2012年5月13日日曜日

人生と出逢い 第7回「セメント屋-先ずダム屋から」<前編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

①磐城・住友セメント時代

磐城セメント社入社の経緯
卒業の年昭和二十七年頃は、まだ敗戦後の戦禍の爪痕も生々しく、国土・産業界総ての荒廃ぶりは惨憺たる状況でした。一方昭和二十五年六月に勃発した朝鮮動乱の特需景気により、セメント・肥料・砂糖(繊維?)の三産業界に先ず復興の兆しが見え始め、世はこれを三白景気と呼び、これを契機として産業界全般に復興の兆しが漸く膨らみ始めた時期でもあったのです。そうした時期の卒業ですから、一般的には誰でも彼でもそうそう簡単に気に入った就職先を選び、目出度く入社出来る状況では無かったのです。

処で私ですが、先ず研究室宛の求人打診では、大坪先生が技術顧問をされていた磐城セメント。【これは条件付きで、当時東工大応用化学科在籍中の社長長男の分析実務単位不足分を大坪教授指導で補習実験指導することと、同社真田技師長依頼の八幡製鉄所向け新規ドロマイト鉱の分析試験を夏休み返上で私が実施との条件】。これにダブるのですが磐城セメントについては別途父の会社顧問(本人は久留米藩徳冨蘆花の甥御で長男が磐城社社長秘書)の紹介。別には父の旧勤務先である三井電化、長男勤務の富士電気関係では宇部興産(大坪教授校友の入社打診もダブり)並びにドイツとの共同開発になる日本ゼオン社(翌年三月稼働。更に東京発動機()専務で古川財閥系役員Y氏の推薦(会社選択は三白景気等と目先の選択より、日本将来を担う基幹産業にすべし)として八幡製鉄等々皆可成り強いコネをバックとする推薦を戴きましたが、結局東京最寄りの磐城セメント受験に絞ることになった訳です。

処で入社してみて
入社試験を受けてみて愕きでした。僅か百名の採用予定に対し、何と応募者数は全国で約三千名、北海道から九州まで国立大六会場(北大・東北大・東大・名大・京大・九大)で一斉に筆記試験が行われ、絞り込まれて約二百名の本社面接を経た後の最終採用決定人数は何と予定通りで約百名変わらずと云う酷い競争率でした。コネが関わっての受験で絶対大丈夫という話で受験した筈でしたが、後で考えれば冷や汗ものだったと言う事です。何しろ三十倍の競争率なのですから。

面接試験で奇人との出会い
東大で行われた難関の一次試験に合格し、葛生本社での二次試験を面接受験中のことです。百名の採用予定に当初受験者総数三千名中より絞られて二百名とは云え激しい競争であることには変わりありません。面接会場前に五名宛喚ばれて緊張気味に待機中のことです。順番が私の前の田中氏という海軍機関学校制服を着た受験生が突然話し掛けてきて曰く「貴方は若いが初めて受験ですか?私は年とっているのでどうしても合格したいのですが、貴方なら他に幾らでも入れる会社はあるでしょうから試験を辞退して呉れませんか?そうすれば私は入社し易くなりますから。」と真面目な顔をして言うんですね。私は内心驚き変わった人だと応えようもなくて黙っていたのですが、彼はニヤリとしただけで後は何も話し掛けようとはしませんでした。後で分かったのです、彼は海軍機関学校出で終戦後最初東工大建築科で一級建築士の免状をとり、続けて窯業科に在籍してボイラー一級技士免状をとると云う経歴の方で、結局磐城社入社試験にも合格し、以後研究所生活を経て、私も廃棄物処理研究依頼したり交流は結構ありましたが、後に重金属処理研究中発病して五十才代で早く亡くなったと云うことでした。さて思えば大変な難関の受験でした。


1952年・磐城セメント栃木工場の昼休み:早大・機械科卒・高塩氏(左)と

【合格者は学卒50名】
東大2名・東北大10名・京大1名・早大8名・慶大2名・東工大2名・
九大2名・名古屋大四名・その他? 
高専30名:仙台・桐生・横浜・明治学院・物理学校・その他?
高校20名:?

【給料(基準内)
東大・東北大・京大=8200
早稲田・慶応=7800円      
地方国立大=7600
早慶以外私大=7400円?

給料差は旧制、新制別と会社役員構成(国立は北大・東大・京大、私大は早慶優先)によるという興味深いものでした(予め聞いてはいましたが)。尚、あの激烈な競争を経て採用された筈の割には入社時の給料が比較的安いと云う感じでしたが、初任給安に関しては経営者団体横の連繋都合とのこと。結局入社後三ヶ月経った時点で全社員残業五〇時間分本給繰り入れ改訂が行なわれ大幅アップ。(但し残業料に関しては三〇時間までは実質支給は無し)更に職員夏・冬のボーナスが何と給与の六ヶ月分を一律支給となり、そしてまたまた驚いたのは会社増資見合いで、全社員に記念として増資株を職員で五十株以上、現業員は三十株を額面で支給された訳ですが、端株だからと売却希望者が多数発生し、当時私は金銭的にも幾分余裕があったので社内株だからと頼まれては買い集めて、結局七百株程の株主になるなど何だ彼だと云うことで、セメントで粉塗れで仕事しながらも溜飲を下げたという訳です。

私の入社時勤務は本社建設本部付き
職務は新設工場設備(殆どヨーロッパよりの輸入設備)の性能試験と本社栃木工場製造職員として二直三交替勤務、新工場用無人管理化データー採取の為の栃木工場現場に於けるテスト実施と云った業務で、入社早々から残業は毎月殆ど一五〇時間の余となり税金も多いですが、給料手取りも同僚一般事務職の倍近くになり、然も工場での交替勤務で残業の場合、夕方八時過ぎには必ず町のレストランから注文配建のやれ洋食だ中華だと、当時都会ではそうそう気軽には口に出来ないような夕食が支給されるなど、若い私にとっても多少疲れはしますが可成りの充実感で日々を過ごせた訳です。


1952年・磐城セメント栃木工場のロータリーキルン(セメント製造の窯)

早速カメラを購入
当時の標準初任給では絶対手が出し難い高価な小西六社新発売のコニカⅡ型も、比較的気楽に購入し早速仕事上でも役立てることが出来た訳です。尤も本社事務職員達からは可成り妬まれましたが。航空用カメラ改善取り組みについては、鹿島航空隊で偵察任務の当時から聞いていた事で、終戦間近のドイツライカー社航空カメラ技術をベースとし、戦中から研究を積み重ねていた小西六社なればこそ、終戦後の国内でも早々と新鋭カメラとして開発・発売に至ったものでしょう。

