2011年12月8日木曜日

人生と出逢い 第6回 「大学学部~応用化学科~へ進学」<前編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

応用化学科は希望者のラッシュ!

学科の選択

昭和二十四年四月より新制移行で学部二年進学と決まったのですが、問題は、学院入学の時点ではカリキュラムもクラス編成も理科と文科とに分かれているのみで、学部の学科別については学院卒業時の個人別申請により選別されるのですが、学部は学科別に定員枠(特に理科工学系では実験・実習・研究・卒論等々設備枠と、特に研究室枠に依る制限:例えば応化は四十名限定など)が決まっており、申請が定員枠をオーバーしている場合の選考基準は、学院での定期試験及び実力試験成績と、学部教授会の最終選考会議如何に関わっている訳です。ところで学院生個人サイドからの学部選択はと成りますと、将来目指すのが学究者であれ就職者であれ、狙いは何と言っても当世花形で且つ将来性有る業界・研究分野を目指して皆々殺到する訳です。

早稲田大学・大隈講堂

戦後産業界は不況のどん底

ところで当時日本産業界は敗戦直後の壊滅状態、未だ不況のどん底。ですから復興の見込みと将来性が最も有望視されていたのは、何と云っても先ず化学業界、次いで建築業界・電気通信業界の一部くらいのもので、国全体の復興ともなると、とても期待される状態からは程遠いものでした。基幹産業鉄鋼・電力を始め大多数の産業・鉱工業の火は止まり休業状態でしたから。

朝鮮動乱は福音??

そして産業復興の目途が見えてきたのは私達が学部に進学した翌年、昭和二十五年六月二十五日勃発の『朝鮮動乱』による米軍特需とそれに伴う棚ぼた式空前の産業復興でした。化学では火薬・合板など土木(武器?)、建設材需要と共に、所謂セメント・肥料・砂糖(又は繊維)の三白景気時代の幕開けです。セメント業界などは忽ち山のように貯まった在庫一掃は勿論各工場ともフル稼働、更には引き続く将来復興需要を見込んで各社共工場増設に乗り出す騒ぎでした。そしてこれを契機として日本産業界全体が奇跡の復興を遂げたのです。

38度線を境に泥沼の戦いが続いた朝鮮戦争

先ず一次・二次産業界の復活―昭和二十六年に始まる鉄鋼・電力・鉱工業業界の復活、港湾、河川、鉄道整備を含めた輸送機関・発電用と多目的ダム建設の推進、農村復活と共に農耕機器、肥料・農薬やがては繊維業界など各種産業が次々と生産を軌道に乗せて行きました。卒業前年昭和二十六年夏期に行われた関西・九州工場見学旅行では、復興する工場現場・研究所の先輩達に接して、その開拓者魂・希望に胸膨らませる姿には復興への確かな手応えを感じたものです。


学部編入も大競争

従って私達が学部に進学する当時の進学希望者は、応用化学科に約四倍、建築と電気通信学科には夫々約二倍という偏ったラッシュで、告示を見て皆初めて「えー?」と驚嘆させられたわけです。ところで私ですが、純粋興味本意に絞れば、中学時代から決めていた化学関係に絞る所ですが、その後海軍航空隊で可成り身に着けた電気通信・情報関係にも魅力があり(但し機械、機関関係技術は稍敬遠気味)捨てきれずにいたのですが、嘗て三井電化を識る父や富士電機勤務の兄の意見を参考に、進学は応用化学科と決めたのです。

そこで応用化学科進学者ですが、倍率から言うと概ね学院各クラスで成績五,六番以内の者と言うことに絞られそうですが、私の場合は応化がドイツ語・数学重視のお陰?か、何とか編入出来たと言う感じでした。結局学院全体としては、個人的希望は別として最終結末では、応化、電通、建築の他に電機・機械・鉱山・金属・土木・応用数学・応用物理・工場経営など含め工学系何れかに皆納まったと言うわけで目出度い限りと言うべきでしょう。そして今一つ気付いたことは、学院クラスでは軍学校出と中学現役組の比は概略相半ばすると言った処でしたが、応用化学科に来てみたところ何と約七〇%が中学現役組と圧倒多数で、しかも接していては彼等の若さの加減か、柔軟で諸事対応も素早く、可成りクリアーな頭の持ち主が多い感じでした。ですがクリエイティーヴな面となるとよく判りませんが?

現在、応用化学科学生が学ぶ早大・大久保キャンパス

卒業時にやっと産業復興?

ところで昭和二十七年四月卒業の時点になると、やっと産業界の復興も幅広く緒に就き、就職事情も稍々好転しつつありました。八月頃からの教授を通しての応化各研究室への直接求人以外にも、数十件の一般公募が入っていたように記憶します。これに比し、私達の一・二期前迄の卒業生では大手企業・研究所など殆どが未復興の状態の中、多くの方が教師とか公務員・中小企業など就職先が限定され大変苦労されたようです。

新制度下の学部状況

旧制高校の特質

さてGHQ指示による強制的な新制教育移行に対して、当時伝統を重んじる文部省・大学側は可成りの抵抗をした模様ですが、此処で旧制高校の教育重点に就き一寸触れておきますと、旧制高校とは国立では東京第一高等学校に始まり名古屋の八高その他官立の所謂ナンバースクールで、卒業後は東京始め各地帝国大学に殆どがストレート進学し、一方私立旧制高校では成城・成蹊・早稲田第一高等学院なども、卒業後は有名国・公・私立大学へ高率で進学し得る、資質・学力共に高水準の俊英教育を主旨とする場でありました。

旧制高校教育の主旨

旧制教育の主旨は、学生の自主研鑽を基に広い教養と大局的人生観教育を基本とし、国家社会を意識する構想を持した人物育成に主体が置かれて居ました。彼等は大学に進学するや、所謂『楨幹の誉(註1)』を胸に専門学究研鑽に励み、国家社会を支える有能な若者にと育成されて行ったのです。斯く日本の伝統ある優れた学制が、いとも簡単に破壊されてゆく。占領とは実にかかるものであったのか?何時までこの様な占領は続くのか?これからの日本は斯うした教育を受けた者で果たして支え継がれ得るものなのか?当時大いに困惑の渦巻く中で論じられたことでした。

現・成蹊大学も私立旧制高校のひとつである

学制改革のとばっちり

ところで当時この学制改革に直面した私達学生・教授共々ですが、新制度移行が強制的なのものとは云え、如何に旧制に劣らぬ実力を保持して乗り切るかと、大変な努力を強制されました。旧制高校三年学習分の補充も参考書と学習要領を教授に尋ねながら大部分を自習で補充し、更には卒業後社会に出ては、必ずや旧制教育を受けた者との質、実力差が問われる事は在学中から既に予想されることでしたし、事実後日社会に出ては忽ち厳しい給料格差着けなど現実となったのです。

ですから当時を振り返るとき、同窓生たち大分の者が口にこそ出さなくとも『大変だったな!』との想いに往事を振り返る事屡々です。語学ではドイツ語・英語、又基礎では物理・化学・数学の応用分野全般に亘る欠落補習は、可成り腰を入れた作業でした。私にとって昭和二十四年から二十五年春・夏と岡谷で過ごし補習に集中した休暇こそ、その点最も有効な時間でした。

註1
『楨幹の誉』とは「社会的に有能な人材」として公に評価され遇されること。

講義・実験カリキュラム(青字は老教授担当の講座

学部では講義・実験ともに本格的に専門化し、更に学部四学年では卒論研究がそれぞれ専門分野の研究室に別れての実施を待っている訳です。学課を並べますと「無機化学・結晶学・分析化学・有機合成化学・化学工学・物理化学・量子化学・化学ドイツ語・電気化学・燃料化学・油脂化学・高分子化学写真化学・発酵化学・定性・定量分析実験・卒論」以上が必須科目で単位を落とすことは許されません。

応用化学科創学の経緯

そもそも早大応用化学科の創立は一九一七年(大正七年)で早大創立の三五年後と遅いスタートであり、当時東大出身教授の小林久三博士の『新潟県村上産酸性白土(触媒)応用による石油燃料精製技術』が創学の基本となりました。これは当時日本石油化学業界の技術・事業発展の主軸となるものでした。以後早大応用化学科は酸性白土を主軸とする「粘土鉱物学研究室」並びに「燃料研究所」を中心に、以後広範な化学分野研究へと展開・充実を続け、今や総合化学研究の学府として今日に至っている。従って私が入学当時は、創学当時からの老教授陣は総て東大化学・物理研究室出身で且つドイツ留学者であり、以後此処に育った早大応化出身者が若手教授・助教授陣・講師・研究員として以後の応化全研究所・教室を受け継ぎ、新分野への研究拡大、例えば最近着目される東京女子医大との連繋開発で、遺伝子工学研究所発足など最先端分野への進出・挑戦にも意欲を燃やし続けている訳です。

東京女子医大・早稲田大の連携による先端生命医科学教育研究施設

教授陣と学習の意気

老教授陣は?(前述学課中の青字表示分野で示す

さて授業ですが、老教授陣の講座は「学究者権威の塊」とでも言うのでしょうか、何年前から編集したか判らないような一口で言えば古臭いノートを、教授が時間一杯ゆっくりと読み上げ、殆どの教授はドイツ留学の経験者即ちドイツ化学技術の流れを汲み、引用文献も殆どがドイツ語学習で、更に学生は試験で単位を落とす訳にはいかないのでその内容のまる写しが主体、質問時間も殆ど無く、とは云え学課内容の重要さも解るし興味もあるのですが、ツイ眠くなったりする訳です。

若手教授・助教授陣!

