2011年6月15日水曜日

日本中学校 思い出の記(1) 

梅窓会 会長太田安雄(S19年卒)

私は昭和19年(1944年)日本学園の前身である日本中学校を卒業した。

石柱に足場が組まれた建設中の一号館 

新宿淀橋にあった学園は、昭和11年にこの松原の地に移転したが、その3年目の昭和14年に私どもは入学した。辺りは、のどかな田園風景に囲まれた7,776坪の広々とした校地に、まさに白亜の殿堂といってもおかしくない校舎がまぶしく輝いていた日を忘れることは出来ない。先輩であり、その頃早稲田大学理工学部建築科助教授、今井兼次先生によって設計され建築されたこの学園が、70年の今日も変わりなく私の目の前にあることは、戦災で失われた都内の学園、残っていても老朽化で取り壊された多くの学園と比較すれば、とても信じられないことである。玄関に聳え立つ4本の大きな四角い柱も、周りの樹木の生長を除いては、私が入学した時と同じように聳えているのを見ると、深い感慨を覚える。

竣工直後の旧制日本中学校 

私が入学した頃、校門を入った左側から10メートル幅でグランドを突き抜け、突き当たったところでコの字にグランドに沿って菜園があり、1・2年生は正課として「作業」という授業があった。作業を指導する先生は、美術学校(現東京芸大)卒業の美術の先生で笹村良樹という痩せた先生だったが、そこで作られた「ちしゃ」という葉もの類は、生徒に分けられ、分配して自宅に持ち帰った。早速、笹村先生のあだ名はポパイと名付けられた。
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笹村良樹先生が彫刻された壁面訓は今も健在 

今、玄関の右側の壁面に杉浦重剛先生の尊敬する一進翁の「心身清潔」「見義明快者」「得称大日本人」という壁面訓が飾られているが、これは学園設計者である今井先生の指導で笹村ポパイ先生が、その筆跡を彫刻されたもので、私が中学2年生の時に作られたものと記憶している。作業を教えるポパイが作ったと云うことで、悪童一同大いに驚いたものである。後年のこと笹村先生は信州の礫山美術館にも永らく関係されたと聞いている。中学1年では「博物」の授業が入学直後の春から始まる。博物の先生は寺崎留吉先生、あだなは「とめさん」、「日本植物誌」で著名な先生と後にわかったが、中学1年生には、ただ、ただ恐い先生だった。あの時代でも鞭を持って教室に入る先生はいなかったと思うが、生徒を叩くことはなかったが、机をやたらに叩きながらの講義は迫力充分だった。

寺崎留吉先生と博物標本室(昭和12年) 

『日本中学校五十年史』を見ると大正7年淀橋時代の頃で、杉浦重剛先生は理化学教室のところで次のように述べておられる。「諸君がご覧になると一寸したものと見えるかもしれぬが、実は非常に手数がかかっているのである。ことに本山、寺崎両先生はこの暑中にも拘らず、殆ど毎日寝食を忘れて努力されたのである」と述べられ「また水道も市外(註:淀橋は市外であった)には許可されない訳であるけれども、理化学実験奨励のため、特に当局者が同意されたのである。しかし使用量に制限が附せらされているから、乱用してはならん。-」(校友会誌第9号)。更に、この理科実験室は当時の中学では群を抜いて素晴らしい実験室であったと述べられている。また、寺崎先生が情熱を傾けてこの実験室の整備に当られたことが判る。

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昭和11年のキャンパスマップ・菜園である「作業科耕地」に注目 

この実験室は淀橋から松原に移築され、私どもが入学した頃はまだ現存し、白い校舎の中で古色蒼然として残って居た。丁度今の新しい柔道場の辺りに雨天体操場、剣道場、柔道場、供給部、物理教室と並んであった記憶がある。古い卒業生はご存じの方もあろうと思う。

以下次号へ続く