テレビの試験放送開始
昭和二十七年年末を迎えると、工場が二ヶ月に及ぶ長期運転から休転修理に入り、修理工程会議やら何だと仕事も一段落した大晦日午後やっと東京で三日間の休暇をと久し振りの帰宅でした。会社最寄りの東武電車葛生駅の構内に入った処で、何と生まれて初めて『日本テレビ試験放送』に出逢ったのです。当時初任給僅か八千円の時代に何と四~五十万円もする代物、それも映りが今一つの白黒。さてその日は新宿に着くと、久し振りゆったりとビールでも飲み食事を済まして帰宅と決め、復興したばかりの東口『二幸百貨店』二階グリルに上がると、何と丁度年末でそれも戦後初のNHK紅白歌合戦に出逢った懐かしさは忘れられません。四、五才の頃から歌謡曲は我が家でも耳たこに聴いていたし、歌手達も戦前と殆ど変わらぬ面々でしたから。

1952年(昭和27年)に始まったテレビ試験放送の画面を見る人々。

正月早大で友人と邂逅
処で年末には輸入生地で贅沢なコートを仕立誂え、正月ともなればウイスキー角瓶持参と洒落て早大応化の大坪研究室を訪れた折、偶然ですが大学構内で親友の山下君とばったり出会うと、彼はじっと私を眺めて「東欧にでも行ってきたのか?」ときたのです。新宿に出てビールで久し振りの邂逅と近況を語らい乾杯でした。

当時の磐城社主要役員構成は
社長・技師長・常務・工場長=東北大出身
副社長・常務・工場長=東大出身
専務・常務・工場長=早大出身
常務=慶大出身
工場長=京大出身

当時の工場増設計画概要
当社としては朝鮮動乱特需を転機とする発電・道路整備始め日本産業界・全国的インフラの復興をベースとする今後十年間の飛躍的な需要増大を想定し、既に大型工場二ヵ所の建設計画・設計・工事発注も決まっていて、これに基づき当社としては多数の新入社員募集に踏み切った訳です。当時の計画では昭和二十七年八月八幡製鉄所向け不二ドロマイト工場の稼働、昭和二十七年以来設計・建設中の浜松工場は昭和二十九年四月稼働予定、昭和三十四年迄に岐阜工場新設稼働予定、更に次の展開は福島県田村工場そしで播州赤穂の全自動無人化工場の新設を目指し、資金面からの住友グループ参入などの構想が既に着々進行中だったのです。

②栃木本社建設本部員として入社

―主業務―特殊セメントとの馴初め―

五十里ダム用セメント担当
入社時の配属は『本社建設本部』、勤務地は本社隣接栃木工場製造課ということで二ヶ月は製造現場見習いの二直三交替。六月からは関東建設局工事で戦後日本では最大規模の五十里ダム用セメントの品質設計・製造を担当するようにと課長指示があり、大体普通セメント製造管理すら未だ殆ど解らないのに、加えて特殊セメントの製造管理・建設局技術職員のテストピース試験立ち会いまで背負い込み大まごつき。結局当時建設中の浜松新工場品質設計(佐久間ダム用中庸熱セメント納入専属工場)に深く関連しての勉強も兼ねていたわけです。五十里ダム用セメント納入の仕事は順調に進み、その後引き続き栃木工場では第一・第二奥只見ダム用セメント納入の仕事に引き継がれて行きました。


1953年・栃木工場忘年会・前列左から3人目が堤氏。


1953年・栃木工場忘年会・最前列左から2人目が堤氏。

ダム用セメントの長期品質評価
昨年平成十八年は五十里ダム完成から四十五年目に当たり、ダム本体通水口拡大工事に関連してコアを抜き取ったところ、予想以上の高品質を維持し、且つ未だ以て瑞々しく緑青色に光る成長過程にあるという愕くべき報告を聞き、懐かしくも嬉しさで胸が熱くなりました。入社早々の事、緊張一杯で自分の造ったセメントが、美しい光沢に包まれ四十五年経った今尚成長を続けると言う優れた品質を証明してくれたのですから。
ダム用セメントの価値は、数十年更には百年も安定した成長を続け天変地変に耐え得ると云うことなのです。

本社建設本部員として―新工場設備性能試験―
当時本社建設本部が全力で取組中の新工場浜松工場は、大野伴睦を介しての中部圏電源開発の一環事業として佐久間ダム専用に建設された工場です。そして世界でも初のドイツレポール式大型キルンを採用しており、生産上の経済性は抜群ですが、アルカリ循環が大きなこのレポール式製造法で如何にして安定したダム用中庸熱セメント生産を行うかという課題解決が残されていたわけです。ダム用セメントに要求される性能は、打設当初の膨張と発熱を最低に押さえながら然も長期的に高強度を保持しうる性能が要求され、この為膨張性を持つアルカリは最小限度に押さえ、初期強度を低くして発熱を最小とし、しかも長期的には三〇年以上強度を増進する品質管理が製造上の眼目になります。

戦後日本では最大規模の五十里ダム。

新設備性能検討でも常にこのテーマ解決に主力が置かれていたので、私も本社研究所次長(後の浜松工場次長)の指示で試験段取り・立ち会い・データ解析を手伝わされたわけです。レポール方式は半湿式の原料造粒法で予熱機を経てキルン焼成行程に原料を供給しますがこの予熱機中の安定制御が難関で、折角造粒がうまくいっても、減圧下八〇〇度加熱時の粘土中シリカ結晶変態による膨張破裂の解決は大変な難関でした。しかし浜松工場に転勤後、独自のパン型ペレタイザー改造設計・製作にあたって大変役に立ってくれました。

佐野の夜の街で一杯
新入社員ですから元気一杯で、仕事にも遣り甲斐を大いに感じていたのですが、自分では気付かぬストレスが溜まり疲労感に滅入ることもありました。そんな時、会社が公務用(社内宴会並びに来客接待用)に経営する割烹旅館『中や』で飲めば、セメント社員は大旨【ロハ】で済む事になっているのですが、矢張り開放感と若い女っ気も欠かせず、結局先輩とか仲間達で休日に佐野市内の飲み屋街によく連れ立ってはハシゴをやったものでした。勿論原則は自費持ちですが、佐野では本社役員など上役の息のかかった酒楼や芸者の気付けなどにもよく与り、セメントの若い者がよく屯する駅前の気の利いた飲み屋で飲んでいますと、セメント芸者なる半玉らから問い合わせ電話が掛かり、ちょいちょい『ただ酒』もご馳走になったり、芸者と一杯飲みながらの冗談話などで適宜ストレスも解消していたわけです。