此処で次の時限が元気な助教授の講義と続く訳です。恐ろしい若手物理化学助教授の出番です。早大応化より東大大学院卒後母校に帰っては後輩のために教鞭を執ると意気高らかで、講義の半分は壇上よりぎらぎらと大きな眼で学生たちを睨まえながら、手製プリントで解説、後半は黒板上でその解析と補足説明、質問への応答、そして必要な小実験。最後には専門書名・英文参考文献を黒板上に書き殴りながら『皆良くやっておくように』と、一渉り学生たちをにやっと睨んで終わり。

早稲田大学・坪内博士記念演劇博物館(新宿区有形文化財)。
同大学の旧図書館と並び、日本学園一号館を設計した
巨匠・今井兼次博士の作品である。

量子化学の先生は金属工学科出身、米国留学后東大研究所を経ての若手の博士。アインシュタインの如く講義は全部数式展開で説明、具体的にはと皆に見せるべく取り出したのは、X線解析写真画像、これの現象はとの説明がまた粒子線散乱写真像ときてサッパリ内容も判らず、講義終了を待っては慌てて先生を追い「先生解らないのですが?」と、先生「当たり前です、解らないと思うから授業をやって居るんです!」と来て、手元の『量子力学』『X線解析法』『放射線化学』と言った参考書類三、四冊を示しながら「皆さんにも勉強するよう伝えて下さい!」と指示、皆で慌てて神田古本屋街を駆け廻ると言った具合で始まった訳です。(註1)今一人、化学工学の助教授もアメリカ留学帰りですが、なんと第一時限開始早々で米国工科大学から取り寄せた化学工学教科書(勿論全英文)を配り、忽ち英文講義が開始された訳です。赭ら顔で太って大きな身体なのに声は馬鹿易しく小さく、我々焦ってのノート書き取りも儘ならず皆顔を見合わせ目を白黒し、図書室での予復習は全英文で焦るばかり。

註1)後日、量子化学の先生のお話は「諸君は学部を終えれば、新制も旧制も関係無しに、いよいよ先端技術を以て社会に対応する覚悟でなければなりません。この量子化学もこれから来るべき先端社会ニーズにマッチする先端技術を重点に講義を進める積もりですが、私でも解らない未知の分野が結構多く、こうして専門書を持って授業に臨んでいるのです。これは学制改革がどうであれ、我々最高学府の出身者がこれからの社会に負うべき責務と自覚して貰いたいものです。重ねて皆さんの自覚を要望します。」と。

多忙の日々

かく進められる講義は老教授陣と新鋭助教授陣ほぼ半々の構成でその煩雑なノート整理、これら講義に付帯する専門書・外国語文献の図書室・家での予・復習、一日乃至半日に及ぶ化学分析実験では、分析担当講師確認を得るまでは夕方過ぎまで実験室足留め等々と「日々追い捲られっ放しの二年間」という感無きにしも非ずでした。加うるに年三回の定期試験前はこれまた大変です、試験開始一週間前頃から休みとなり、学生たちは、毎日それぞれ学科別分野別に得意の者を囲んでは四・五人グループで集まり、ノート整理と難問・奇問の試験予習、そして最後には皆で出題の山勘予想の詰め。何しろ難解な学課四・五科目を斯く短期間に消化するのですから、そしてこれが妙に生涯の友情と交友をすら育てて呉れたと言う事です。更にいよいよ三年目の仕上げは、十二研究室に別れての『卒論』が待ち受ける訳です。振り分けは先生の指名と各自研究申請の両方式を、最終は教授会決定に持ち越されます。

堤氏が通った早大・旧図書館(都選定歴史的建造物)。
こちらも日本学園一号館を設計した巨匠・今井兼次博士の作品。
階段や柱に日本学園一号館に通じる趣がある。

学の独立と気風

早稲田の杜に学ぶ者の余裕ある学風は、専門教育と並んで、実は人間教育により重きを置く伝統にこそ起因すると思います。即ち斯く多忙な学習の合間にも、交友あり、先輩でもある師との談論・コンパあり、早慶戦応援で万丈の気を吐き云々・・と後々迄懐かしくも忘れられない、数々の交遊の場にこそ学風は育ち受け継がれて来たと思われます。

葉隠こそ創学の根幹

それは創学の先賢大隈候の発祥が佐賀鍋島藩であり、倫理書『葉隠』魂を脊柱とする『学の独立・在野精神そして進取の気風』あればこそ、誇り高くもこの学風は支え続けて来たと云えましょう。この早稲田の杜に足跡を印し集まり散じた多くの卒業生が、社会に出ては『楨幹の誉』を胸に、他の如何なる国公私立大出身者に比肩しても恥じる事なく、青雲の気概に燃え、人間的にも大きな襟度を持って生きて行くことになる訳です。此処で当時の交遊関係に話を切り替えます。

佐賀藩士であった若き日の早大創立者・大隈重信

写真班に入会

写真班の結成

応化に入ってすぐ部活では写真班結成の話が出ました。内容は写真術の基本とも言うべき調色を基礎に現像・焼付け・引き延ばし・カラー写真技術の勉強をする会と云うことで、二階の暗室及び暗室前の薬品室を使い、希望者は任意参加方式当番制で開始されたのです。ところで写真班発足の言い出しっぺは、御父君がアマチュアだが有名な写真家の息子、二村君ではなかったかと思います。兎に角当時早大応化の講師であり、カラー写真技術では日本でも有数と言われる小西六写真専門学校の宮本教授(早大講師)にお願いしての指導とカラー写真技術の講義など内容も充実した班活動で、思い出多い会合でした。当時の班員は山下・二村・瀬川・古平の各君その他ということで、二村君がアマチュア写真家の御父君より譲られたローライコード二眼レフを誇り高く使うのが大変羨ましかったものです。

小西六写真専門学校(旧・東京写真大学/現・東京工芸大学)

暗室では?

化学屋にとって写真と言えば矢張り先ず暗室の作業です。私にとっては海軍時代以来のことで、あの鹿島空でやった暗室での想い出にも繋がるものでした。それは航空写真の合間に頼まれてはやった、あの現像と共に次第に現れた同期の戦友の笑い顔の面影です。想い出が次々と複雑な想いに繋がってゆく瞬間でもありました。然し概ね皆との写真作りは大変楽しいものでした。級友の家族や美人の妹さん等々、調色写真作成から焼き増し・現像など頼まれては随分手掛け、時に級友から妹さんの引き伸ばし写真現像を頼まれ、慎重に暗室で処理最中など突然横から「美人でしょう如何ですか?」など済まし顔で声をかけられ、「エ?」と胸の裡本心を見透かされた様でドギマギしたりしたものです。

二度三度とある中では、後日卒業式の大隈講堂前で、なんと例のご本人を連れたこの友人と出遭うや華やかにも紹介され、対すればすらりとモデルの様に背高で写真以上の美人ときては呆ーッとし、然もその場に居合わせた級友四.五名に取り囲まれてその視線は興味津々。もう只々身体が硬直し熱くなるばかりの体たらく。ところで写真には不思議な魔力があり、気持ちを入れて看ていくと、単なる映像以上に、当時の本人の心境・環境、場合によると人生観すらも垣間見せられるものです。ですからお互い写真以来始めての出遇いであるのに、今眼の前に佇む彼女は、もう何年も前から私と識り会っている様に、美しい瞳は無意識にきらきらと輝き頬笑みかけているのです。暗室で現像している時でも同様で、次第に姿を現す人の顔は、それが男女誰であれときに活き活きと、やがて私に問い掛け笑い掛け、ときに寂しさすら思わせ、此方の胸の中に響きを以て語り掛けて来ます。そして写される方の思いより実は寧ろ写す方の意志により多く内容が左右されることも忘れてはならない事です。以心伝心。

ローライコード二眼レフ

写真との出会い

私も小学校三年位の頃から、長男次男が買って貰ったさくら暗箱式カメラを使ってみたり、兄貴達が押入を暗室替わりに夢中になって現像・焼き付け・引き伸ばしをするのを手伝ったり、父から幻灯撮影機を買って貰ってロイド、チャップリン、キートンものなど短編喜劇撮影会に参加したりと結構小学校入学当時から写真には親しみを持っていたものでした。ところで海軍に入ったら飛行機を操縦して敵との交戦が主任務だとばかり思いこんで入隊したのですが、練習生教程が終了し偵察飛行任務に着いてみると(飛行訓練では成る程操縦・発着訓練そして計器操縦・機銃射撃・仮設爆撃訓練等もしたのですが)、何とやれ通信受発信だ、計器整備だ、レイダー試験操作だ、航空写真撮影と処理の方が主任務であり、特に鹿島空に着任するやもう写真班で明けても暮れても鹿島灘・東京湾地区の警戒観測・偵察写真撮影・現像・引伸し・解析の毎日でした。一方で同期の桜は前線で命懸けの激突をし、その成果如何が刻々伝えられて来るし、肝心の当地での航空隊勤務は、極端に言えばまるで写真のために海軍に入って居る様な気にさせるものでした。兎に角そう言う具合で何だかだと写真とは子供の時から永い縁があったことを申し上げた訳です。

理研化学のアルバイトで大失敗

さて早稲田の写真班員と云うことで、当時慶応在学中の中学友人不破君の御父君(日本中学・早稲田政経学部卒の先輩)からは経済雑誌に掲載する宣伝写真を撮ってくるようアルバイトを頼まれ、二村君と一緒に理研化学に出掛け合成酒「利休」の宣伝写真と云うことで研究室の写真を撮りに行ったのです。ところが二村君がローライコードを構え私がフラッシュを焚いたのが大失敗!テーブル上一杯に置かれた研究用「利休」フラスコ群をフラッシュ粉塵で全部お釈迦にしてしまったわけです。まあ学生と云うことで平謝りに謝って事は済みましたし、封筒に入った何某かの宣伝費謝礼と、その上「利休」を二本も戴いて意気揚々と雑誌社に帰ったのですが、雑誌社では専務さんが待ち構えていて二村君共々しっかりお叱りを頂戴したと言うわけです。猶「利休」一本は社長宅に届けるよう云われ、先輩でもあり業界経済紙社長の宅に伺うと、上機嫌でその晩は社長・中学友人(慶応卒後当時アメリカ銀行勤務)の不破君・二村君・私、社長夫人家族も入って鍋料理で賑やかな宴会となったのです。

合成酒「利休」の生みの親、鈴木梅太郎(理化学研究所設立者)。
「利休」は現在でもアサヒビール㈱に受け継がれて市販されています

会社入社後も大活躍

後日私が会社勤務になると、入社早々に本社の新工場建設部に所属した関係で、本社工場敷地内で行われたドイツよりの輸入設備性能試験資料用とか、学会発表論文用など添付写真資料作成用など早速役に立ったと云うわけです。当時戦後初めて国産一号で売り出されたばかりの、高価な小西六社製コニカⅡ型なども、通常の社員給与ではとても手に入らない代物でしたが、三白景気に湧く会社で、昼夜連続に行われる試験立会など膨大な残業手当のお陰で、入社三ヶ月後には早速購入することが出来て役立てたというわけです。 

6回・後編「大学学部~応用化学科~へ進学」へ続く


2011年11月7日月曜日

人生と出逢い 第5回「早大・学院へ!」<後編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)
 
学院のクラスルーム          

クラスはIJのJ組、担任は国文学(万葉集)山路平四郎先生でした。IJから始まり全クラスでは一体何クラスあるのかな?とか考えながら一年が過ぎ二年でクラス編成替えがあり、自分がPクラスになってみて同学年はどうもJクラスに始まりRクラスくらい迄一〇クラス(約四百名)はありそうだな、とやっと解ったくらい正直のところ同級生皆さんそれぞれの抱える苦労とか、事わけについては、無関心で暢気で、あまり熱心ではありませんでした。ですから学院二年の時に全国学生連盟(共産党員が主幹)が主導で授業料値上げ反対運動が展開され、その一環として高等学院をも巻き込んだ例の学期末試験ボイコット事件がありましたが、その際、葉山在住同窓の山元雄二郎君(電気通信学科卒業直後アメリカに留学)から『自分は母親一人の力で育てられていて、ボイコットに参加してまさかの留年など許されない、申し訳無いがボイコットには参加できない』と真剣な面持ちで詰め寄られたときには、暢気な私も胸が詰まり吃驚したものでした。


