はスタートし、工場長以下総従業員結束しての燃えるような意気込みの下、驚くべき効率で推進され、生産・品質・場内外環境問題等も含め総合的な素晴らしい成果をもたらし、老朽設備近代化改造、操業方法改善、品質向上と成果は見違えるようであった。それは私にとっても入社以来最も刮目すべき技術・教育成果と共に人間関係習得など充実の二年間となった訳であり、続いては彦根多賀工場課長就任で転勤即ち管理者への重要なワンステップにもなったのです。吉田工場長着任から僅か二年でした。

②彦根多賀時代の工場長など

ⅰ.初代谷津專務の風貌
私が彦根多賀着任早々の工場長は谷津專務であった。前年野沢からの引継業務で私が彦根に立会出張の折、転任を打診戴いた方である。住友商事出身の重篤温厚な英国紳士然としたなかに、関西人の洒脱さをも忘れない方であった。私の着任早々の事だが、專務に同行を命じられて彦根から多賀にまわる専用車中で早速だが『君の課長としてのリーダシップと言うか覚悟はどうなんだね?』と斬り込んでこられたが、私は即座に『ギブ・アンド・テークです』と答え、『何ッ?』と專務は一瞬きつい表情で一考したものの、ゆっくり頷くと『成る程!』と。あとは何も云われない儘、やがて『新しい社宅を視て行こう!』と彦根郊外に殆ど完成間近な真新しい社宅を案内して戴いた。『君、佳いだろう!』と満足そうであった。社長を口説き社内は勿論関西のグループ各社中でも最も立派な建物にしたそうなのだ。私が入社当初栃木時代の老工務係長が彦根に転勤していて工務課長で居ったが、私への懐かしさもあってか「自分が設計した」と親しく図面など引っ張り出して教えて呉れた代物だ。專務には約一年間と短期間であったが、主として財閥社の管理者としての心構えを指導戴いた。住友主要十六社から構成される技術系管理者の協議機関『一水会』のセメント代表幹事に推薦戴いたのも谷津專務の計らいによるものであった。

ⅱ.二代目渋谷常務のこと

.英独露仏技術文献の活用
谷津專務の後任には渋谷常務が着任された。渋谷常務こそ私が新入社員として栃木本社建設部に勤務時の工務課長であり、当時から既に社内でも指折りの凄まじい勉強家として聞こえ、独学で既に英仏独露四ヶ国語の技術文献翻訳をものにし、新技術の紹介にも熱心で評判であったし、会話も英露二カ国語は可成りなものと云々された。我が磐城社入社当時だが浜松工場新設にあたり独レポール式キルン導入に就き、その優れた性能と技術内容を積極的に紹介する役割を果たしたのも渋谷課長の功大なりと聞こえていた。

私が栃木入社当時のレポール関連技術試験実施に当たっても、必要なドイツ語文献を適宜コピーしては廻して戴くなど大変お世話になったことも忘れられない。そしていよいよ彦根多賀工場長として就任して来られるや、毎朝定例の業務連絡会などはさっさと済ますと『昨日調べて見たんだが化学のことは正確には判らんので見直しておいて欲しい』と、次々にどさっ!と翻訳文献書類の束が私の机上に置かれるのです。栃木時代は専ら英独文献でしたが今目の前の資料主力は露仏文献であり、さて之を披見玩味すればする程、なんと従来の英独文献とは一味も二味も異なった識見に基づく貴重なものなのです。今まで露仏文献など、全くと言っても好い位眼にする機会も無いし価値も解っていなかった訳で新鮮な驚きでした。

露文献では大掛りで膨大な現場資料・実証実験に基づき、また仏文献では斬新的な数学応用に徹し、従来の工学手法見直しをすら提案しており、それ等斬新着想は直ちに私達セメント工場現業でも技術改善に繋がる貴重なものであり、その提案した活用効果は本社会議でも度々注目される処でした。参考になった露文献では省エネ工学・セメント新製品開発部門での膨大なデータ、仏文献では粉砕・高温焼結など生産技術の面で数学的解析法で特に有効であった。

b.工場無人化システム提案
今一つ、渋谷工場長が在任中なればこそやり遂げられた事業があります。他社に先行され社内でもとかく懸案事項になっていたことですが、それは超大型コンピュータ活用によるセメント工場ワンマンコントロールシステム(以後無人化方式と称する)の実現です。当時国内では未だ大型電算機処理速度遅く、これの補足として部分機能処理ではアナログ処理方式(ソニー・富士通方式)を大分遺しながらも、一応秩父・日本セメント社が既に試運転・改良段階にあり、当社内でも早期取組の緊要が叫ばれていましたが、方式(部分アナログか全面ディジタル処理か)採用問題で具体化に遅れを執って居たわけです。

そこで当時、当社技術職役員として最先任でもあった渋谷常務の本社役員会への提案決議により、先ず第一段階として『品質管理は複雑だが生産ラインはシンプル』な多賀工場を対象に、住友グループ日電(後のNEC)社開発グループの協力のもと住友開発チームを多賀工場でスタートし、当時未だ処理速度が遅いが故に敬遠されていた電算機フル活用による全ディジタル方式制禦システムを他社に先駆け確立。第二段階として最新鋭赤穂第二工場新増設計画と並行して、本社編成の開発チームによる電算機制禦システム化完成を目指すことになったわけです。

幸い私は多賀着任(二年前)当時よりテレビー・通信教育で、技術言語フォートラン応用による制御方式(ディジタル技術制御方式)は既に習得していた関係で、常務提案には早速賛成し順風満帆で多賀開発チームリーダーの役を承けた訳です。ほぼ一年で基礎案完成に持ち込み、本社役員会報告・査定を経て人事面も含め赤穂チーム編成参考資料を提示、此処に赤穂開発チームの本格的スタートに漕ぎ着けた訳です。後の赤穂チームリーダーに就いては、私は適任者を推薦するに留まり敢えて参加は遠慮させて貰いました。多賀では新規ダム用を始めパイル用・PS橋梁用など特殊品開発、彦根NSP予熱機改造安定化、更に重要な一水会幹事会業務など優先すべきと思われる業務が多々残っていたからです。

これら多賀に於ける私の種々開発業務は、やがて二年後ですが社長提案に始まった本社での新リサイクル事業化の業務実現にと繋がっていったのです。之はEU(欧州連合)に遅れること四年ですが、我が国でも漸くにしてリサイクル法制定の嚆矢の役を果たすもので、通産省連繋での官民事業推進となり、経済的にも画期的な省エネ事業展開になったのです。やがて軌道に乗れば当時全国的な経済不況のさなか、セメント業界も経営上容易ならぬ時態に苦しんでいた故に、本事業の成功により忽ち当社としては数億の黒字転換、更には国家的にも画期的省エネ効果を見ては、やがて社長室に呼ばれ『この新事業成功こそは我が社期待の救い神である!しっかり頼む!』との励まし言葉を承けながら、当時社長に求められた握手の温もりと感動は未だ以て忘れられないものです。


8回・「本社リサイクルセンター開設」へ続く