1954・佐野にて同期入社全員で送別会
キレイどころとドンチャン騒ぎ・中央のカーディガン姿が堤氏。

浜松工場に転勤―昭和二十九年三月―
栃木本社での勤務が丁度二年経った昭和二十九年三月、いよいよ八月稼働が決定した浜松工場への転勤が決まり、転勤辞令が出ると大変で、家への連絡は愚か身の回りの整理も手付かずの儘、早速送別会ラッシュで大忙しと云うことです。社内規約で転勤辞令発令後の新職場赴任は一週間内と決まっていますし、私の場合は本社・工場と所属が二股なので、両所属で部課単位・現場役付き・入社同期・日頃飲み友達・各種業者関連の方々など毎晩掛け持ち立て続けでお付き合いという始末。殆どは地元葛生か佐野花街ですが形式張った向きでは、館林・足利迄も足を伸ばし帰りは真夜中、終わり頃にはへとへとで疲労困憊。更にはその間に関係先への転勤挨拶・手続きそして締め括りの社内業務報告約二十頁を何とか済ました処でやっと解放されて出発です。

職員転勤の時の恒例とはいえ、いよいよ当日の朝ともなると、会社最寄り東武電車の葛生駅構内一杯に課長以下本社・工場職員、更には女子社員達迄もがどっと出張っての見送り。万歳三唱して送られるのはまあ良いとして、途中の佐野駅プラットホームにまで芸子さん数名が出張って、見番の女将共々手を振り、黄色い声を張り上げての見送りには、伝統とはいえ冷や汗やら照れ臭いものです。発車間際「ツーサン行ってらっしゃい、元気でねー、また遇おうねー」など声掛けられて。

③浜松新工場―いよいよ操業開始―

新工場始動
二年前から開始された浜松新工場建設がほぼ完了し、建設本部がいよいよ浜松現地入りしたのは昭和二十九年三月末、桜と共に胸膨らます春暖の時候でした。私も赴任するや早々と機器試運転立会、原材料試験、操業要項作成、運転作業員教育と忙殺される三ヶ月の日々が過ぎ去り、いよいよ七月に入り本格稼働開始となったのです。
何しろ当社のみならず世界的にも初経験の新大型レポール方式ということで難問・奇問・大小故障続出のなか、蓮日操業データーを囲んでの正常化検討会が繰り返され、徹夜などは日常茶飯の事でした。やがて操業も安定してやっと先が見えだした一〇月ともなると、早速佐久間ダム電源開発担当員がダム用セメント納入打ち合わせに来社し、翌年一月製造立会開始、セメント・コンクリート試験片三ヶ月養生の立会試験を経て、四月よりダム地点納入開始と言うことでスタートしたわけです。


19544月・竣工間もない浜松新工場

特殊セメント工場としてのスタート
通常はセメント工場で製造するのは普通セメントですが、その外に特殊構造物用(ダム・橋梁・道路・水中構造)とか環境対策或いは工法上のニーズ(例えば突貫性・耐寒性・耐熱性・対薬品性・耐放射線性・耐環境汚染性等々)に対応し得る特殊セメント需要があります。赴任した浜松工場は当初から普通セメント以外にダム用中庸熱セメントをも切替生産を想定してレイアウトされていましたので、あとは品質設計と操業管理を客先ニーズに如何に最適マッチさせ得るかと言うことに技術力が掛かっているわけで、ですから当時浜松工場は当社唯一の特殊セメント製造可能の大型工場という位置付けでスタートしたわけですし、地域的にも日本のほぼ中央で全国特殊品供給の利便性という、これが私を以後一四年間もこの工場に縛り付けることになろうとは当時は夢にも思っておりませんでした。

特殊品開発屋から新会社設立へのステップ
当時学卒職員は、本社・研究所を含めて全国配置二十余の工場・事業所各所勤続期間は、原則五年以内で転勤が基準でしたが、私に関しては何と浜松勤務十四年、その後も転勤と共に次々と特殊品関連の仕事を消化する立場に追い込まれ、やがて原発放射性廃棄物を含め環境関連の分野に迄拡大、遂にはリサイクル業務を専業とする住友系別会社を設立、これが年間純利益七億を定常的にたたき出す通産省推奨優良企業であると共に会社にとってもドル箱的事業となり、煽て半分にせよ『社内最大の福の神』などと社長・役員会で奉られる結末となったわけです。それは後々のことですが。


浜松着任当時の堤氏。愛機のカメラといっしょに。

特殊セメント製造展開の経緯
兎に角、当時の浜松工場は、操業安定と共にダム用中庸熱セメントの品質保持と安定供給と云うことでスタートしましたが、私もやがて製造管理責任者としてのその任を負うや、以後追加的に緊急工事用早強セメント、ダムサイト及び坑道掘削時の岩盤補強用超微粉セメントの設計・製造及び現地打設立ち会い・原子力発電所用耐放射線セメント及び放射性低レベル廃棄物処理セメント開発・現地打設試験、産業廃棄物特に有害金属処理用セメントなど総じて特殊セメント関連の業務が退社まで継続する運命に繋がって行ったわけです。

ダム用セメントの設計・製造
戦後当初のダムは超大型重力ダムが主体で、ダム本体擁壁厚みは数メートルから十数メートルと厚く、発熱膨張・崩壊を避ける為にも低発熱の中庸熱セメント使用は必須条件でした。それから一〇年を経過するうちには、擁壁重量の負担を極端に小さくするべく、限界まで薄くした超薄型オーバーハング型アーチ式ダムにと建設計画は移行し、使用セメントの名称は中庸熱セメントと変わらなくても、セメント設計仕様・品質管理面では一段と厳しく、施主が電源開発であれ水資源公団・電力会社或いは建設省いずれの立会い製造・試験中でも、全く気が置けず徹夜立会いもしょっちゅうで、お陰で我が家では毎晩角瓶とまでは行かないまでも、サントリーホワイトが大変よく売れたと言うわけです。家内が私の健康を心配して瓶にマーキングを始めたのもこの頃からでした。事実、当時イタリー、フランスなどヨーロッパではアーチダムを主体にダムサイト岩盤・ダム本体崩壊などによる死者を伴う大惨事が頻発し、こうしたニュースを聞く毎に責任者としての緊張と気の張りようは大変なものでしたし、施主の立会検査も厳しくなる一方でした。

浜松工場在勤中供給したダム客先は
佐久間ダム(重力式)、秋葉ダム(重力式)、水窪ダム(ロックフィール式)黒部ダム(アーチ式)、奈川渡ダム(アーチ式)、真名川ダム(アーチ式)でした。