現在、応用化学科の学生が学ぶ早大・大久保キャンパス

自分では気が付きませんでしたが、周囲の友人達からは何時の間にかそんな目で見られていたのかと反省したものでした。当時は、岡谷時代から読み込んでいたニーチェ「超克の哲学」、ベルグゾン「生命の哲学」、西田幾多郎「善の哲学」の諸哲学に加えて、労働運動の激化に刺激され、唯物論哲学などにも多少興味を持っていたので、学内唯物論研究会(実は共産党のアジト)にも純学問的な興味を持ち時に顔を出したり、クラスでは長谷川四子男君につられて訳の解らぬ事を喋ってみたりしていましたが、ボイコットの主推進者が唯物論研究会の彼等なのを横目で見ては『アジルのはいい加減にしろ、学園なのだから』と呟いたものでした。当時日本共産党内でも学生運動に反対の宮本顕二と賛成派の徳田球一の対立はよく新聞面で報じられるなど、社会運動も足が地に着いてない中、学生運動も幼稚というか混沌とした時代でもあったのです。

同窓では、建築科に行った寺本俊彦君・福田尚君始め土木工学科の坂井豊君、電気通信学科の坂口敏郎君・山元雄二郎君、応用化学科の瀬川幸雄君はじめ皆々決して忘れることの出来ない懐かしい方々です。ただ奇妙なのは学院・応化時代通して一緒で、その後私の結婚式に迄唯一出席戴くなど交際の一番長い筈の山下博万君の顔がJクラス時代の思い出にはっきり出てこないのが、何とも合点が行かず未だ以て不思議な思いです。


当時瀬川君は現在私が住んでいる荻窪の家から歩いて一分位の所に居られ、物置には驚くほどの薬品類を持っていて、化学実験をするのだと面白がっていたものです。彼はフルートに凝っていて音楽好きなものですから、当時設立されたばっかりの日本フィルハーモニの会員でもあり、私も誘われて歌劇カルメンその他二、三回観劇にお付きあいしました。

今から一〇年ほど前に二村君・坂口君の両君から、便りと一緒に戴いた名簿で解ったのですが、IJから応化に進んだ方はIクラスからは打矢文俊君、宇野沢敏郎君、小磯洋一君、二村隆夫君、林達也君、福島保善君。Jクラスからは木村仁太郎君、瀬川幸雄君、長谷川四子男君、山下博万君の各氏でした。

青春の血に燃えた早慶戦

戦後リーグ戦が復活したのが昭和二十一年で春は慶応、秋には岡本投手らの活躍で早稲田が戦後初優勝したそうです。昭和二十三年にはシベリア帰りの石井籐吉郎らの活躍で優勝。以後毎年のように石井・末吉投手等々の活躍で優勝を重ね、学内の野球熱は弥が上に盛り上がっていったのですが、私達が早稲田に入り学部に進んだのは丁度そうしたときでした。分析実験を終えて薬品に薄茶けた白衣を畳み、応用化学科の建物を出るとすぐ前が戸塚球場、課業時間外ともなると、のんびり出掛けてはベンチに座り込み、選手の練習ぶりを眺めたのが今でも懐かしく思い出されます。早稲田中学出身で根っからの早稲田マンを自認していた二村君は『あれが荒川だ!向こうが岡本だ!若いのが石井だ!』と指差しては教えてくれたものでした。

在し日の戸塚球場。球場下に堤氏が学んだ早大応用化学科の校舎が見える。
当時、早大学院は早大早稲田キャンパスの校舎を使用していた。 

昭和二十五年秋の早慶戦は優勝を賭けた一戦で切符も手に入らず、二村君や瀬川君等とネット裏一般席で応援、見事優勝に酔った最高の時でした。確か以後早稲田は黄金時代を迎え三連覇を成し遂げている。早慶戦と言えば例年のことで後は必ず新宿に繰り出し、仕上げはビアホール「ライオン」と決まったもの、応援歌・校歌の大合唱で若き青春の血潮を湧かす一刻でした。

ドイツ語とのなり染め
―学院Pクラス担任中村英雄先生―

第一次世界大戦下ドイツの銃後家庭について

私のドイツ人とかドイツ語への関わりは古く、確か小学三年生の時二、二六事件のすぐ後で積もった雪がまだ融けきれないうちの事ですが、父の購買組合会員のための一連の講演会など催事企画が当時幾つかあり、その中の一つとして荻窪の天沼教会(今の東京衛生病院の敷地内)のアメリカ人牧師とその奥さん(ドイツ人で当時衛生病院看護婦長)をお招きし、『第一次世界大戦中ドイツ銃後の実情報告を聞く』と題しての講演会を日大二中の講堂を借りて催しました。

私も父に云われて横から拝聴したのが最初の関わりです。夫人の流暢だがドイツ語訛りの日本語と、情熱的でしかも暖かみに溢れた口調で、『当時の驚くばかりの厳しい銃後ドイツ家庭』の話しに非常な感動を覚えたものでした。当時の日本の社会環境では未だ厳しいドイツ銃後家庭の暮らしぶり、草の根・木の根・昆虫・小動物までも食料としたお話は中々理解を超えたものと聞いていましたが、その後の日本はまさにその通りになってしまったわけです。戦争回避が出来れば最も良かったのでしょうが、たとえ戦争回避が出来なかったとしても、戦中銃後の悲惨さを今少しでも皆理解して居れば、その犠牲を如何にしても最小限度に食い止めることぐらいは何とかなったのではないかと今にして悔やまれることです。或いは個々の自覚を広めるとか、原爆投下以前の問題として、東京はじめ広範な空襲被害を未然に避け、早期終戦の招致により特攻など人・物の損害を最小限度にする努力など出来なかったのかと残念で仕方がありません。

堤氏が小学生時代の天沼教会の佇まい。

当時ドイツは同盟国として友好ムードで受け入れられていましたので、そうしたドイツ人婦人による反戦すれすれの話も実現できたのでしょうが、ことアメリカ人に対しては特高警察がスパイ容疑を以て可成り厳しく四六時目を光らせ始めた時代でしたので、会場内に特高こそは遠慮して姿を見せませんでしたが、終始巡査が入口に立ち番をして会場に鋭い目を投げ掛けたりしていましたし、昭和一五年頃には結局、牧師は米国に強制帰国を命じられ、ドイツ人なるが故に奥さんが一人で終戦まで協会と病院看護の仕事のとり仕切りを続けられたそうです。丁度私が中学一・二年の時代ですがドイツがチェッコに侵攻を開始し、更にヨーロッパ全土の支配に向かって驀進するニュースとかヒットラー・ゲッペルスなどの映像には、私も異常に高い関心と興奮を募らせ、当時早大在学中であった長男のドイツ語参考書を引っ張り出しては単語を憶えたり、通学鞄の上にドイツ文字でイニシアルネームを大書して得意がっていたものです。

ドイツは何時まで最先端技術国であったか?

その後海軍に入隊し、練習生教程を終へて呉空に転任すると、水上機瑞雲による戦艦扶桑からの発着艦訓練の合間ですが、なんとその三ヶ月間ドイツ人講師によるドイツ語の特訓(特に主体は海軍用語)にあずかり、さらに佐世保空ではドイツ語電文の受発信・暗号電文解読実務にも従事したのです(当時暗号作成解読など情報技術はドイツが世界の最先端とのこと)。ところで学院に入学当初は、第二外国語は格好よくフランス語をもやりたいなど思ったのですが、終戦当時の日本の技術の規範には未だドイツ技術の影響(特に大部分の大学教授連の学術の基礎)が主力となっており、正式単位としての第二外国語もドイツ語と決まっていたわけです。特に大学の応用化学科技術関係では、化学ドイツ語が必須科目と云うことで、結局可成りの力と時間を割いて、ドイツ語の学習をせざるを得ない羽目になってしまったのです。

文献調査はドイツ語から英語圏へ

ところが学部は応用化学科と決まり、当時教授陣営はと言うと、創学の老教授陣の大部分は東大出・ドイツ留学経験者でドイツ語文献組なのに対し、若手早大出・助教授陣は殆どが欧米留学組で英語圏文献が主流と云うことです。特に化学工学の先生は、なんとアメリカ工科大学の教科書使用で総て英語で講義という訳です。ドイツ語だけでも専門用語だらけの文献調査と、並行しての予復習は容易でないのに、更に重要な化学工学など全英文の教科が加わるのですから、消化し追いつくのが大変で、応用化学科図書室を文献調査でフルに使ったものでした。更には大学卒業前一年・卒論の頃ともなるや、何とドイツ先端技術の大半は、アインシュタイン始め優秀なユダヤ系ドイツ人亡命など含め、既にアメリカNASA宇宙局技術文献に大部分が吸収され、更にこれをベースとして、以後の高度研究開発も総て英語圏文献に補充登録済みであり、結局我々大学卒業前後頃からの研究用文献調査の対象は、殆どが既に英語圏文献に移っていたという訳です。これからの研究者は学術専門英語を更に勉強せよと云うわけです。

旧早稲田大学図書館。日本学園一号館を設計した本学OB・今井兼次博士の設計であることはあまりにも有名。

学院二年担任はドイツ文学の中村先生

一学年はIJクラスでしたが、その後二学年ではOPクラスに編成替えになると担任としてドイツ語教授の中村先生を迎え、早速ベートーヴェン第九番シラーの『歓喜の歌』原文を、先生指揮の下クラス全員での唱和から始まったのです。その若く魅力的な人柄と指導で益々ドイツ語にも力が入り、お陰で二年二学期の試験ボイコット事件に続く実力試験では、特にドイツ語は可成り出来た積もりでした。学科全般では自信がなかった私が、厳しい学科編入競争の中で応化進級を果たせたのも多分にドイツ語の成績のお陰ではなかったかと思います。

ヨーロッパ文化圏で役立つドイツ語

後にヨーロッパでの学術会議で西ドイツ・スイスへの旅行の際にも当時は可成り役に立ちました。今は殆ど忘れてしまいましたが、それでも現地に行けば結構単語も次第に思い出してくれますし、案内広告などの読み下しには苦労しません。何日か滞在する間には耳も慣れてくるし、断片的には聞き取れる部分もあり嬉しくなったりします。

懐かしい天沼教会のドイツ人牧師婦人

今私は東京衛生病院で禁煙会の会長をしていますが、四〇年前に米国禁煙法を日本に初めて導入した林前院長は、偶然ですが私と同年の生まれで、軍医の子息として少年から中学時代も私と同じ西荻窪の南に住まって居たそうです。唯、小学校は私と違い、軍人・政治家子弟が多く在学する番町小学校ですが、荻窪の家庭教師に毎日通っていたとかで、その当時から私同様に東京衛生病院・天沼教会も知っていて、その後慶応の医学部から米国ローマリンダ大学医学部研修医を経て東京衛生病院に派遣されて来たそうです。ですから私の少年時代の思い出の教会牧師夫妻のことは勿論私以上によくご存じで当時の牧師夫妻とも面識もあり、お互いその様々の思い出を語り合い、奇遇にはあらためて驚いたり懐かしがったりしたわけです。