佐久間ダムのレトロで美しい取水塔。

早強セメントの設計・製造
普通セメントの各社販売力は、地域供給力にも大きく影響される様ですが、実はセメント各社別品質に対すルユーザー評価に左右される点も無視出来ず、特に特殊セメント例えば早強・超早強・超微粉・パイル・高炉などに対する、施主(特に主官庁・関連団体)・工事業者の評価の如何が即普通セメント受注にも大きく影響し、試験打設の結果如何では入札から外されてしまう事態に至るなど日常茶飯事です。特に緊急工事に必需な早強セメントの品質性能評価は重要で、大型工事用早強セメントの品質説明から試験立会では販売店は勿論セメント本社・工場技術サイドも目の色を変えることになるわけです。結局厄介な特殊品の開発設計・製造は、次第に安定品質と供給力実績を保持する浜松工場に集中。社内的にも『浜松工場=特殊品供給工場』という戦略レッテルを貼られるようになった訳です。

ダム用セメントから特殊セメント開発へ
此処で特殊セメント需要面でのユーザーサイド都合について具体的にお話します。例えばダム地点需要についてですが、ダム本体・堰体補強など大容量のマスコンクリートには中庸熱セメントが、岩盤・ダム湖底などへの注入補強用は超微粉セメント、建屋・機械基礎・緊急補強用等々付帯促進工事には早強セメント供給が不可欠です。ですから供給側であるセメント工場側としても、これら特殊セメントの全需要に総合的に対応することが出来れば戦略上でも大変有利だと云うことです。さてそこで、各種特殊品開発と製造供給と云う点で、検討を進める過程で、各種特殊品品質上重要な隠された共通点が発見されたのです。

浜松工場は操業当初よりダム用セメントの開発製造を進めて来た訳ですが、前述したような共通点発見によりニーズ面からも技術面からも、早強セメントの品質設計に深く関わる事になった訳です。本来早強セメントと低熱セメントの一種である中庸熱セメントとは初期強度では全く反対の性能なので、違った品質の範疇に属するものと理解されがちですが、実は長期高強度という点では中庸熱も早強品も共通点を同じくし、寧ろ中庸熱セメントの反応性を基準として早強品の初期高強度をどう実現するかという思考法により、早強品の成分開発・製造方法を改善する方法こそ、的確な解決策のキーとなるということなのです。


1955年・浜松建設部・宿舎で仲間とくつろぐ・左から二人目が堤氏。

特殊セメントの設計製造―粒子分級性能研究―
少し専門的ですがセメント製造技術に触れてみます。通常セメント製造三工程は・・・
   原料のミル粉砕機による粉砕調合工程
   原料を一千五百度で焼いて強力な硬化性能を持つ焼塊を造るキルンによる焼成行程
   焼塊を粉砕しセメント製品化する工程です。
主要技術ではキルン焼成技術とミル系粉砕技術及びコンクリート水和反応研究です。その内キルンによる焼成行程が最も重要視され研究論文も最も多いし研究内容も豊富なので誰でも取り組み易く、要するに手っ取り早く研究を纏めて発表し、一般の受けも好いということで、若手技術者にとっては格好のテーマです。それに比し粉砕・分級行程は複雑多様で技術解明も困難なため、国内では研究発表も敬遠気味で少なく、当時やっとフランスの物理学会で粉砕媒体磨損に基づく粉砕効率の発表がなされ、この発表が化学工学的にも高度に妥当な可成り実態に即するものとして漸く注目され始めた時期でした。まあ一般に研究課題としては老練な科学技術者にすらも敬遠されていた訳です。

ところで私が研究の第一ステップとして、敢てかく困難な粉砕分級技術に取り組んだ理由は、実は特殊セメント開発とその品質の安定化のためには、粉砕と特に分級技術の把握こそが本命でありどうしても欠かせないものであると気が付いたからです。発表会場では当然主要他社(N社・O社)研究所長以下主任研究員などからの猛反撃を食らったわけですが、予想していたことでもあり、工学無視もよいとこ寧ろ、滑稽とすら言うべき彼等の過去研究発表など微塵に打ち砕き否定する結果になったのですから。その後も継続して関連発表を二、三年間続けるうちには、やがて猛反論していた他社若手研究員達の内からすら、私の研究手法に同調する発表が為される有様で、これは当然の帰結だと確信しながらも心中快哉を叫んだものでした。但し私の研究は学会でよくありがちな『発表の為の発表』では無論なく、特殊セメント開発の過程で、どうしても解決せねばならないという必然性に迫られて故の取り組みテーマで、事実私がその後セメント会社を退社するまで、ユーザーニーズに最適化し得る特殊品開発の模索上、常に有効な足掛かりとなって呉れたものでした。

―浜松の風物詩

結婚
工場所在地井伊谷は歴史的には徳川井伊家発祥の地でありますが、私の結婚そして妻と娘二人の家族四人にとっての第二の故郷でもある訳です。そして気候温暖なこの街はヤマハ楽器で始めてピアノの勉強を始めた娘達にとって忘れられない音楽の街でもあります。家内とは昭和三〇年結婚しました。社内結婚です。嫁取り交渉には父が同行してくれましたが、その時私の父が、先方即ち家内の両親に対する私を紹介しての言い草は今でも忘れられません。曰く「息子は知恵はないけれども、努力する点では誰にも負けません。娘さんも一生懸命大事にするでしょうから宜しくお願い致します」と。《親というものは良く息子を観ているものだなあ!》と内心感心したり腹を立てたりもしたものです。


1955年(昭和30年)521日の記念写真。おめでとうございます!

浜松井伊谷の風物
家内の里は浜松市から約一時間、お茶と蜜柑・花栽培が盛んで、また伝統の井伊谷歌舞伎でも有名です。気候産物に恵まれ人情も温かく緩やかですが、私はと言うと九州の大牟田の出身で、両親の故里が久留米・佐賀と性格的には多少侍気質の激しさが尚残る中で育った所為もあってか、ゆったりとした浜松の気候風土が何故か大変懐かしく気に入ったのが結婚に至る主要原因だと思うんです。工場長の媒酌で多くの周囲の方々に祝福されながら浜松で結婚式を挙げました。結婚式には学友の山下氏も出席して祝福して頂きました。家内の里の井伊谷横尾という所は、横尾歌舞伎のほか、彦根藩で有名な井伊家出自の竜潭寺・井伊谷宮などが有名で、農産物では前記した通りです。近くには浜名湖・三ヶ日・舘山寺温泉と遊びどころ見どころも一杯の地です。

娘達のピアノレッスン
我が家の娘達もこの地で育ち、密柑山・茶畑で遊び、長じては自転車練習とて田圃に落ッこちたりしながら、やがて共々浜松のヤマハピアノレッスンに通い始めたのは四歳からでした。音楽は理数系能力育成にも効果的と聞いたこともあり、将来音楽家などならなくても趣味として、また人生豊かな生活の糧として呉れればと願っての事です。浜松から彦根に転勤した後も毎土曜日午後には家内運転の車で京都通い、浜松時代の先生紹介先でのピアノレッスンを続けたが、やがて高校に進級して大学受験を控えた頃から止めとした訳です。でも以後の我家の中では何時も何処かで音楽が聞こえる感じで、ピアノ、レコード、CD、音楽会、妻・娘達の歌声等々です。それは仕事中でも時に私の耳元から胸の内まで響き癒してくれるものです。



1961年・真理さん、小百合さん、奥様と家族で記念写真。

その音曲の拠り所が自然であれ楽器であれ旋律は生涯人を癒し続け、少年期のあの荻窪教会賛美歌の響き、中学友人宅での姉妹のピアノ・レコードコンサート、海軍では海原で耳にした海嘯のどよめきと軍楽隊・軍歌の三重奏、岡谷の四季小鳥の囀り・田園の交響詩、ドイツ語の情熱的先生との力強い第九合唱、瀬川君と聴いた悲歌劇蝶蝶夫人での熱唱と、それ等は時の移ろいと共に私の人生にも癒しと感動の余韻を響かせ続けています。結局私が東京勤務になって以来は、姉妹二人とも薬科大を経て薬剤師になり、姉は都立病院勤め妹は薬局勤めで落ち着いた訳です。

社宅住まい
浜松工場では転勤者は全員新築の社宅住まいですが、都会に比しては割合ゆったりと、客室を含めて間取りも広い平屋一戸建て。田舎で来訪者も少ないなか中学同級の不破君・応用化学同窓の山下君らが仕事途中でと遙々寄って呉れましたが、家内も娘達もお客さんが珍しく、大変なはしゃぎようで毎度大歓迎でした。

7回・後編「彦根・多賀工場時代」へ続く

2012年1月19日木曜日

人生と出逢い 第6回「大学学部~応用化学科へ進学」<後編>

堤健二(昭和19年 日本中学校卒)

大島紀行記―三原山大爆発―

応用化学科の山下博万君、瀬川幸雄君、中山不羈君、そして亡くなった二村隆夫君、私の五名の写真班主体で昭和二十五年七月に伊豆大島旅行をしました。確か瀬川君の日本橋の家をはじめ各君の家を回っては夏休み前麻雀の勉強会をしながら決まったように記憶します。旅行の顛末は、私の兄が当時東京都大島支部転勤で元町官舎に居り、此処を拠点として五泊六日の計画でした。伊東港発で大島元町港の沖合に近づくほどに三原山十年ぶりの噴火開始を望見したわけです。遙か大島の三原山と覚しき辺りに煙立ち込め、やがては青一色広がる大空に、もくもくと噴煙が流れゆく眺望は自然の神秘を見ているようでありました。

噴煙を上げる伊豆大島・三原山

元町港埠頭先にある牛乳風呂に皆飛び込み、フルちんのまま風呂小屋の屋根に上ると感動の余り『おうおう!』と叫んだ者もいました。山は噴火の影響か曇りから雨が続き中々登れないし危険と云うことで通行禁止になってしまったのです。やがて明日は登れるぞと情報が入り、火を吹く三原山に登りました。途中閉鎖中の気象観測所(野生の山羊が十数匹暢気そうに小屋替わりに住み込み)を経て、一刻も早くこの大自然の鼓動『火山の大爆発、いや運が良ければ真っ赤な大溶岩流』を見なければと、椿に覆われた狭い山道をあがること二時間、遂に頂上の外輪山避難小屋(洞窟)まで辿り着いたのでした。しかし肝心の火口に近づくのが大変で、火山は間歇的に爆発を繰り替えし、その度に火山弾塊が火口遙か上に吹き上がり、火口壁付近に盛んに降るので危険この上ありません。然し爆発のタイミングを看ながら一気に外輪山から火口壁まで駆け上がると、そこは鼻を突く硫黄臭に覆われ、タオルで顔半分を押さえ乍ら暫し火口内溶岩流を覗き込むこと暫し、赤黒くときに火花を散らし『ぶっすんぶっすん』と音立てて煮えくり返る様はまるで地獄の様相と相見えた感でした。そして時を移さず、一気にまた外輪山まで逃げ帰るのです。脱兎の如く後ろを振り向かずにまっしぐら!

昭和61年の大噴火。昭和25年の大爆発同様の凄まじさ。

日を替えて翌日、火口から岡田港に向かって流れ始めた大溶岩流を見に行きました。やがて海に落ち込み水蒸気爆発を起こしている幅二、三十米真っ赤な溶岩流を、そのすぐ横で、表面は黒くても未だ熱々の溶岩台地の上に立ち乍ら、眺める景観とスリルは素晴らしい思い出です。さて地獄のような火の山を降りると、そこはもう平和一杯の農漁村、土産物店と居酒屋が港の波止場近く迄迫り、我々の日課は、打ち連れて毎夕刻からの伊豆七島名産鮮魚料理と、各島それぞれに自慢の焼酎無料試飲を楽しみ、締め括りは港を囲む松林中、海風も爽やかに四阿での麻雀に興ずる毎日でした。

大島・岡田港

五十年後の壮挙―三原山再探訪記―

以後の大島
我々が大島旅行をした後の事ですが、昭和四十年、元町の港近く寿司屋からの出火が原因で全焼に近い大火、昭和四十九年小規模噴火、昭和六十一年の全島規模の大噴火、そして平成二年小規模噴火を境として以後三原山は沈静化しているが、旅行以後五十年の歳月を経ては元町始め全島の変貌は如何様かと思ったりしていた訳です。

五十年後の壮挙
そして応化同窓会の席上で山下博万君と酒杯を交わしているときだが、突然大島再度探訪の話を彼が提唱して来たのです。前回同行のメンバーでと言うので、早速二村君、瀬川君共に賛成してくれ実施と決定。中山不羈君とはアメリカ出向一来連絡がとれないまま、山下君、瀬川君、二村君そして私の四名で再探訪と決まった訳です。往きは熱海港発となり、埠頭近所極ウマの鉄火丼をビールで乾杯しながらのスタート、そして出港。昔の思い出をなぞらう懐かしい旅の始まりでした。

現在の伊豆大島・元町港

外輪山から火口壁のあたり、更には元町の面影どこもかしこも全く様相が変わってしまって。まあ考えてみれば当然のことで、あの後の継続する噴火・海まで流れる溶岩流・元町を全焼した大火・旧火口どころか島全体に及ぶ第二次大噴火の試練を経た今日ですから。失われるものあれば新たな発見あり、でも学生時代昔の伊豆七島焼酎の居酒屋がまた再開して大繁盛していたり、行き届いた観光ルートも加えて、夫はそれなりに昔と懐かしく対比しながらの三日間の旅は無事終わったのです。ゆっくりと歳を数え乍らの旅でした。