昭和15年当時のアドベンチスト会衛生病院 

学院生活の纏め

学院の生活は二年で終わった、私達の学年は旧制高校制度で入学したので三年間で卒業の筈でしたが、昭和二十三年にGHQによる学制改革(所謂六・三・三・四制なる悪法)指令が出され、新制移行が決定、昭和二十四年より旧制高校三年生進級の予定であった私達も新制大学二年進学に切り替えられたのです。日本国中多くの学生は勿論先生方にとってもこれは大変迷惑な話であった。

さて、この二年間の学院生活を振り返るとき、当時の私自身の心境では、少なくも過去十年間、あの中学・海軍時代と命を懸けて生きぬいた戦時激動の時代に比すれば、一応安定した環境の下で、大学進学を目標とするに充分な学力、思想の基礎固め、第二の人生の目標・志を確立するといった、それなりに重要な時期ではあるが、一方淡々として平坦な道程でもあったと今までは記憶していたのです。

早大応用化学科を統括する「応用化学会」会旗。 

ところが、実はこの六十余年の永い歳月を経た今にして、大変大事な忘れ物に気が付いたのです。実はつい先日、早大応化恒例の同窓会「七夕会」の案内と名簿を作っているときですが、ハット思い当たったのです、何と彼等は殆ど学院時代からの同窓生であり、しかも六〇余年と言う永きに亘り、身内以上に深い心のつき合いをして呉れた方々であったと。そして想いは広がり、応用化学科の方々のみならず、更には他の学科に進学後それぞれに、広く日本の官界・業界・教育界等々に進まれ、綺羅星の如く活躍されている学院時代の級友達・数えきれぬ程の方々が、今出遭う機会さえあれば、暖かく悠たりと『ヤー元気ですね!』と声を掛け合えば、余計な言葉は一言も不要といった交際が出来る仲間達でした。学院の二年間とはそうした人格の触れ合いの中友情を育て、生涯の友に廻り会う場だったのです。永い友情の重さを今更ながら
堪え兼ねる程感じている私です。

同窓会

卒業以来毎年欠かさず行われてきた同窓会ですが、素晴らしい友情の場であり、懐かしくも近況を語り、柔軟に冗談を飛ばし、本人家族共々の健康を祝い、談笑し、校歌斉唱のうちに再会を期して別れた訳です。「また来年の七夕会で!」と。

友情への想い
いつものことですが、友人達への想い出とその俤は、珠玉の宝石のように暫し目の前に輝き、やがて「スゥー」と胸の奥に消え去ります。皆学院時代が遺して呉れた私の最大の宝物です。ところで学生生活が始まった当初ですが、私は今後当分の間は、恐らくは過去のこと、海軍時代を含めて、一切を誰にも語ることはないと決心したのです。当分は学生として心機一転して新たな学問の世界への挑戦に集中し、只々前向きに取り組むべき人生が始まったのですから。そして私の周りにあって親しい友人達の多くも、当時の私の雰囲気からして、何か相応の理由があるのだろうと概ねは察するに止まり、敢えて何も詮索など控えて只々私の横にあって、必要最小限に語り合って居ればそれ丈で充分という位置を保っていてくれたのです。


早稲田大学・大隈講堂を臨む。

それから六十余年という時間が経ちました。当時と変わらず友人達は暖かく見守るように私との交遊を暖め続けてくれています。ですから、二・三年前から初めて書き始めたこの自分史に述べてきたような内容は、今もし興味を持って目を通して戴いている方があったとすれば、本当に申し訳ないことですが、今まで友人の皆さん始め周辺の方々、家族にも一切語らずに来たことなのです。

永き良き友
思い出せば爽やかに心和らぎ落ち着ける友。
思い出せば励まされ元気湧きいづる友。
思い出せば憧れで胸が熱くなる友。
思い出せば懐かしく酒飲み交わすべき友。
思い出せば永く何時までも阿吽の友。

6回・前編「大学学部―応用化学科―へ進学」へ続く

2011年10月16日日曜日

人生と出逢い 第5回「早大・学院へ!」<前編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

学院入学の経緯

戦後の激烈な競争率

進学目標は一応早大高等学院においていたのですが、前述したように、敗戦後のこの年は旧陸海軍学校生徒並びに復員者は、G・H・Q指令により国立校入学枠が無く、そのため彼等は皆私学受験に殺到する始末であった。従って学院理科受験の競争率は何と四十倍という激しさになり、文科でも十数倍という厳しさでした。

一方私としては、学問をやるからには今後何年でも納得のいくまで勉学して実力を付け、できれば医学(それも精神医学とか遺伝学など)か数学者、或いは大手企業の技術者であれ、「兎に角国の再建に大きく役立つための進学なのだから」と割合暢気で、必ずしも早大に進学先を絞ったわけでもなく、寧ろ合格できるところであれば、其処を天命としてスタートすればよい位の気分でもあったのです。但し敗戦以来鬱積する気概としては「本来国が目指した世界一流実現に向かって、面目一新の第二ラウンドであり、今度こそ失敗は絶対許されないのだ」という情熱に燃えていたわけです。

早稲田大学高等学院校舎(現在)

入学試験は?結果は?

ところで早大入試試験問題ですが、前述したように大変な競争率なのでさぞやレベルが高い難問で来るだろうと覚悟を決めていたのですが、何と期待に反しこれでは、殆ど誰でも容易に解けそうな問題ばかりなのです、想うに戦後現役受験組の学力低下に配慮したという訳か、特に英・数(一部物理・化学応用問題も含めて)では物足りない程易しく、『こんな出題レベルでどう実力差・試験合否を決められるのかな?』など疑問を持ちながらも、兎に角早大高等学院理科・文科双方に合格した訳です。

早大学院キャンパスに咲き誇る桜 

さてそうなると、元来理科系重視の父は理科に進むのが当然と言い切っていますが、私は哲学の方に半分以上興味が傾いておるし、また一方では精神医学・遺伝学など基礎医学にも未練があり、父にどう話を切り出そうか、多分頭から反対されるだろうなどと悩んだ末、切り出してみたのですが、案外父も慎重で、身の廻りの人々一ダース程の事例を引き合いに出し、今の日本のインフラ見通しはまだ混沌としているし、先ず入学を優先して世の動きを考えるのも良いのでないかなど話し合った末、結局浪人をしてまで今から医学者を目指すには歳を食い過ぎているし、哲学も反対ではないが、当分は就職なども含めて生活も難しいのではないか?ということで、取り敢えず早大理科に入って勉学を積みながら次のステップを考えたらどうかということでひとまずその場は決着をつけられたわけです。

新たなスタートへ

戦時下自分の運命を賭けてスタートした中学から海軍時代が、結局は敗戦という憂き目を見る結末で終わった訳ですが、とは言え想像を絶する厳しさもそれはそれなりの貴重な経験―死線を超えての生き甲斐と悦びをすら経験する機会―でもあったのです。そしてその後に続く交響詩に彩られた信州岡谷での田園生活は、そうした『生きる悦び』を私の『生きる意志』として確立させ、今はこの碩学への出発をも鞏固に支えて行くのだと確信させるものでした。

中学同窓では帰還兵の加藤君(落語家三遊亭金馬師匠の長男)も慶応の理科に合格し、そこで中学の友人達数名で連れ立ち、春爛漫桜花綻ぶ上野の森に繰り出し、逍遙し、語り合いそして祝って呉れた一日でした。


戦後の生活は貧困の極み

貧困と荒廃の世相

ところで私が受験のため東京に出てきた当時、昭和二十一年夏頃から二十二年春頃の東京は勿論、焦土化し果てた主要都市の市民生活レベルは酷いものでした。経済状況は戦時中より更に悪化し、米の配給は勿論、あらゆる生活物資の入手は殆どゼロに近く、闇物資や農家からの食糧買い出しばかり忙しく、また農地改革法・公職追放令・労働組合法・学校教育法等改正法が次々に公布されても、生活は悪化の一途を辿り、闇市全盛・インフレー進行の中、ゼネストだ、食糧メーデーだのと世は挙げて騒然とするのみで、あらゆる企業活動も低迷、貧困、失業増大と最低の様相を呈しておりました。私どもも岡谷からの補助は助かりましたが、総じて物不足は免れず、月一度はボロ服を纏ってリュックを背負い、農家に薯や野菜その他、日曜早朝から買い出しに出掛けねばならない状態でした。

終戦直後の買い出し列車 

ですから当時の日本人の顔には、誰も彼も皆々暗い疲れを滲み出させていたものです。貧乏に耐えながらも誇りと生きる気力だけは失うまいと歯を食いしばっていたわけです。但し当時私の心情面から云うなら、社会状況が悪化すればする程、却って復興の希望に向かっての情熱は益々膨れ上がると言った具合で、要するに次に来る時代の大いなる繁栄と自由を信じればこその気楽さに、寧ろわくわくしていたのかも知れません。

復興への苦闘

当時日本人の一人一人皆が共通して自覚していたことは、「貧困と荒廃のどん底にあり、然もGHQの支配と精一杯闘いながらも、日本再建には力の限り取り組んでいる国の施策を当てにするよりは、今は寧ろ先ず個人が再建に起ちあがり、よりよい生活環境は一人一人が築き挙げて行くしかない」との自覚が横溢していたと思います。私の父なども事務系なのに、発動機の在庫探しに狂奔の毎日でしたし、学生の多くの者が進駐軍関係などアルバイトで学費は勿論、親・家庭を助けての生活費の維持にすら必死で協力した日々であったと想います。日本国中皆が斯く努力する以外前途は開けないと覚悟していた訳です。

都下ターミナル駅周辺の闇市風景

学校休暇は岡谷で

昭和二十一年、二十二年中は父と親子やもめで寮での自炊生活(母は岡谷に残り農耕生活)でしたが、早稲田への通学が始まってからは、私は春・夏・秋・正月の各期末試験休暇(合計で年間約四ヶ月)は母と交替しての、岡谷での留守番兼『晴耕雨読』。春には四季農耕の準備に追われ最も大忙しですが、時には、夏、飯田の農学校教諭をしている兄と共に北・南アルプス(白馬・乗鞍・駒ヶ岳)に登山。諏訪周辺で冬期にはスキー・スケート・温泉に遊び、秋には兄と共に飯田の大和館なる肉料理店でご馳走になると言った生活でありました。

東京に家を新築

昭和二十三年四月、東京志村に本社があった父の勤務する会社の援助もあり、念願の我が家を志村坂下に新築することが出来、父母と一家三名で暮らすことになったのですが、岡谷の社宅の方は二十五年春まで学校休暇を利用しては、四季継続して留守番兼農耕に相変わらず通い続けた。まるで別荘通いの観もあったが、約三年に亘る学院・大学休暇利用の岡谷での一人暮らしは、お陰で学校教科を補充してドイツ語・物理・化学工学・数学など大分冊の専門書を専攻し、誰にも邪魔されず読了する為に大いに役立った。