伊豆七島・島焼酎

「人生時に遊び乍ら友を識る」。共に旅行をして初めて気が付く事ですが、五十年間を経ては、友人達の老いての大成、健康では山下君の糖尿病の進行とか二村君の少々元気すぎる体力ぶりなど気使うこと等々です。そしてこれは後々の旅行の楽しさと共に思い掛けない別れをも示駿するものでした。数々の旅行死別等々。

新たな旅行への出発
さて、この日を基点として新たな何回かの旅が私達四名の前に始まった訳です。軽井沢・草津紀行、塩原、箱根、富士五湖周遊等々と愉快な素晴らしい数年間を過ごすことが出来ました。二村君が健康のためと軽井沢別荘で毎週土曜日課としていた二㎞強泳中に突如亡くなるまで。ですから今は中断していますが、やがて再び二村君がよみの国から帰ってきて『よう!一寸用事があってね。また何処か旅行に行こう!今度は何処にする?』と声を掛けてくるのを待っている気分です。

スキー旅行

スキーについての少し古い話をしますと、冬季オリンピック第一回開催は大正十三年(1924年)フランスシャモニー・モンブランでしたが、日本は大正十二年関東大震災(1923)直後で不参加。しかし日本のスキー熱は昭和初め頃から可成り盛りあがり、私が始めたのも昭和八年(1933年)六才のこと。小学生仲間では未だ珍しいスポーツでしたが、ねだって伊勢丹で買って貰い、新品のスキーを穿いては、当時雪のよく降る東京の坂道で盛んに滑って遊んだものです。

堤氏が山スキーで腕を磨いた雪の霧ヶ峰ゲレンデ頂上。八ヶ岳と富士を望む。

本格的に滑り始めたのは岡谷からで、塩尻峠・霧ヶ峰高原周辺で地元山岳部員に混じっての軍用幅広の山スキーでした。昭和二十四年早大学部にはいってからは、交通公社のスキークラブに入会し、同級の白木君も会員になり一緒に石打ヒュッテを皮切りにツアーに参加し赤倉丸池等々検定を受けては三級まで進みながら卒業まで続けました。応化同級の角田君・佐藤君等も参加したことがあり懐かしい想い出の一コマです。磐城セメントに勤務してからは、本社が栃木県葛生で長野信越国境に近く、冬金曜日の夕刻から土日の二泊三日で何度か石打に早大出身の川端氏とスキーに出かけたものでした。

友人達に思うこと

応化のクラス会は卒業以来何と毎年欠かさず催行され、毎回殆どの友人が集まるという本人達ですら愕く記録を更新してきました。敗戦後という苦労の年月に共に学び、荒廃した社会に出ては、誇り高く世のため己のため戦い抜いてきた、言わば戦友の様なものだからでしょう。皆賢くも解っているのです「楽を求めず、困難を怖れず敢えて力一杯挑戦すればこそ、次の更に充実した人生が開けるのだ」と。ですから彼等と共に居るとき、苦労話など絶えて聞いたこともありません。敢えて皆苦労に挑戦して生きてきた同志であり、いつも実に楽しく生き甲斐を共有できる仲間なのですから。そして皆愕くほど元気なのです。その仲間も今や八十路を少々越す年代ともなれば、近頃はぽつぽつ欠ける者も出てきて少々寂しさを感じている昨今です。ですからこの頃の同窓会では、皆元気であってくれと専ら健康法のPRに極力努めているわけです。長生きのため腰痛など起こさぬようにと。

関西・九州工場見学旅行    

卒業の前年昭和二十六年夏、大坪先生引率で私を含め希望参加者七名、大阪を皮切りに中国地方から九州八幡製鉄に至る工場見学旅行に出発した。行く先々の会社事業所で、先輩方の精一杯暖かい歓迎会・懇談会など気遣いが感じられる等世間を学んだ旅でした。研究者で格好よい先輩もいれば、地味な現場業務の作業服で対応される方と様々ですが、それぞれ環境は異なれども、結局ご自身というものを『如何に精一杯磨き、如何に実力を発揮させて居るか』ということをその姿、話に学びました。

新日本製鐡・八幡製鐡所・東田第一高炉

全般的に見学企業は、概ね敗戦からの復興に丁度起ちあがり、開発の機運に燃え立ちつつあったのですが業態も様々で、私たちへの対応も、大宴会で歓迎してくれる企業もあれば、寮の狭小な小部屋に宿泊させ、従業員食堂で質素な食事で対応する企業等々様々でしたが、それなりに勉強になった訳です。因みに参加者は古平君、二村君、山下君、打矢君、歌門君、白木君、そして私、ところで失敗談をひとつ・・・


 
宇部興産割烹旅館での酩酊・失敗

この一夜は、大坪先生の級友で且つ会社役員の先輩肝煎りでの大宴会となり、不覚にもつい飲み過ぎた私はトイレに立った迄は憶えているのですが、倒れて便器一式破壊という大珍事を惹き起こしながら、眠り込んでは知らぬ間に介抱されると言う体たらく、旅館中にも有名になるやら、同行の皆さんに迷惑を掛けるやらで、今迄実に六十年間、否、一生忘れられない日となり、恥ずかし乍ら酒を飲む時の戒めとしています。葉隠でも「酒と言う物は仕上がり綺麗にすべし」とあり仕上がり綺麗と凛とした武士らしく飲めとの誡めです旅行後故里へ。

旅行は八幡製鉄見学で終わり、皆さんは思い思いに連れ立って長崎・雲仙・熊本・阿蘇と観光旅行を続けられたようですが、私は別行動で福岡瀬高に向かい、自らも親戚中からも『女傑』と認められた叔母を訪ね、大牟田から佐賀一帯の親戚(父は久留米大善寺村、母は柳川橘、叔母、従兄弟は瀬高、佐賀等筑後川域)を紹介されながら挨拶廻りをして来たわけです。

筑後川

工場見学と言えば社会勉強もありますが当然来年の就職の参考も兼ねてということでもありますが、当時私の就職先については、既に種々コネを介して磐城セメント・三井電化・宇部興産・富士ゼオン・八幡製鉄などの話しが候補に挙がって居り、そろそろ具体的に決めて対応せねばならぬ処に来ては居たのですが、一方胸の内では寧ろ東京周辺の製薬会社とか病院勤務のイメージの方が自分には相応しい様な気もして居た訳です。家の事情、老弱男女人の引っ掛かりもありましたから。

宇部興産珍事の後日譚

この旅行の後日譚となりますが、例の私が飲み過ぎ失敗をした宇部興産の専務さんから、突然九月下旬に、明日大坪研究室を訪問されるという電話連絡があり、用件は私の宇部興産入社の件で、姪子さん同行で大坪研究室に乗り込んでくるとのこと。先生は「どうするかね?あの専務の姪子さんじゃあんまりなぁ!・・・」と微妙な表情で私を見詰められる(美人ではなさそうと云うことか?)私も首を傾げるしかない訳です。そこで先生は決然と「いやならいっそ会わない方が良いかも互い!本人不在と言っておくからね」と仰有って呉れたのです。そしていよいよ当日、ドア越しにそっと姪御さんは如何?と私も気に掛かるし男ですから覗いてみたのです。可成りすらっとした美人でした。残念!