雪解けの春を迎えたJR岡谷駅

時々様子を見に飯田から出掛けてきた兄貴は、イイ若い者が本の虫になっているのが気に入らないのか「お前学者になる積もりか?」など胡散臭そうな顔をして睨まれた。兄貴は好く普段から『学者くらい詰まらぬ者は無いよ!』と言い切っていたから。

岡谷市今井区長I氏のこと

今井の郷の区長I氏との出会いは、私が海軍から帰った直後の昭和二十一年年頭の区会に、父の代理出席した折の出会いに始まります。I氏は戦時中東條嫌いで有名な中野正剛(福岡藩士家に生まれ、早大政経卒後、朝日新聞記者を経て衆院議員、戦時中は右派的なところもあったが、どちらかと言うと自由主義者で憲政会、東方会総裁として、後朝日新聞紙上に米英との早期講和終戦を標榜し、昭和十八年二月に赤尾敏らと共に東條批判を展開、憲兵隊に拘束された後、国士頭山満翁の庇護を受け乍らも昭和十八年十月二十六日自ら割腹自決して果てた、後書生達から数多の名士議員が輩出している)の秘書であった関係で政治倫理も詳しく、どちらかと言うと自由民権派であり、戦後国政にも関心が高く、後に県会議員を経て国会議員を勤めたと聞く。ところで当時私が海軍から帰還後、黙って農業に打ち込んでいる姿に興味を持ち、以後区会のみならず、彼が主催する談話会にも度々呼び出され、懇談会後の意見を発表させられたりしたが、どちらかというと信州人でありながら、理屈よりも彼の人間性の広さが私にとっては魅力で、其れがとりもなおさず当時気持ちの上で多少鬱積気味であった私の胸に、時に涼風を吹き込む如く救いとなり大変有難かった。遠く空を見上げる開放感と再起への意欲を掻き立ててくれた訳です。

中野正剛1886年明治19年)~1943年昭和18年)

一方彼にとっても私の海軍から岡谷での経験・感想は大変参考になると耳を傾けて呉れたものでした。東京に進学してからの三年間、東京岡谷を往復し乍ら今井に在住している間も、時々彼の懇談会に呼びだされ、GHQとか荒廃した東京周辺の再建状況など意見を聞かれては話す機会を持ちました。私の立ち直りに手を差し伸べてくれた大事な方々の一人でした。地元インテリ層の文化部会長など顔役的立場にあり、懇談会・集会・盆踊り会など良く引っ張り出されたりしては、お陰で地元青年達との交流の機会にもなったわけです。但し飯田の兄貴には余計な虫が着かないかなど多少気を揉ませたようですが、私は余り気にもせず、相変わらず『晴耕雨読』の青春と高原の気を満喫しては日々を楽しんでいたと言うことです。事実大分地元青年や娘さん達も紹介され交流の機会はありましたが、この方達とは飽くまでグループ内での出入りに止まり、個人の段階にまで至ることはありませんでした。

本田宗一郎氏との出会い

此の二十三年四月になると、父は勤務先の東京発動機()が主力製品として事業推進を決定した、原付自転車開発・製造から更にオートバイ製造事業(本田技術研究所と一部技術提携)本格化に見合って、販売会社を本社方針で独立させ、父は社長として業績拡大に多忙の極みと言った状況であった。本田社長との付き合いも此の頃から頻繁になった様で、当時設立したオートレース協会の会長として、時々同役員であった本田社長とも会議のあとで付き合いがあり、当時私も父からお会いしておくようにとの計らいで、三度ほど本田社長との酒宴の席でお目に掛かり人柄の片鱗に触れることがあった。当時は未だ自転車屋の親父然と云ったふうで飾らない人でしたが、父と交際でどんなに遅くなっても、当時未だ暗い東海道を必ず愛機オートバイを飛ばして、浜松まで帰られる決めを崩したことはありませんでした。

本田宗一郎1906年11月17日~1991年8月5日

本田原付自転車第一号に試乗

関連して忘れられないことは、昭和二十三年春に本田技研で原付自転車一号が試作されて間もない土曜日、『お前、今日は一寸家に居てくれ』。と朝言い残して出掛けた父が、突然、昼過ぎに原付自転車を引っ張って来られた本田社長と共に我が家に現れ、『お前飛行機に乗っていたのだから一寸此奴を試運転してみないか?』と言うのである。勿論私としては『原付き』などは飛行機に較べては玩具程度のものであるからと、早速スロットルとチョーク作動、ペダル踏替えを確認の上で、見守る二人を後ろに、家の前から交番間の舗装道路五百㍍程を、二・三回高速・低速切り替えで試運転往復し、本田社長に『音が低くてエンジン調子も良好です!但し変速時に躯体に多少がくがく振動がきて一寸耐久性が?』とお返ししたのですが、本田社長もにっこりと笑って『うん!』と頷き返されたのが今でも忘れません。それから暫く後にですが、本田技研に次いで父の務める東京発動機でも原付生産を中止、オートバイ生産を本格的に発表したわけです。私は当時、父も本田社長も、根っからのオートバイ好きで気が合っていたのだなぁ!と思いました。

ホンダ技研第一号車

しかし当時は、幾ら父から「偉くなられる方だよ」等と云われていたとは言え、まさか後にあのような日本を代表する立派な経営者になるとは夢にも想はなかった次第です。

:父は若くして、三井勤め大牟田住まいの頃から、休暇にはハーレー・ダビットソンを駆動しては有明海に鴨猟に出掛ける程の根っからのオートバイ好きだった訳です。 

東京で迎える新年

昭和二十二年元旦、戦後東京で迎える初めての正月でしたが、酒等は愚か米も満足に口に出来ない状況で、それでも明治神宮に参拝に行く道すがら、格好良くターバンを巻いたインド軍守備兵が代々木口を警備して居るのが珍しく、写真に収めようと構えると、彼等は大真面目に緊張して整列・不動の姿勢をとり、撮り終わったところでニッコリ笑って敬礼を返してきたり、お洒落なカウボーイハットで気取っているが、でもアメリカインディアンのジェロニモには絶対敵いそうもないオーストラリア兵や、黒人・白人・日系人米軍将兵など、多様な人種が自由に出入りするGHQ総司令部(第一生命館ビル)前で、ロイヤル・スコットランド騎馬軍楽隊の行進に出遭いますと、その二〇騎程の先頭で、大きな真鍮のタクトを自信満々に振りまわす、カイゼル髭の騎乗指揮官が、私共に目配せしてニッコリ笑って通り過ぎる気軽さには、平和な時代が来たことをゆったりと感じをさせられながらも、一方この占領軍連合国が一体これから日本をどう裁きどう変えて行く積もりなのかなど、将来に向かっては一抹の不安も捨てきれず、正月早々とは言えつい緊張感で気を引き締める一刻でもあったのです。

連合国軍最高司令官総司令部時代の第一生命館(1950年頃)


入学式そして教室・授業等々

早稲田の入学式

入学式は四月初旬大隈講堂で約一千名の新入生を迎えて壮麗に始まりました。軽音楽部員による『モーツァルトの典礼曲』『弦楽四重奏・四季』の演奏と華やかに始まり、大学総長・高等学院長をはじめ綺羅星の如く老教授連が入場し、創学の精神表明、新入生への祝辞に続き、壇上二・三十名の応援部員リードのもとで校歌斉唱に酔う一刻でした。この刻から大隈候により創学された在野精神のもと、早稲田マンとしての学生生活が始まった訳です。

終戦直後の教室

さて、入学後始めて教室に入ってみて驚いた、第一高等学院の教室がないのである。爆撃で戦時中に焼失して我々は第二学院の教室を共用というのである。暖房設備もなく寒さが非道からとて、学生の中の或る者が、教室の隅に積んである毀れた机を壊して、薪代わりにストーブにくべる者があった。その煙が立ち籠める中、先輩でもあるドイツ語の新鋭中村先生が丁度教室に入ってこられ、夫を咎めて「君達情けないよ!」と泣き「君達先輩達が愛した母校教室の備品を薪にするとは、戦争で亡くなられた先輩方も居られと言うのに、顔向け出来ると思うのか!」と諫める一幕があった。


早稲田実業旧校舎(旧早稲田工学校)

この時は級友の多くの者が申し訳ない思いで先生と一緒に泣く一幕となった。それは、この干涸らびた世相の中にあって、この伝統ある学府で学ぶべく選ばれ、更にはこの先輩ありという想い故の暖かい涙であったと思うのです。ところで、その一件があってか判りませんが、多くの学生が、以後この先生のドイツ語講義に関しては、情熱を燃やして学ぶようになり、先生も後に「このクラスは優秀でした」と語ったと聞く。学院の教養学の先生方は早大学部出身の新鋭先輩方が多く、暖かく心を通じながら学ぶことが出来た幸いは忘れられないことである。又、学院の製図室も戦時中爆撃で焼損していたので、早稲田工学校(現在の早稲田実業)の製図室を日曜登校で月三回利用しての授業を続ける始末であった。念願の新校舎が爆撃で焼失した旧第一高等学院跡に完成し、我々がやっと伸び伸びと授業が受けられるようになったのは翌年昭和二十三年春になってからであった。

哲学の第一時限での作文

哲学は皆初めての講座と云うことで、先ずは哲学の定義に就き基礎的講義があった後〝本日はこれから『常識』と言うテーマで皆さんに作文を書いて貰う〟と言うわけです。敗戦直後と云うことで皆価値判断に可成り混乱の最中であり、教授も先ずその辺から参考として開始するための提案だったのでしょうが、私は『生と常識』と言うテーマで、書き始めは「常識は生の残骸に過ぎない、生命は日々新たに、その達成する目的は努力により日々革められ、個人から取り巻く環境に向かって改革を働きかけていく。従って人々の間に過去に於いて共通して形成されて来た『常識』は、常に新たに形成される倫理観念に対しては受身であり、その改革に常に追いつかない。一途に理想を追究する改革者から見れば概ねは無価値な存在となる。然し多くの常識人は古い『常識』に拘る余り、己が生命の目標を見失い、それを実現する努力を忘れ、生きる感動・創造の喜びの人生を見失ってしまっている。従って新たな創造的生き方を求める者には云々・・・・・」と言った調子で、学生然とした未熟でやや激しい論調に過ぎる内容でもあった。

要はうっかり、国家権力に都合好く誘導された『常識』例えば思い出すのも残念な戦時中「一億総玉砕」など、当時の国民としては「絶対遵守すべき真実」と信じさせられて一途に二百万名とも数え切れない犠牲者を生み出してしまった、飛んでもない「常識」には二度と決して惑わされない様に、寧ろこれからは各個人一人一人が真に己が正しい生き方と考え尽くした信念を持って己を磨き生き抜くことを自覚すべきでないか?今こそ己の確立に責任を持ち、心の学問『哲学』に関心を持つて生きるべきではなかろうか?と言った論調であった。さてこれに対しての学校側教授の方々の反響が想わぬ方途に出たのである。