大坪研究室(大坪先生と加藤忠蔵先生)

江戸っ子金座の出の大坪先生

先生は江戸時代から代々日本橋金座(銀座)小判作りの家出身で、いわば父子相伝の錬金術師と云うことです。早大出の教授中では最先任でもありますが、独自研究論文の無機反応講義最中でも、熱が入ると本格的なべらんめえ調がでて先生も思わずにやりとしたものです。
 
     応用化学科・大坪研究室(右から2番目が堤氏・4番目が大坪先生)


卒論は大坪研に決定

昭和二十六年が明けて早々、打矢君と一緒に本郷の先生宅に呼ばれ、大坪研での卒論研究員を打診された後、夕食会では、気麗しい奥様や色白の双子のお嬢さん方まで紹介され、今思い出しても『ちょっと怖いが実は気さくな江戸っ子』という感じでした。そして本郷のお宅を辞去した帰り道、打矢君は既に観念していて「大坪先生じゃ仕方ないかな!」と呟き、私もその時を境に当面「有機合成化学研究」への思いはすっぱりと消し去り、無機化学工学の世界へと全力取り組むことにしたのです。勿論永い一生のこと何時有機の世界に取り組む機会も来ないじゃありませんが。

そして学部四年生になり大坪研での卒論取り組みが始まるや、覚悟はしてましたが、先生の卒論指導の厳しさは、成る程錬金術師代々の出自だけあって『ケミスト』の貫禄充分と納得しました。早稲田応化の創始者小林研究室の跡を引き継いだ大坪研究室は応用化学科本館入り口直ぐの一号研究室大坪無機研と、燃料研究所の加藤研の双方を指導していましたが、結局卒論では大坪研の方は私と荻原君、加藤研の方は打矢・佐野の両君と分かれて別個に指導を受け、殆ど交流は無かった訳ですし、大坪先生とは子弟関係の加藤忠蔵先生も、主として燃料研究所に居られなかなかお目に掛かる機会はありませんでした。

三月初旬に学生全員の卒論発表会が行われ、教授陣による質問・論評そして合否判定を以て全学習完了となり全員無事卒業となったわけです。大坪研・加藤研では卒業後は結局無機屋の荻原君は特許屋に、燃料研の佐野君は日本石油社へ、打矢君は硝子専門屋で小西六写真社に、私はセメント専門屋としての生涯への第一歩を皆それぞれに踏み出したのです。

先生方論文発表前の論争に学ぶ

そんな卒論期間中のことですが、ある土曜日の午後、私の卒論テーマは“ピンクセリサイトの成分特定と応用”というまあ化粧品開発に近い様なものでしたが、卒論の纏め方で大坪先生の指示を仰ごうと先生の室に入ろうとしたときですが、ドアの向こうから突然、激しく議論を闘わす声が聞こえてきます。それは大変激しいもので、まるで口論中今にも掴み掛からんばかりの調子なのです。

早稲田大学・旧図書館(設計:日本学園OB今井兼次博士)

私はビックリしてそっとドアの端から部屋の中を窺ったのですが、なんと大坪先生と加藤先生が研究結果について激論を闘わせているところだったのです。学者・研究者とは同室の子弟の間でもかくも激しく、容赦なく理論闘争を展開することが必要なのか?と普段は温厚な恩師達にかく思いも寄らない一面もあるのだと改めて学ぶ思いでした。多分学会で加藤先生が重要な研究発表をされる予行練習だったのではないかと後で思ったわけです。これは私にとっても後に何回かセメント協会での研究論文発表に際し、他社主任研究員、場合によると研究所長などとの激しいやりとりの場合にも大変役に立ちました。我が研究は発表する以上はそれなりの準備をし、一歩たりとも譲ることは許されないのですから。さて話を加藤先生に戻します。

磐城セメント見学

加藤先生のお供をして、卒業前の夏休み(昭和二十六年八月)に磐城セメント本社・栃木工場の見学に出張しました。当時大坪教授が技術顧問をしておられる関係で、早大出身技術社員採用を考慮してか?磐城社技師長(東北大)、本社総務部長(早大)、栃木工場次長(早大)の段取りで計画されたもの。当時磐城社の本社・研究所並びに栃木工場は栃木県葛生町というとんでもない山奥で石灰の町に所在し、他に六工場が全国的にフル稼働していました。

東武・佐野線・葛生駅(葛生町は合併して現在は佐野市)

大変な黒字経営で、そして三菱または住友財閥系列参入と資金調達を前提とする羽鶴ドロマイト工場建設(新日鉄高炉稼働対応)、電発ダム建設対応では浜松・岐阜更には福島と最新鋭大型工場(ドイツ・レポール社開発)建設計画が、当時既に一部着工と図面引きの段階に入っており、優秀な技術、事務社員の大量採用計画も進めていた訳です。さて案内も懇切丁寧な見学終了後、会社直営割烹旅館で同社の早大先輩方との懇談会が催され、席上諸々の話の末に偶々株の話になりますと、なんと加藤先生が株価を殆ど覚えておられ、次々と言い当ててゆく記憶力には私よりも先輩方の方が感嘆してしまう一幕もあり、未だ世知辛い世でした。

猿井先生は呉系楚人『秦氏』子孫か?

世知辛いと言えば大坪研分析室で今一人忘れられない先生はというと、分析試薬使用に対し細かく厳しく、然し散々実験の度に世話になった猿井先生です!一寸ニヒルな容貌で、でも実はとても暖かい方だったと思います“分析のために生まれてきた人”といった印象でしたが。大坪研で卒論が終わる最後までそうでした。

実は私は姓名と職業の関係には多少興味を持っておりまして、姓名学的には猿姓は秦氏【渡来人で呉系楚人:秦王の命令で「上海」近辺の呉より孔子の故郷、山東半島「楚」に移動した民族ですが、秦始皇帝の国家統一(BC206年)の際、『万里の長城』建設の為に遼東半島に移民させられ、建設終了直後の毒殺難を避けて高麗国へ、その後新羅を経て日本に渡来】の出として紀元前より倭の産業・技術発展の主流を成したといわれ、例えば持統女帝の支持勢力として秦氏は伊賀・甲賀(後の忍者)・浜松地域で養蚕・織紡を始め各地で薬種・薬品・染色・窯業・兵術・忍術を、飛騨地方では木工・土工、京の瓦・焼き物工などなど倭国の殆どの技術職に従事し強大な集団勢力を誇っていたと伝えられます。