早稲田大学高等学院バッジ(現在)

少壮新鋭の数学の教授は、授業で教壇に立つやいなや「君達の中には凄いのがいるんだね、この間哲学の時間の作文で『常識は生の残骸に過ぎない云々・・・・』だそうだが、哲学の先生もクラス担任の山根教授(国文学で万葉集を講義)も首をひねって居られたよ!」と。そして「これは数学とはどういうふうに有効に関連付けされるのかね?」と考え考え呟いておられたが、その時のクラスの者の背中には、其れを書いた者が誰か?は、一部の者は大凡察しをつけている様であったが、大分の者は互いに周りを探っていると言うところで、数学の先生はというと、大真面目で一渡りサッと教室内を見廻したのみで、さっさと難しい授業に取り掛かられた。

参考までに申し上げると、当時我々の数学の先生は二人居られ、孰れも早大大学院出の先輩で、この時間の先生は「微積分学」担当、今一人の教授は「多次元幾何学の行列式解」を教えられたが、特にこの幾何学は難解で、理解するために、その年夏、岡谷での休暇中大部の時間を割き、参考書首っ引きで取り組む羽目に追い込まれた。関連するテーマでは難解中の難解『ポアンカレー予想』がある。

一方哲学の老先生は、次の時間の講座に来られると、目を瞬かせながらちらちらと教室の中を見渡し「先日皆さんの作文を拝見したのだが、今日はベルグソンの哲学とニーチェの哲学に就きお話します」ときたのである。私の論調が『ニーチェ』と『ベルグソン』の哲学を基調としていることを見抜いた上でのお話であろうと、「流石は!」と感嘆したことでした。

哲学者/アンリ・ベルグソン

私達のクラス担任であり国文学の山根老教授は、万葉集の講義中も心なしか私の方を時々見ているようでしたが「日本人の心は万葉の心にこそよく読み込まれていると思うんです。よく味わってみてください」と諭されていたことは今でも忘れられません。日本人にとって万葉集は今日と言へえども常識の詩集ではないと言うことの様でした。七・八世紀と言えば日本の肇国の時代であり、その厳しさを基調にあらゆる階層の人々の生活、恋、死、自然を当時素朴な自然人の心で詠んだものとされますが、孰れの時代であれ、厳しい時代環境の中で生きねばならなかった人々が、常識を乗り越え乍らより身心を鍛え、強く生きようとしたことは現在の我々と同様であり、これを訴えたものが万葉にこそ多く見られるのだと言ったようなお話でした。

5回・後編「学院のクラスルーム」へ続く

2011年8月5日金曜日

人生と出逢い 第4回「復員:岡谷‐それは交響曲の故郷」<後編>

堤 健二(昭和19年 日本中学校卒)

春-田園交響楽

終戦の冬が明けて、昭和二十一年三月になると父達は疎開工場勤務から東京本社の業務に戻りましたが、私と母とは食糧事情が未だ悪い東京に行くのを見合わせ、岡谷で食料調達のための農耕をして待つことにした訳です。何しろ二五㌶(五〇〇㍍四方)くらいの広大な工場用地が空き地で農耕用に自由に使えると言うことですので、会社で試作したトラクターの試運転も兼ねて、蔬菜類・麦・馬鈴薯・甘藷・トマト・胡瓜・茄子・南瓜・玉蜀黍・枝豆・粟・稗・胡麻とあらゆる物を作り結構楽しい時間でした。早春の雲雀の声に始まり、諏訪湖畔・今井の里では、桜と共にやがて訪れる鶯やら塩尻峠からの多くの小鳥の囀りが、初夏には峠の山々で郭公の響き渡る歌さえ何時も聞くことが出来ました。

桜咲く春の諏訪湖

丁度ベートーベンの第六交響曲"田園"の風景そのものです。農耕で踏み締める素足の裏には土や若草の暖かみ、収穫を掴む時のあの確かな手触り、その艶やかな輝き、頭上には青空と太陽の輝き、そして突然の夕立にも濡れるが儘に『自然と本来一体であるべき自己発見の旅』とも言うべき生活でした。こうして私の『軍(いくさ)に敗れた思い』も急速に癒されて行きました。

敗戦を振り返る

当然頭を冷やしたところで敗戦への反省も乗り越えねばならぬことでした。『加害者あれば被害者ありで、止むを得ず戦かったのだとしても、勝つために戦う基本がまるで出来てない状態での開戦でしたし、米国に留学しその産業力を嫌と言うほど見せつけられていた山本五十六長官が警告したように一年しか戦える状態ではなかったのですから』。世は日露戦争・日本海海戦の時代は遠い昔のことだったのです。陸戦主体より海戦主体、大艦主義の制海権より空軍力による制空権支配、操縦機能より偵察機能そして情報処理の重視、即ち精神力も大事ですがより人命優先と充実した技術力重視に今少し透徹しておれば、英米との開戦反対派を押し退けての戦争も簡単には起きなかったし、万一起こしても外交を含めた総力戦の方向で、昭和一八年度中には講和に持ち込み、最小限度の被害に収めることも可能であった筈です。

32代アメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルト

戦争踏み切りに際し、米国は巨大発電ダム完成と強力な産業力復興の可能性を見越した上で、ルーズベルトが開戦に踏み切っています。たとい真珠湾の被害が多少予想より酷かったにせよ、近代戦主力の空母は全く無傷だったのですから、米国としては賢明な選択であった訳です。戦う以上は勝たねばならないのですし、開戦には充分準備が整い、しかも戦争相手国が開戦への国民的意思を見事結束させて呉れたのですから。一方日本は結局はめられた訳です。だから簡単です、日本もダム建設からやり直しすればよいのです。無謀な開戦の失敗を真摯に反省―例えばインテリジェンス戦での完敗が以後総ての敗戦に繋がった事実などー科学力・生産力・民政・外交・軍事面で、科学的識見に優れ確かな経験を備えた国際的人材を育て研鑽を積めばの話です。

或る友人

さて丁度こうしたとき、一人の友人が出来ました。東京外事専門学校(現東京外大)支那語科二年の山口譲氏です。彼は終戦で一旦東京を引き払い彼の父を始め家族がいるこの岡谷に戻ってきたそうで、彼は私の父が勤務していた東京発動機岡谷工場の工場長・常務の次男坊でした。彼は私と同年代で、黙って農耕に打ち込んでいる私に興味を抱いたのでしょう、声を掛けてきたのが交際のきっかけでした。彼は暇さえあれば話し掛けてきて、私は専ら黙って聞き役でした。でも決して空耳やいい加減に彼の話を聞き流していたのではありません。只当時の私は、どちらかと言えば自然との対話に心を奪われていたのです。

当時の東京発動機(現トーハツ㈱)の揚水ポンプ(「VA-70型」

彼の話は日本の当時から将来像への見通し、中国のみならず亜細亜・アメリカ更には欧州に対する思想とか意見、日本の政治・文学・思想家等々散々こき下ろしたり稀には称揚したりと、取り留めないようで熱っぽく次々と、私も実は大変惹き入れられ、同感し、所によっては多少疑問を抱きながらも聴き入っていたものでしたが、これがその後、私の考へ方に可成りの影響を与えたことは否定できません。新分野の小説、外交、中国史観、哲学史観等々新たな分野にまで改めて私の興味を掻き立ててくれたし、私の進学意欲にも影響するところ大でした。生涯忘れられぬ心の友となった人でした。

再出発に向かって

その年三月からは毎月東京の父の許へ食料を届けながら往復しました。父は会社で斡旋してくれた寮に入っていて、そこは大きな屋敷を会社が寮替わりに借り上げ、幹部職員十数人が皆々単身で、部屋は別々ですが食堂は共同で使用しての暮しでした。当然私も父の処に行けばそうした方達に挨拶し話もしますし、私の担いでいった食糧もそうした方達の空腹を少しは満たす役には立っていたと思いますが、そうした方達からの父への助言などもあってのことでしょうが、七月初旬何時ものように父の許にリュックに糧食を詰めて担いで行ったところ、急に革まった父から「戦争には負けたが復興すればこれからは矢張り学問だし、大学進学を考えてみないか」と勧められたわけです。

当時と変わらない旧岡谷市役所(昭和11年竣工)

ところで、私が海軍から帰ってきてから早くも半年が過ぎようとしていましたが、この当時ともなると、私なりに少し落ち着いて、周りの人たちを海軍における修練と対比的に観察するようになっていました。どうもその人達の言動・行動を見て居ますと実に無駄が多いと感じたのです。無用な時間潰し、自己弁護、非科学的無知、誤った認識に基づく恐怖・固執・遅疑・遅滞等々の行動です(これについては岡谷時代の読書生活で「超克の哲学」の項で既に述べました)。勿論私とてそうした人たちの中に居ては世間並みに生活している訳ですから、一緒に話し、同調し、行動しておれば別に不都合はないのでそれで好い訳です。

所謂「超克の心」

然し、もし自分が一旦一人で何か目標を決め、集中して実行に移す段になれば、目的に向かって無駄な言動、無駄な行動は一切省いて、言わば少し人離れした集中力をもって直進する訳です。かくて目的は人の二倍も三倍も効率よく達成されることになる。と、これが私の当時の娑婆の人に対する評価ですし自分の行動規範となっていました。事実人が『甚だ困難』とか、『不可能に近い』など指摘する難点も、多くは、慣例に囚われずにじっくりと集中して、問題点をよく考えて取り組めば、案外簡単に解決され実行可能のことが多々あります。ニーチェの超克の心を理解し徹せられるかどうかです。

当時私も社会人として如何に生きるかと考え始めておりましたが、このままエンジニアとして何らかの実務に就くか?トラクターによる農村開発など新規開発事業に取り組むか?今直ぐ社会人としてのスタートを選ぶか、或いは今少し学問・技量を身につけ、新たな能力開発・展開を待って社会に乗り出すか?等々私自身も丁度慎重に考え始めていた時期でした。

空から岡谷市を眺める

終局目標は、この荒廃しきった国を興すのは先ず最先端の科学立国を目指すことにあり、であれば私自身こそその一端を担うべく先ず学究への道を選び、大学受験への第一歩を踏み出すべしと想いは傾いていました。

進学を決意

父から大学予科受験の話を聞いたとき『自分には四年半の勉学のブランクと、今改めて勉強を始めても受験迄に六ヶ月間しかないがと計算したのですが、一方海軍入隊前の中学三年生時代、私は既に兄達の受験参考書により英・数・国三科目については一通りの勉学は進めていて、大凡の学習の目途は付いていましたし、結局人が一年勉強して受験するなら、自分は二倍・三倍の集中力で取り組めば、彼等の多くを凌ぎ目標達成は充分可能であり、それなりに人一倍意志を貫くに充分な体力もある!』とも考え、父には即座に「判った、やってみる!」ときっぱり答えて岡谷に帰ったのです。父は私があまりに簡単に同意したので多少不安だったと後で母に語ったそうです。