万里の長城

流れとして現在でも各種技術者・特に化学系・メッキなどの技術者に多く見出されます。猿井先生も若しかすれば秦氏の子孫で、伊賀忍者の故郷伊賀上野辺りの出身ではと、以前から一度確かめておくべきだと思いつつ今日に及んでしまいました。

亡くなられた友人達のこと

鈴木佐喜雄君とは私が住友の浜松工場に勤務している頃(昭和三十五年頃)、浜松ホトニクス勤務なので一度会いたいと連絡を戴いたのですが、私の方が忙しさにかまけて、その内には彦根転勤などで遇わず仕舞いでしたが、本社リサイクルセンタ新業務に着任後はシェアーが全国的な展開となり、電子系新素材活用の件で本社研究所の者と同行し、会合の機会を持ちました。以後数回訪問・懇談することがありましたが、当時彼は技術系常務で会社発足当初からのトップ、光倍増管の開発に関して、例のテレビ開発で有名な高柳博士の指導をうけていた関係で、戦時中の海軍飛行機搭載レーダ性能の悪さとか、終戦直前の高柳博士の開発取組の経過実態などよく知っていて話してくれました。

高柳健次郎。大正15年、電子式テレビで
世界で初めて「イ」の字を映しだすことに成功。

高柳博士は浜松ホト創設当初からの顧問で光電技術開発に関与された訳です。鈴木氏の専門は光電増幅管技術で、例のノーベル賞受賞者小柴さんの宇宙線粒子に関する実験設備の総ては、彼が開発から一切を担当した画期的な仕事であり、若くして残念ながら前立腺ガンで亡くなりましたが、生きて居れば彼もその受賞の栄誉には当然預かった筈でした。彼は温厚篤実な人柄で、私が千代田社技術顧問時代に、新日鉄MRI開発担当者と同行した際にもホトニクス社長、副社長を紹介され懇切な対応を戴きました。

田中守君とは分析実験で同じテーブル。彼は分析が素早くさっと終えて後、手帳に書き込んだ外国フォークとか民謡を口遊さんでいて、横にいる私にも何曲か教えて呉れたものです。「これこれ!」と例の手帳を見せ、なんと英語の歌がびっしりと書いてありどうだと言うのです。その時彼から習った歌は“You are My Sunshine”とかJingle Bell”に始まり十曲余り、今でも忘れません。その後も一人の時、或いはコンパで飲んだ時にはよく口遊びしたものです。気さくで明るい友で、何故か早世されたのが何とも惜しまれます。

本田尚士君のこと

高等学院に入った頃、父は東京発動機社の方針でオートバイ販売部門を独立関東発動機の社長になり、日本オートレース協会の会長をもしていました。その当時の副会長が本田宗一郎氏であり、会議などの帰りには接待用に経営する料理屋で一緒に会食するのが常でした。私も父に云われて三回ほど同席させて貰いましたが、当時は浜松の町工場社長然といった大変磊落で、好く飲みよく遊ぶと言った人柄で、しかし夜中どんなに遅くなっても、さっとオートバイを跳ばして、当時未だ真っ暗な東海道を箱根声で必ず浜松に帰るような人でした。

スーパーカブに乗る本田宗一郎氏

その本田社長が『自分の親戚で本田という者が早稲田高等学院にいるはずだが』と父に云ったというので、偶々その頃私は本田君と学院の校庭で出遭ったので『やあ!』と私が声を掛け、本田君も笑って『やあ!』と返事したので解っているのだと独り思い込んでいた訳です。確かめもしないまま本田尚士君が宗一郎氏の縁戚者本人だとばかり思い込んで何十年もいた訳です。ですから本田君が優秀なのは当然としていた訳です。本田君は陸軍幼年学校生え抜きの武人と言ったところですが、早くから化学工学関係技術士の資格を取得し、本田創造工学研究所を設立し、技術士育成と国内外のコンサルタント業務に生涯専心務めた鹿児島出身の人でした。従ってまた卒業以来殆ど本拠は東京に置いていた関係で、彼の事務所は同窓生達にとっては連絡事務所の感すらあり、上京の折には多くの者が気楽に立ち寄り、また応化同窓会は彼の努力により卒業以来欠かさず毎年実施されてこられた訳です。今は彼が鹿児島に引っ込んだ後を受け継いで、結局私が同窓会を段取りさせられていると云うことです。

早大を巣立ちいよいよ社会へ

敗戦から復興へ―己を振り返る―

明治生れで三井に育った父から、幼いなりに人権と科学重視の生き方を教わりつつ、やがて父に薦められて入学した日本中学では日本主義と、郷土佐賀の「葉陰武士道」を骨格とする日本人としての倫理観を自覚した。そして時勢が国運を賭しての対米戦争へと逼迫すると、私は海軍航空兵として戦士の路を選んだ。然しそれは智力・心身共に不撓の軍人としての鍛錬を共にした戦友教官等数え切れない方々の戦死と、国土の壊滅を目前としつつも、一握りの生存者中の一人として敗戦を迎える結末であった。次いで岡谷での再起、それは晴耕雨読の日々、自然と一体となった本来の己に立ち還る再生であり、ニーチェら諸哲学・倫理観は再生への不動の魂を育ててくれた。国の再建への自覚はやがて早大での先端技術者を目指す勉学の日々となった。早大は佐賀鍋島出身の大隈候が『葉陰』の倫理観を基礎に創学された学府とも云えよう。その精神「学の独立、学の活用、模範国民の造就」を以て、今、国の敗戦からの再建そして世界一流を目指す飛翔点に私も立ったのです。

愈々社会へ

敗戦から起ちあがり、今一度世界一流を目指さねばならない国の第二ラウンド、思えばそれはあの終戦の翌日から既に始まっていたのです。大戦で亡くなった三百万とも言われる犠牲者の無念にも応えるべく、今生き残った者がナンとしても成し遂げねばならぬ日本人全てを捲き込んでの大事業なのです。私にとっての基本路線は飽く迄「徹底した人権と科学重視社会の実現」ですが。

そして今私も第一歩を社会へ向かって踏み出そうとしています。会社選択の詳細経緯は次項で述べるとして、孰れにせよセメント会社磐城社の入社が決まった以上、これを起点として力一杯国の再建を担ってのスタートと自覚すべきことです。未だ全くと言って好い未知のセメント・コンクリート業界ですが、己という人格とそこに培われた独自の技術力を、精一杯創造に生かす人生でありたいと誓っての出発でした。強大なダム建設をイメージしつつ、やがてそこから芽生える筈の先端産業と科学国家再建への情熱に燃えた出発でした。


201112月初旬・錦秋の母校にて。

7回・前編「セメント屋―先ずダム屋から―」へ続く