― 夏・秋 ―

占領政策で軍学校生徒の国立大進学制限

受験と言うことになると大学・予備校など少々情報も欲しいし、二、三日東京に滞在し、終戦以来の友人達ともこの際再会することにしました。中学の友人では慶応大の不破君・丹羽君、早稲田大の植田君・桔梗君、東大の家村君、ジャーナリストの大塚君、慶応大受験で城西予備校に通っている加藤君と言ったメンバーであった。夫々が元気溌剌として希望に燃え、理想を語り、皆心から励まし助言をしてくれた。鹿児島の旧家で代々造り酒屋即ち醸造元で且つ音楽家の家系の出である家村君は、当時東大経済学部に通う傍らアルバイトにピアノ教師などもしていて、私が信州岡谷の高原に暮らしている様子等を聞くと、早速ベートーベンの田園、ビバルディの四季などレコードを二・三曲聴かし乍ら『君は音楽へ進学すれば成功するよ』など勧めてくれた。

旧制松本高等学校本館

然し当時マッカーサー司令部の占領政策で、旧陸海軍学校生徒復員者の国立大入学は禁じられており、実は私も已に今年二月には父の公務で松本出張に同行し、旧制松本高等学校の入学願書手続きに行った折、GHQ指示により軍学校生徒は受け付けないとの対応を受けその事は知っていた訳です。結局私の第一目標は私学早稲田大学辺りに絞られそうだといった感じであった。医学部、哲学部など東大受験も視野に入れていた私としては一寸胸に引っ掛かる占領政策で、『そんなに敗者を押し潰したければ次は此方がどんな形であれ勝者となってやるさ!』と呟きながらも、『これから如何様に本格的な敗戦のツケが回ってくることやら?』と。一寸気がおもくなる。

日本中学校での卒業証明発行の依頼手続きを済ませ、更に予備校の入学手続書を受け取ると、もう今回東京はご用済みの処だが、実は小学校の先生友人達の動静、特に結核療養中の鈴木君(父君は既に戦死)のことが胸に引っ掛かっていたが次の機会までお預けとした。

私は岡谷に帰ると直ぐ母と、そして当時飯田の農学校で教諭をしていた下の兄と相談し、あとのやり残した夏秋に向けた農作業の準備・始末を一週間ほどで手早く済ますと、兄達が使い残していた受験参考書を手にして早速父の許に上京、城西予備校の入学手続きを済まし即受験勉強に入ったわけです。こうして父と二人で自炊しながら毎日予備校での五時間半、家で五時間勉強する受験生活が翌年昭和二十二年二月まで続き、否応なくいよいよ受験シーズンに突入していった訳です。

城西予備校と高見清先生

城西予備校は当時京王帝都線の西永福にあり毎日通ったわけです。予備校生は矢張り終戦直後でもあるので、陸士・海兵はじめ軍学校生及び帰還軍人が全体の約八〇%を占め、一方終戦後のG・H・Q指令では軍学校生の国立大・予科は昭和二十二年度も受験対象から外されていて、従って私大有名校受験に殺到し、競争は可成り激烈になりそうでしたが、要は実力次第だからと余り気にもしてなかったのです。

大宮八幡宮(西永福)に咲く寒桜

数学・国文・英語が受講科目でした。国文では小説家高見 順先生、数学では早稲田大学の数学の先生で高見 清先生がおられ、受験生の中で大変人気がありました。特に高見清先生の数学は『天才主義』と呼ばれ、教材無しで黒板上に問題を提起し、ヒントだけ与えて終わりです。そこで後は各自で時間内に回答を出さなければ、その後次々と関連した問題が出され、ついて行けなくなるので皆必死です。と云うことで嫌でも実力が付いてしまうのでした。そして私にとって生涯忘れ得ない思い出となったのは、受験前一月の最後の授業で何問か例の調子で問題を提起した後、「今日は最後の授業で皆明日からはいよいよ受験に挑戦となるのだが健闘を祈る、そこで最後のとっておきの問題を提案したい。これを解ければ〈天才〉と認めよう、但し解答時間は五分間、解答の第一ステップだけ答えればよい。」というのです。

緊張が流れる中、「集中!集中!」、『問題あるところ必ず解答あり』と取組んで行くと、なんと約三分で解けたのです。手を挙げたのは私一人。そして黒板上の問題を目で追いながら第一ステップの仮定を答えると、先生は「正解!」と叫んだのです。感激でした。そして先生の改まった次の言葉は今でも忘れ得ない貴重なものです。「みんな本当に数学をやる気なら理科系ではなく哲学に進むことが大事だ!!」と。これは勿論その場の受講生全員に述べたことですが。新鮮でした!

数学は哲学が基本

哲学者の宇宙探究の課程こそ数学発展の歴史を綴ってきたと思われます。ですから哲学史の追究は必ず科学史・数学史の学究にも繋がり、やがては数学・科学の未知分野への研究展開ということにもなる筈です。古くは地動説・天動説であれ、唯心論・唯物論であれ、波動説、量子論であれです。

5回「早大・学院へ」へ続く

2011年7月8日金曜日

人生と出逢い 第4回「復員:岡谷‐それは交響曲の故郷」  <前編>

堤 健二(昭和19年 日本中学校卒)

冬・岡谷への復員

両親が当時工場疎開で岡谷におりましたので、兎に角一応父母に元気な顔を見せて身の振り方はその後のことだと、一人新宿駅より中央線で岡谷に向かったのです。列車は復員者や疎開先からの引揚げとか食料買い出しの旅行者で超満員、お陰で車窓から半身はみ出る者が鈴なりの騒ぎでしたが、次第に乗客も減ってゆき、トンネルを次々に通過する程には機関車の煤煙に煤だらけにされながらも、やがて岡谷に辿り着いたのです。


氷結した厳冬の諏訪湖

降り立ってみると一面銀世界、凍て付く寒さの中でした。父のいる東京発動機の社宅は岡谷の街から徒歩二〇分ほど坂道を上った高台で工場疎開敷地内にあり、昔、木曾義仲四天王・今井四郎の子孫の住む“今井の郷”と云はれる一帯です。昔は広々とした馬の放牧場だったとか。でも冬中はずっと四〇~五〇㎝の薄雪に覆われ身を切る寒さ、水道も出っぱなしにして置かないと忽ち凍結してしまうといった所ですが、上を見れば峠の上でスキーを、遠く見下ろす諏訪湖ではスケートも楽しめるといったふうで、塩尻峠の麓に広々と展開する丘陵地帯でした。また上諏訪温泉までは自転車・バスで一息、そこの市民浴場「片倉館」で半日温泉を楽しむことも出来ます。地元会社の諏訪製糸社が市民に提供する総大理石造りの素晴らしいローマ風呂で、ブロンズ像とか壁面彫刻なども配置され雰囲気一杯と言うところです。気候的には暮らしにくいようですが、一面楽しみも結構あるところです。

当時と変わらない上諏訪・片倉館のローマ風呂

冬と炭焼

地元では冬を越すのに養蚕用の桑の根が専ら炬燵の熾きに使われ、煙も出ず火力も結構あるのでそれはそれで好いのですが、矢張り疎開してきた都会の人には木炭が無いのは辛く、そこで八ヶ岳から伐りだして山のように貯蔵してあった会社の薪を使い、父と相談して地元山男の今井今朝治爺さんに炭焼釜の要領を習い、会社構内に所謂石釜を構築、雪の降る日(註1)を選んでは三日間、昼夜ぶっ通しの炭焼きも新鮮で、それ程辛くも感じず結構良質の炭が上手(註2)にできました。早速社宅の人たちにも頼まれては五釜ほど焼いて配り感謝されたりして冬を過ごしたと云う訳です。

冬の八ヶ岳

註1:雪の降る季節を選ぶのは、炭が焼き上がった直後に釜の天蓋を払い、降り積もった三〇~四〇㌢の雪を一気に釜の中に落とし込めば、丁度好い釜内消火・冷却剤になり且つ硬い良質の白炭が得られるからです。

註2:炭焼のコツは、ご存知のように、柔らかい黒炭には松・桧材を、堅い白炭には硬質の楢・樫・椚材など木材種を兎に角均一に選ぶこと、石釜の管理では土管利用の排気管から出る白い煙の濃さと量の状態から蒸し焼きの進行と釜内温度の適否(千℃以上の比較的高温)を判断し、釜焚き口の火の色と開き具合を如何に忠実に管理するか、そして最後に消火・冷却時間のとり方に係っている訳です。柔らかい黒炭はゆっくり、硬い白炭は急激に雪などで冷却するのがコツです。

釜前で思うこと

燦々と雪降るなか釜前に天幕を張り、しゃがみ込んで炭焼釜の焚き口をじっと見詰めて居ると、ふと浮ぶのは、想い出も遠く何処の天地でか亡き人と散った「同期の桜」の面影。終戦と共に忘れ去られた彼等の魂は今何処の地のもとで、それとも風に吹かれて寒々しくも流離わねばならないのであろうか?と。だから焼きあがった炭を手に採り乍ら、彼等の魂もこの炭の暖かい隙間にひとつひとつ仕舞い込んでやれば、次に火を熾したときにはきっと真っ赤に燃えて「暖かい!」と喜ぶのではと。せめて一本の炭の中でも好いから、皆に忘れられないような安住の地を見つけ、話も聴いて上げられたら?等々ふと切ない思いに囚われてしまうのです。


諏訪湖の神渡

岡谷の冬は永くて寒い。そして地元の人が「春は湖面からやって来る」と言うように、年を越して一月の所謂「神走り」なる雷鳴と共に始まった諏訪湖の全面結氷も、三月三日の天皇誕生日(天長節)の頃ともなるとやっと緩み始め、春の兆しを感じるようになります。一方、峠に近い今井の郷は三月末になっても未だ雪が残り、地中の温もりも懐かしく足の裏で感じる馬鈴薯の畝造りや施肥など、じりじり待った春明け一番の農耕が本格的に始まるのは、未だ四月半ばを迎えてからのことです。

心の遍歴

そこで話を少し戻しますが、敗戦から岡谷に向かいそこで暫く暮らすことになった当時の心の遍歴を少々お話します。

私が敗戦で荒廃し尽くした街に帰還兵として降り立ったのは十二月初めのこととお話しましたが、戦争責任(連合軍の言う所謂「戦犯」)の追究につきましては、既に九月初旬より始まる第一次から第四次に亘るA級戦犯、更に十一月初旬よりはB・C級戦犯者リスト並びに処刑発表が次々と街に流され、今まで下火であった、帰還兵に対する世間の風当たりもそろそろ厳しくなり始めた頃で、革鞄と五〇キロ近い衣嚢を担ぎ、上等飛行兵曹の海軍軍服を着ていた私も新宿駅辺りからはそうした厳しい視線・応対を時に感じる中での帰還でした。しかし岡谷に着いてからの身内は勿論、会社周辺、更には地元今井の方達に到るまで、その応対は暖かく、好意と労りに満ちたもので、敗残の兵として多少打ちのめされた意識下での私には意外なものでした。

終戦直後の新宿駅周辺

私達は三人男兄弟でしたが、長男は前にもお話しましたように陸軍幹部候補生から豊橋の予備士官学校を経て、任官後は豊橋の機甲師団で中隊長となり、本土決戦に備えての飛行場建設任務中に終戦を迎え無事復員、旧勤務先の富士電機社大阪支店にも無事おさまり既に出社しており、また身体の稍々弱い次男は東京高等農林を卒業後、飯田の農業高校教諭に在職中で、二人とも岡谷には不在でしたが、若い盛りの男兄弟三人が何と全員無事戦災を免れたとは、当時の大量の戦死者と敗戦という情勢下では希有な幸運であるとして、会社や地元の人々からも大変祝福されたものでした。

焼け野原の東京

勿論私達一家族としてはその様な周囲からの好意は素直に有難く戴いておりましたが。一方、しかし当時の私の心情の中心では「生かされていることへの感謝と悦び」を実感していたとはいえ、未だ心の一隅では突き詰めるべき今一つ違った世界の問題が座り込み、稍々もすると、総じて気が重い状態だったわけです。時に擦れ違った知人を見忘れ、気が付かず通り過ぎたと笑われ注意されたりでした。これからの生き様を決めるうえでも、この敗戦に到る四年間の自分と周辺で起きた事柄をどう見詰め直し、次の一歩はどの様に踏み出したらよいのかとの思いが、絶えず頭の一隅を占めていたのです。

海軍に在隊中の四年間、変わらず私の胸をずっと占め続けた思いは、出発の処で申しました様に、「この制空権の戦いこそ国運を賭するものであれば、其の勝利の為には寧ろ一飛行兵として参加し、そして全力を尽くして勝ち抜き生き抜く」覚悟でした。それが航空隊に於ける日頃の技術・胆力修練の過程であれ、熾烈な死をも賭した戦場であれ私にとっては一貫して変わらぬものであったし、他のパイロット達全員、彼等もまた私と同様に戦場での死闘を当然のことと意識し、尚且つ勝利を信じて志願した者達であれば、共通した覚悟だったと思います。

そうした共通の覚悟を持ち、訓練にいそしみ励み、一途に国を信じて闘って死んでいった者、或いは生き残った者、一体何がこの生死という個人にとっては途方もない命運を差配したのでしょう?闘かったら必ず死ぬ?とんでも無い間違いです。死んでは負けですから必ず勝って生き残らなければならないし、その為にも徹底的な訓練と、より優れた装備性能の保障こそ決め手になります。そして少なくも装備に関する限り国はそれを怠ったと言えます。即ちこの戦いの勝敗を決したのは、寧ろ「人命尊重の如何」にこそ主因があったと思います。機体の臨戦性能、銃器・装甲の改善、銃後の大量生産方式の確立、最前線での航空戦闘方式の見直し改善等々です。ハワイの敗北から起ちあがり、六ヶ月の徹底的な航空戦略の見直しを経た米軍航空戦隊の反撃に対し、緒戦の奇襲勝利に奢り人命の尊重意識に注意を怠った日本の安易な六ヶ月がその後の勝敗を決したと云っても間違いではないと思います。

世界最高の性能を誇ったゼロ戦

例えば、未熟なパイロットを主体とする米空軍の戦闘作戦では、パイロットには編隊飛行と一撃主義を徹底したことです。一戦闘では複数交戦を絶対避け、情報戦に徹して味方にとって最も有利な態勢からの一撃で任務を完了し、戦果の如何を問わず決して深追いはしないという方式です。搭乗員の未熟をカバーし且つ被害をも最小限度に留めながら、数量・物量面での有利さをフルに活用して最大の戦果を挙げることに徹底したわけです。日本空軍は世界に冠たる性能を誇るゼロ戦を保有しながら、以後改善に遅れを執り、数量・装甲の劣勢は腕を過信した深追いの戦術でカバーしようとしてみすみす有能なパイロットを次々と犠牲とし、以後主要海戦・空中戦の作戦主導権はアメリカ側に奪われ敗戦を重ねる結果を招いてしまった訳です。以下参考までにミッドウエー海戦以降の主要作戦を列挙します。

昭和十七年五~八月:珊瑚海海戦。
昭和十七年六月:ミッドウェイ海戦、
昭和十七年八月~十八年十二月:ソロモン諸島海戦
昭和十七年十月:南太平洋海戦、
昭和十八年二月:ガダルカナル島撤退、
昭和十九年二月:ラバウル航空隊撤収
昭和十九年二月~六月:トラック・マリアナ沖海戦、
昭和十九年六月:サイパン・テニアン・ガム玉砕
昭和十九年十月~:比島沖海戦、
昭和二十年一月~:特攻作戦開始、
昭和二十年四月:沖縄戦

以上は四年間に亘る海軍生活を通して私が戦争と向かい合い、
そして経験したものに対する感想の一端です。

敗戦から復興へ

以上敗戦への想いを縷々綴って参りましたが、これは実は既に次の復興へのステップが如何なるものか「希望の光」を模索する国全体としての反省課題でもあり、そして思考構造を「徹底した人権と科学重視社会の実現」に如何に効率よく切り替えて行けるか?とこれこそが、当時敗残から起ち上がろうとしている日本にとって突き詰めた処の課題であったと思います。

終戦直後の闇市・焼き鳥を焼く人々

一方、個人的な問題ではありますが、四年間の海軍生活中、私は国内航空隊勤務に終始したのですが、他方前線各地の総てが不利な戦況下であり乍ら、尚且つ次々と戦場に赴き闘いに散って往った余りにも多数の同期の桜への鎮魂の想いは気重く忘れ難く、斯く心の負担を背負った私にとって、実はこの寒くて長い冬の時間は、突き詰めた想いを纏める為には大変貴重なまた大きな癒しにもなりました。前線に向かえばこそ、忽ち熾烈な戦いの末に次々と帰らぬ人となっていった予科練・飛練仲間、勤務上様々な出会いを持った亡き上官・戦友達の無念と償いは如何、人の生死を分かつものは一体何なのか?挙げ句の果ての敗戦と、その荒廃し尽くした日本の前途のこと!この敗残の国土を、必ずや次は生気に満ちた新生へと再建せねばならないがどうやって!等々の思い。次の時代こそ日本の勝利を実現するのだと。それが生き残った私達の仕事なのだと。想いは積るばかりでした。


読書と模索

吹き渡る風も冷たい高原を歩きながら、今この自然の懐、広がる大地に立ち、考え模索することは数限りなくありました。そして納得のいく解答を求めて嘗ての書を読み返し、或いは新たに読み加えるべき数々の書を手元に積み上げたのです。

霧ヶ峰高原

大筋としては海軍入隊前に読んだ「昭和史」・「偉人伝」・「武士道葉隠れ」に始まり、新たに哲学書の数冊【ニーチェの「ツアラトウストラ・序」(自己超克の哲学)・ベルグゾン(生命の哲学)・西田幾太郎(善の哲学)】及び日本文学全集三六巻。これら大分冊だが最終読み終わりは日本文学全集を以て六月一杯で仕上げとしました。日本文学全集・ニーチェの「ツアラトウストラ序」は長男の蔵書、ベルグゾン哲学・西田幾多郎の「善の哲学」は岡谷の古本書店で見つけて来たもの。これら書選択の経緯は、「武士道葉隠」の根幹精神(名言1.5.7.8.9.⒓)が、ニーチェの「死の哲学」とも言われる自己超克の哲学で主張される処、即ち人間本来あるべき理想的生き様とよく一致し、更にはベルグゾンの「生命の哲学」・西田幾多郎の「善の研究」で主張される哲理にも、洋の東西を問わず相通ずる理想を見たからです。

西田幾多郎著『善の研究』

結局私自身の生き様は、ニーチェの「超人」、ベルグゾンの「生命」、西田の「善」で共通して説かれる《超克》こそ目標と断じての再出発となった訳です。過去、学校で或いは海軍で鍛えられ磨き抜かれて、今あるがままの自然体、自信と決意を以て一向に前向きに生きるのみと断じ得て、最早無用に過去は振り返らないと。書による反省、書による確信、それが行動への自信となり、過去を振り切って新生の第一歩となったのです。

ニーチェの自己超克の哲学について

「神は死んだ」
有名な言葉である。ドイツ人ニーチェはキリスト教に代わって自己超克という新しい生き方を示した。これは人類に新しい生き方について刺激を与えた。多くの人は古い認識に固執し、この結果事を処するに目先の恐怖心・執着・遅疑・焦燥等々感情や勝手な想像、又は財産など喪失感に拘り、目先が暗くなり事の真実を見失い、直感的に己の優れた能力・感性力を発揮できないで居る。本来自己の所有する勝れた能力・感性を常日頃磨き、自己の夢実現に向かい新しい生き方の切っ掛けにすべきであると。

「超人」
昨日までの自分の中の世間性(常識)を超えて、自己本来の能力・感性に目覚め、絶えざる自己超克を為し遂げる者。大地の如しと?この「大地の如し」で思うことは、岡谷の大地で鍬を振るいながら素足の下に感じた自然の大きさ、暖かみへの感動です。それは自然と一体になった自己認識です。

「遠近法的思考」
認識修練を積み重ねるとき、人はより近くも遠くも(例えば日本と海外。自己と他。現代と将来等々)が同様にしかも同時に確かり見えて来る。

フレードリヒ・ニーチェ

再生へ一歩

かくて、私の心は次第に決まり、今やるべき目前の事にこそ力の総てを集中して行こうとの心境にあったのです。そこからやがて生まれるものを待つという心境です。行動面では雪の散散と降る中での炭焼きの新鮮な悦び、会社が開発中の農耕用トラクターエンジンの試運転・改良への打ち込み、春を迎えては大地の温もりを感じながら振る一鍬々々の手応え、光り輝く収穫物をはじめ太陽の下あらゆる生命力の息吹きを見詰め、雨に風に雷光に打たれながら「我此処に自然と共に生きる」と無言ながら胸に響く感動の一言。

塩尻峠を越えて獣道にふみいれば、ぼや址に暗く静まりかえる沼地周りでは、熊か猪か?獣達の秘かにこちらを窺う気配に、本来なら不気味さを感じるところも寧ろ生きるものへの懐かしささえ感じ、再び戻った峠の陽光の下では、群れる鳥の平和な囀りに包まれ、やがて雲雀啼く今井の郷が足下に見えてくるとき、鍛えられた体力、集中力そして新たな人生へと挑戦の自信が全身に漲れ出て感じられる。そして学ぶ事への欲求も高まる。戦場の記憶も亡き友と共に徐々に遠ざかって往った。世界一流を目指した第一ラウンドの戦いが敗戦で終わり、次は確実に勝たねばならぬ第二ラウンドが始まったのだ。


第4回・後編 「春―田園交響曲」へ続く